キャラバンの荷台に荷物が積まれ、御者が手綱を掲げる。
夕方六時。出発の時刻が迫っていた。
金属の鈴が「チリチリ」と軽やかに鳴り、
馬車の車輪が砂利をかき分ける音が広場に響く。
「おう、出発か!」
食堂の前で、炭鉱夫たちが手を振る。
「またカルボナーラ食いに来いよー!」
「また来てね!フラン君ー!」
子供たちの無邪気な声が重なる。
カボチャのランタンがゆらゆらと揺れ、にぎやかな送り出しになっていた。
だが、その最中――。
「いや違うのー!!俺はねぇ!!魔お――」
馬車に乗りかけたガイウスが、全力で声を上げかけた瞬間。
ルッツの手が彼の口にピシャリと覆い被さった。
「むぐぐ……!」
ガイウス、じたばた。
口は塞がれ、身動きも取れず、もがくも言葉は出ない。
目だけで、全力で抗議していた。
ルッツは半眼で彼を見下ろしながら、小声でピシャリ。
「バカ、軽々しく名乗るなっての。魔王軍がこの辺にいない保証、どこにあるのよ」
バルトロメオが悪びれず、涼しい顔でにやりと笑った。
「な?“ガイウス”なんて言うと、めんどくさい連中に目をつけられる」
「ここはせっかく定着したんだ、“フラン君”で通そうじゃないか♪」
「……!」
口を塞がれたまま、目に全ての怒りと否定の意志を込めるガイウス。
しかしルッツの手は動かない。代わりに、おかしそうに笑う。
「はいはい、フラン君。次の町でも、怪物扱いされないように頑張ってね?」
ガイウスは渾身の睨みを二人に向けた。
だが馬車は無情にも揺れ始め、出発の合図が響いた。
チリチリと鈴の音。
荷車が石畳を叩きながら、ゆっくりとノルトンの街を離れていく。
後ろには、煤けた街並みと、橙のランタン。
笑い声と、たった一言の呼び名――「フラン君」。
それらを背に、ガイウスは無言のまま座り直し。
掌に残る少女のぬくもりを思い出していた。
“俺は人間だ”と、口には出せなかった。
でも――あのときの手は、誰も傷つけなかった。
だから、それでいい。
馬車は遠ざかる。
次に向かうのは、帝都――デリン・ガル。
彼は何と名乗るのか。
“勇者ガイウス”か――それとも、“人造の怪物”か。
夕焼けの光に照らされながら。
ガイウスはただ黙って、前を見据えていた。
夜が深まり、炭鉱都市ノルトンの灯が遠ざかる。
煤に染まった街並みは、いつしか丘の向こうに消えていた。
キャラバンは闇を裂いて進んでいく。
星のない夜道。
馬車の車輪がゴトゴトと石を叩くたび、微かな揺れが体を包んだ。
ランタンの灯に照らされた三人の影が揺れている。
ガイウスはマントを肩にかけ、背を壁に預けて目を閉じていた。
そんな中で、ぽつりとルッツが言った。
「せっかくだしさ」
彼女は足を抱えて座りながら、ちらとガイウスを見やる。
「六将って奴らも、あんたの所在探してそうだし……決めちゃいなよ、偽名」
悪戯っぽい笑みを浮かべて続ける。
「ブリティッシュっぽい名前で、愛称が“フラン”。ね?」
ガイウスは目を細め、苦笑して頭をかいた。
「……1年前は“誰それ?”って顔されてたのになぁ」
「勇者のネームバリュー……恐ろしいぜ」
向かいに座るバルトロメオが、懐から羽根ペンを取り出す。
「僕も考えよう」
にこやかに言いながら、慣れた手つきで羊皮紙を広げ、サラサラとペンを走らせる。
まるで舞のように軽やかに、筆跡が美しく並んでいく。
Francis
Franklin
Franz
François
羊皮紙には、流麗な英国風の男性名がずらりと並んだ。
どれも読み方次第で、愛称は同じ。“Fran”。フラン君。
バルトロメオは満足げに微笑んで、ペンを収めた。
「ほら、どれも立派で、なおかつ“フラン君”で通る。
偽名にしては、なかなかの品格じゃない?」
ルッツが覗き込み、クスクスと笑う。
「ふーん……案外似合ってるじゃない。フラン君」
ガイウスは、ため息まじりにぼやいた。
「……俺の名前はガイウスだっつーの」
と、ぼそり。
けれど次の一瞬、ほんの小さく――。
誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりとつぶやく。
「……けどまぁ、悪くねぇな」
“誰かになる”ことで、追われる名前をひとつ隠す。
“誰でもない誰か”として、旅を続けるために。
そうして、“フラン”という偽名が、旅の中に静かに根を張っていく。
馬車は走る。
夜道の先には、帝都デリン・ガル。
そして、“勇者”の名前が再び問われる地が待っている。
けれど今はまだ、 揺れる馬車の中で、ただ一言。
「フラン」という新しい呼び名だけが、灯りの中に溶けていた。
馬車の揺れに任せながら、バルトロメオが一枚の羊皮紙を持ち上げた。
サラサラと筆記体が並んだその紙を、にっこりと掲げて見せる。
「僕の中では……絞り込めたのはこの二つかな」
指先が、二つの名前をなぞる。
「――フランシス・オールダー」
「――フランツ・ロングフェロー」
ルッツがくすくすと笑いながら横から覗き込む。
「どっちも紅茶とスコーンが似合う名だわね」
「ねぇキズ野郎、どっちが好み?」
ガイウスは半眼で二人を睨みながら、眉をひそめた。
「どっちにしたって、俺のキャラじゃねぇだろ……」
そう言いつつも、ちらりと紙を見て、しばらく黙り込む。
無言の数秒。
そして、ふっと鼻で笑った。
「……でも、“フランシス”のほうがまだマシか」
バルトロメオが満足げに指を鳴らす。
「決まりだね。今日から君は――“フランシス・オールダー”」
「愛称はもちろん……フラン君♪」
ガイウスは軽く頭を抱え、嘆くように言った。
「……勇者の看板捨てたら、今度は怪物の名前で生きるのかよ」
ルッツはわざとらしく肩をすくめ、いたずらっぽく笑う。
「でも、気品あるじゃん。フラン君」
笑い声が馬車の中に溶ける。
誰も“勇者”とは呼ばない。
でもそれが――この旅の新しい始まりだった。
ノルトンの夜はすっかり過ぎ。
星のない道を、キャラバンは静かに進んでいく。
その馬車の中、“ガイウス”という名前は。
そっと眠りについたままだった。
馬車の揺れが少し落ち着いた頃。
ルッツがふと、紙に書かれた文字列をじっと見つめながら、くすりと笑った。
「ところでさ……“フランシス・オールダー”って、なんか響きがすごく“古風”よね」
バルトロメオが反応するように微笑んで、軽く頷く。
「うん。“フランシス”っていう名前自体がね、貴族っぽい古典名なんだ」
「で、“オールダー”は“年を取った”とか“古いもの”って意味にもなる」
「つまり……」
ルッツがいたずらっぽく口角を上げる。
「古風なフラン君、ってこと?」
「いかにも古典文学から抜け出した、どこかズレたお坊ちゃんっぽいわけだ」
ガイウスは眉をひそめたまま、うんざりした声を漏らす。
「やめろ。……今の俺に“古い”とか言われるの、地味に刺さる」
バルトロメオは笑いを堪えつつ、隣のもうひとつの名前も指差す。
「じゃあ“フランツ・ロングフェロー”はどうだい?」
「フランツ」はドイツ系、「ロングフェロー」は詩人の名前。
でも、言葉そのままに読むと――。
「のっぽのフラン君」
ルッツが吹き出しかけた。
「いや、それガイウスじゃなくて、バルトの方が似合うじゃん!」
「確かに俺はダンサーだし、足も長いしね♪」
得意げに足を組むバルトロメオ。
ガイウスは天を仰ぎながら、ぼそりと。
「……この中から選ばなきゃいけないって時点で、俺の選択肢って地味に地獄だよな」
ルッツが笑いながら背を伸ばす。
「でも、その“地味な地獄”から選んだのが“フランシス・オールダー”」
「キズ野郎、意外と捨て身のセンスあるじゃん」
ガイウスは肩をすくめ、天井を見上げたままぼやく。
「だったらいっそ、“フランク・ワイルド”とか“フラン・ザ・マッド”とかの方がまだマシだった」
「いや、それもう賞金首の通り名だよ」
「でも確かに似合うかも」
ルッツの真顔に、ガイウスが頭を抱えた。
「……やっぱり“フラン君”で呼ばれるの、地味に屈辱だわ」
そう言いながらも声にはどこか。
笑いの輪に加わっている自分への許しが混じっていた。
夜の馬車はごとごとと進む。
煤の匂いが遠ざかり、代わりに湿った草の香りが窓から入り込んでくる。
揺れるランタンの下で、ガイウスは頭を抱えていた。
「……俺は国外追放喰らって絶賛放浪中。戻れねぇ理由がある感じにしないとな」
真面目に言ってるのに、返ってきたのは楽しげな声だった。
「では“放浪卿”なんていかがでしょう?」
勇者ファンの娘が両手を胸に当てて提案する。目はキラキラと輝き、完全に物語の住人だ。
「已む無き事情で旅に出ていると暈せば……きっと素敵です!」
「もう少し肉付けすればいけるな」
親方がどっしりと腕を組んでうなずいた。
「家督問題とかどうだ? 財産争いに巻き込まれた、とかよ」
御者台の方から、がらがらした声が混じる。
「いやいやぁ、“家督問題”は鉄板だが、ちょいと色を付けましょうぜ」
元御者のおじさんが、手綱を操りながらにやりと笑う。
「従兄弟と仲違いして、泣く泣く国を出た……なんて芝居はどうですかい?」
「それもう貴族あるあるじゃん」
ルッツはソーセージを齧りながら肩をすくめる。
「逆にリアルで怪しまれないかもね」
「いいねぇ」
バルトロメオが羊皮紙を片手に、すらすらと書き込んでいく。
「“フランシス・オールダー卿”、別名“放浪卿”。四勇者を敬愛し、各地を巡る高潔な紳士。
ほらガイウス、これで次の町でも“ただの変人貴族”として笑われるだけで済む」
馬車の中に笑いが広がる。
ガイウスはぐっと目をつぶり、深々と頭を抱え込んだ。
「……俺の過去を盛るな。生きてるうちに伝説になっちまうだろ」
それでも、仲間とキャラバンの面々の笑い声は止まらない。
まるで芝居の脚本を練る一座のように、彼らは“フランシス卿”を作り上げていった。
そしてその名は、やがて本当に彼の盾となる――
馬車は進む。
闇の先にある帝都へ向かって。
“偽名”という仮面をかぶった“元勇者”を乗せて――。