タタリ編-魔王の繭 - 1/5

食堂を出ると、リウド村は少しだけ活気が戻っていた。
軒先で、村の主婦が「今頃大龍祭かしらねえ」とつぶやきつつ、大根を細く切って干している。
傍らでは子供たちが、柳の葉っぱと小枝で舟を作り、川べりで夢中になって遊んでいる。
「見てー!この葉っぱ舟、めっちゃ速い!」
「オレのが沈まないし!」
祭りの話題はほぼ出ず、川遊びに全振り。

大龍祭で村を離れる人も多いけど、
「ウチは川で魚捕ってたほうがよっぽど楽しいよ」
とあっさり。
主婦も「お祭りもいいけど、干し大根作っとかないと冬が越せないからね」なんて現実派ムーブ。
そんな光景を横目に、サタヌスは小声でボソッと。

「…リアルだわ」
「アルルカンでも、祭りに全然参加しねぇ奴、必ず数人はいたな……」
ガチ旅人目線だからこそ沁みる“田舎の日常あるある”。
都会でも田舎でも「祭り<マイペース」な人種はどこでも一定数いる。
そんな共感がふと心に残る。

ふっと見上げると、屋根の上からこちらを覗く猫が数匹。
サタヌスは無意識に、猫と視線を合わせた。
そう――彼の特技だ。
スラム育ちの彼は、猫やネズミ限定で“話ができる”。

「こわいものがくる?」
猫がしっぽを揺らし、小さな鳴き声で応える。
「……そうか。急がなくちゃな」
チェンシンが、あくまで買い物帰りの雑談みたいに肩をすくめる。
「そういや言ってなかったな」
「お前さんと接触したのは、天狐皇様の勅命だ」

サタヌスは振り返り、やれやれと眉をひそめる。
「…は?今さら?」
「いやおっさん、最初から怪しすぎたからなんとなくそんな気はしてたけどな」
怒るでもなく、むしろ妙に納得した顔でため息をつく。
チェンシンは煙管を軽く鳴らし、にやりと笑う。
「あはは、バレとったか。さすがタタリの器。勘は鋭いね」
「まぁ、テンフー様は妖狐でも長生きであらせられるから、ちと言葉が古くてな」
煙の輪が、夜空へ溶けていく。

「サタ坊にわかりやすく訳すと――」
「“デリン帝国の中心・帝都デリン・ガルで、魔王が目覚めんとしている”」
「“勇者に出会ったなら、そやつを導き、帝都へ送り届けよ”――そう仰せつかってる」
サタヌスはしばらく黙っていた。
やがて、ポツリとつぶやく。

「勇者、って……ガイウスのことか?」
チェンシンは火の粉をじっと見つめながら答える。
「……さぁ?天狐様は“勇者は四人”とも言ってた」
「赤い髪、銀の髪、青き神官、黒髪の子……お前は、どの子だ?」
サタヌスは肩をすくめ、目を伏せる。
「知らねーよ」
「俺、勇者じゃねぇし…ただ、あいつを――ガイウスを追ってるだけだ」
チェンシンは、やさしく微笑んだ。
「“追いかける者”が一番、導きに向いてるもんさ」
風が吹き抜ける夜道。
その言葉は、不思議なほど温かく、サタヌスの背中を静かに押した。

夜の村道、猫がどこかへ消えたあと。
サタヌスはチェンシンの背中に問いかけた。

「あんた……本気で天狐皇に忠誠を誓ってるのか?」
チェンシンは煙管をカチリと鳴らし、横目でサタヌスを見る。
「命は受けている。だがな、忠誠なんぞ誓った覚えはないよ」
その声は軽い。
だが、その奥にある“冷たさ”は夜の空気によく馴染んでいた。

「“あの御方”は魔王の首と血で、朽ちぬ器を作られるおつもりらしい」
「と、取り巻きはそう言ってる」
「天狐様本人の御意志かどうか、俺は知らんし、知る気もない」
サタヌスはしばし黙り、地面の石畳をじっと見つめる。
「……知らんでいいのかよ」

チェンシンは少しだけ目を細める。
「やんごとなき御方の考えなんざ、下々には理解できん」
「いや、理解しちまう方が怖ぇんだ」
言葉の後に、乾いた風が路地を吹き抜けた。
その一瞬に、二人ともほんの少しだけ。
“自分の役割”という重さから解放されたような、そんな気がした。
夜明け前。
崖の上に、サタヌスとチェンシンの影が静かに並ぶ。
空はまだ薄闇を残しつつ、東の端だけがわずかに白んでいた。

夜のリウド村。
人の姿は消え、石畳には猫だけが残っていた。
サタヌスはしゃがみ、路地裏の暗がりから現れた一匹の猫と視線を合わせる。
その猫は、村の猫たちの“元締め”らしく、どこか堂々とした風格を漂わせていた。
「最近、帝都のほうから妙な気配が流れてくる」
「猫たちの間でも、夜になるとみんな身を寄せ合って震えてる」
サタヌスは苦笑する。
「俺にどうしろってんだよ……」
「わしは元締めだからな、離れるわけにはいかん。子分たちが心配する」
「……でも、もし俺が何かしでかしたら、お前らの隠れ家まで巻き込むかもしれねぇぞ」

「そこは、あんた次第だろう?」
「行くなら気をつけな。お前さんは“こわいもの”と向き合う時がきたんだろう」
「……それだけ、伝えとく」
サタヌスは猫の頭を軽く撫でる。
「……ありがとよ。お前が消えたら、この村も本当に終わりだな」
猫はサタヌスの手を嫌がりもせず受け入れ、
ふいに目を細める。

「……帰ってきた時は、また下水のネズミでも分けてやるよ」
「……生きて帰れよ、“人間”」
サタヌスは笑った。
「俺はネズミじゃなくて、次は魚がいいな――」
猫が尻尾を揺らし、闇に溶けていった。
サタヌスはその背中を見送りながら、
「本当に、こえぇのは人間の方かもな……」と小さく呟いた。

—–

眼下には、黒雲と濃霧に包まれた巨大都市――デリン・ガル。
その中心から、まるで天を貫くかのように、黒い渦が立ち昇っている。
鳥の群れが渦の端をかすめ、帝都は「死」と「再生」の只中に沈んでいた。
サタヌスは目を丸くして呟く。
「オイ!? デリン・ガルってでっかい都なんだろ!」
「なんかブラックホールみてぇになってんだけど!?」
口を尖らせてみせるが、本能的な恐怖が背中を這い上がる。

チェンシンは肩をすくめ、
「さしずめ――魔王の繭ってとこかねぇ」
「いよいよ目覚める時なんだろうさ、あの“何か”が」
「なあ、マジで言ってんのか……?」
帽子の端を押さえ、チェンシンは優しく微笑む。
「残念ながら、俺はただの人間だ。ここまでしか導けねぇようだな」
「――あそこに入れるのは、“勇者様”か、“聖剣”を持つ者だけさ」
ふいに、サタヌスの右手の甲がふわりと橙色に発光した。
優しく、力強く、まるで「大丈夫」「行ける」と語りかけるように。
サタヌスはその光を見つめ、聖痕をそっと握る。

「……そうか」
しばし無言。
やがて、サタヌスはチェンシンに向かってにやりと笑った。
「短い間だったが、楽しかったぜ、オッサン」

チェンシンも微笑み返す。
「そりゃ光栄だね」
「……達者でな、サタ坊」
「お前さんが“どの勇者”か、俺にはわからんけど……行ってこいよ、“お前の物語”に」
夜明けの風が二人の間を吹き抜ける。
サタヌスは、一歩、また一歩と崖の端へ向かう。
その背中には、もはや「迷い」も「逃げ」もなかった。

そして、まるで崖を飛び降りるように。
サタヌスは魔王の眠る都へと、ただ一人、走り出していった――。

丘の雪を踏みしめながら、サタヌスは黙々と歩いた。
靴の裏で凍った地面がバキバキと音を立てる。
空はまだ朝の色をわずかに残しているが、その先に広がる帝都デリン・ガルは、
まるで夜の底に沈む黒い繭――いや、“魔王の巣”と化していた。

その時だった。
ふと、視界の端を何かが駆け抜ける。
最初は鹿の群れ。驚いたように斜面を駆け下り、森の奥へと消えていく。
続けて、低くうなる野犬、空をかすめる鳥の影、
最後には、雪を蹴り上げて走る熊まで――

みんな、本能のままに“あの都”から遠ざかろうとする。
命あるものすべてが「ヤバい」と直感して、サタヌスの進む先とは逆方向へ逃げ去っていくのだ。

それでも、サタヌスは一度も足を止めなかった。
肩を震わせ、指先をきつく握りしめながらも、
ただ前だけを見て、一歩、一歩と進む。

“怖い”なんて、もうとうに通り越した。
けれど、逃げ出す理由はいくらでも思いつくのに、
それを振り払うように、サタヌスは唇を噛んだ。

「どんなにでっけぇヤツも、命が惜しけりゃ逃げるさ」
「だけど俺は──“人間”だからな」
「ここで逃げたら、アイツらに顔向けできねぇ」

凍てつく風が頬を刺す。
だけど心は、奇妙なほど静かだった。

背後で逃げていく影たちの足音が、だんだん遠ざかっていく。
そのたび、サタヌスの決意だけが、逆に強くなっていった。

丘を下りて北へ進むにつれ、景色は“命の色”を失っていく。
最初に出会うのは江南の名残。
柳の並木、石畳、軒先にぶら下がる赤提灯――
風にあおられてバサバサと揺れるだけ。
もはや祝う者のいない旧正月の飾りは、
遠い過去の幸福をただ物悲しく映し出す。

戸口の前には、朽ちかけた爆竹の燃えカス。
去年までは「祝福」の声が響いていたはずなのに、
今はもう、白い雪と泥にまみれて転がるだけだ。

大通りの雪解けには、派手な凧や赤い装飾が散乱している。
赤や金の色だけが、まるで“不自然な異物”のように
灰色の世界に取り残されている。

道端の轍跡――
避難民が捨てたらしい荷車や馬車の車輪痕。
その脇には、落ちた人形。誰にも拾われず、泥にまみれ、車輪で潰されて顔がひしゃげている。

歩を進めるごとに、“終わった祝祭”はいつしか
「壊れた世界」の痕跡へと変わっていった。

やがて風景は田舎町から大地へ。
家屋の屋根は瓦から、やがて尖塔や木造へ、
針葉樹や白樺林が雪の中に立ち並び、
国境近くには崩れた関所や、ロシア語の看板――
「ストップ」や「デリン・ガル」など、見慣れぬ都市名が冷たく刺さる。

遠く、モスクワを思わせるドーム屋根、
都市外壁のシルエット。
そこから先、雪に赤黒く染みた血痕や、燃え残りの荷車――
霧と煤煙のような黒い帯が都に向かって流れ込む。

気づけば、生き物の姿も消えていた。
鹿も、犬も、鳥さえも、もうどこにもいない。
「命の途絶えた」領域が、
静かにサタヌスを飲み込もうとしている。

そして、ついにデリン・ガルの外縁――

青空は完全に途切れ、黒雲と闇だけが空を覆う。
都市の外壁や建造物は、輪郭が歪み始めている。
まるで現実が壊れ、夢と悪夢の境界が消えたかのよう。

サタヌスが吐く息すら、黒く染まっていくような、
そんな寒さと重苦しさが、全身にのしかかる。

それでも少年は進む。
祝祭の残骸と、命の気配が消えた世界の中を――
ただ“魔王の繭”の中心へ。