キャラバンの荷台に荷物が積まれ、御者が手綱を掲げる。
夕方六時。出発の時刻が迫っていた。
広場は賑やかだ。
炭鉱夫たちが笑い、子供たちが手を振る。
その輪の外から、小さな足音が近づいてきた。
「フラン君!」
振り向くと、あの女の子が立っていた。
今日は煤も涙もなく、きちんと髪を結っている。
その隣に包帯を巻いた男が立っていた、点検主任――父親だ。
腕と頬に軽い火傷の痕。
だが背筋は伸び、娘の肩に手を置いている。
ガイウスは一歩、近づいた。
「もう大丈夫なのか? 火傷は」
男は少し驚いたように目を瞬かせ、そして穏やかに笑った。
「はい。すぐ神官様に診てもらって……もう自然に治るから大丈夫だと」
娘が誇らしげに言葉を継ぐ。
「おとうさん、つよいんだよ!」
ガイウスの肩から、ほんの少し力が抜ける。
「そうか……よかった」
短い言葉。だがその奥に、確かな安堵があった。
主任は一歩踏み出し、深く頭を下げる。
「あなたがいなければ、私はあのまま……」
言葉が詰まる。
男は職人の手で帽子を握りしめた。
「魔導エンジンを守るのが仕事でしたが……あの日は、あなたが私を守った」
炎の中で聞いた泣き声、あのときの震え。
全部、ここに繋がっている。
娘が、もじもじと前に出る。
「フラン君……」
少しだけ照れた顔で、小さな包みを差し出した。
「これ、どうぞ。おとうさんの工房でつくったの」
中には、歪だが丁寧に磨かれた金属の小さな歯車。
魔導エンジンの部品の欠片だ。
「……おまもり」
ガイウスはしばらく見つめ、それを受け取る。
重くはない、だが不思議と確かな重みがあった。
“神話を終わらせた機械”の一部を、守った父親の娘が差し出す。
皮肉だ、そして優しい。
「……大事にする」
娘が満面の笑みを浮かべる。
「またきてね、フラン君!」
その呼び名に、ほんの少しだけ苦笑が滲む。
でも、否定しなかった。
父親がもう一度、深く礼をする。
「あなたの旅路に、加護がありますように」
ガイウスは小さく頷き、馬車へと向かう。
掌に残るのは少女の温もりではなく、小さな歯車の感触だった。
壊すのではなく、守るために回るなら。
それもまた、人の作った“神話”かもしれない。
「おう、出発か!」
食堂の前で、炭鉱夫たちが手を振る。
「またカルボナーラ食いに来いよー!」
「また来てね!フラン君ー!」
子供たちの無邪気な声が重なる。
カボチャのランタンがゆらゆらと揺れ、にぎやかな送り出しになっていた。
だが、その最中――。
「いや違うのー!!俺はねぇ!!魔お――」
馬車に乗りかけたガイウスが、全力で声を上げかけた瞬間。
ルッツの手が彼の口にピシャリと覆い被さった。
「むぐぐ……!」
ガイウス、じたばた。
口は塞がれ、身動きも取れず、もがくも言葉は出ない。
目だけで、全力で抗議していた。
ルッツは半眼で彼を見下ろしながら、小声でピシャリ。
「バカ、軽々しく名乗るなっての。魔王軍がこの辺にいない保証、どこにあるのよ」
バルトロメオが悪びれず、涼しい顔でにやりと笑った。
「な?“ガイウス”なんて言うと、めんどくさい連中に目をつけられる」
「ここはせっかく定着したんだ、“フラン君”で通そうじゃないか♪」
「……!」
口を塞がれたまま、目に全ての怒りと否定の意志を込めるガイウス。
しかしルッツの手は動かない。代わりに、おかしそうに笑う。
「はいはい、フラン君。次の町でも、怪物扱いされないように頑張ってね?」
ガイウスは渾身の睨みを二人に向けた。
だが馬車は無情にも揺れ始め、出発の合図が響いた。
荷車が石畳を叩きながら、ゆっくりとノルトンの街を離れていく。
後ろには、煤けた街並みと、橙のランタン。
“俺は人間だ”と、口には出せなかった。
でも――あのときの手は、誰も傷つけなかった。
だから、それでいい。
次に向かうのは、帝都――デリン・ガル。
彼は何と名乗るのか。
“勇者ガイウス”か――それとも、“人造の怪物”か。
夕焼けの光に照らされながらガイウスはただ黙って、前を見据えていた。
夜が深まり、炭鉱都市ノルトンの灯が遠ざかる。
煤に染まった街並みは、いつしか丘の向こうに消えていた。
キャラバンは闇を裂いて進んでいく。
馬車の車輪がゴトゴトと石を叩くたび、微かな揺れが体を包んだ。
ランタンの灯に照らされた三人の影が揺れている。
ガイウスはマントを肩にかけ、背を壁に預けて目を閉じていた。
そんな中で、ぽつりとルッツが言った。
「せっかくだしさ」
彼女は足を抱えて座りながら、ちらとガイウスを見やる。
「六将って奴らも、あんたの所在探してそうだし……決めちゃいなよ、偽名」
悪戯っぽい笑みを浮かべて続ける。
「ブリティッシュっぽい名前で、愛称が“フラン”。ね?」
ガイウスは目を細め、苦笑して頭をかいた。
「……1年前は“誰それ?”って顔されてたのになぁ」
「勇者のネームバリュー……恐ろしいぜ」
向かいに座るバルトロメオが、懐から羽根ペンを取り出す。
「僕も考えよう」
にこやかに言いながら、慣れた手つきで羊皮紙を広げ、サラサラとペンを走らせる。
まるで舞のように軽やかに、筆跡が美しく並んでいく。
羊皮紙には、流麗な英国風の男性名がずらりと並んだ。
どれも読み方次第で、愛称は同じ。“Fran”。フラン君。
バルトロメオは満足げに微笑んで、ペンを収めた。
「ほら、どれも立派で、なおかつ“フラン君”で通る。
偽名にしては、なかなかの品格じゃない?」
ルッツが覗き込み、クスクスと笑う。
「ふーん……案外似合ってるじゃない。フラン君」
ガイウスは、ため息まじりにぼやいた。
「……俺の名前はガイウスだっつーの」
と、ぼそり。
けれど次の一瞬、ほんの小さく――。
誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりとつぶやく。
「……けどまぁ、悪くねぇな」
“誰かになる”ことで、追われる名前をひとつ隠す。
“誰でもない誰か”として、旅を続けるために。
そうして、“フラン”という偽名が、旅の中に静かに根を張っていく。
「僕の中では……絞り込めたのはこの二つかな」
指先が、二つの名前をなぞる。
「――フランシス・オールダー」
「――フランツ・ロングフェロー」
ルッツがくすくすと笑いながら横から覗き込む。
「どっちも紅茶とスコーンが似合う名だわね」
「ねぇキズ野郎、どっちが好み?」
ガイウスは半眼で二人を睨みながら、眉をひそめた。
「どっちにしたって、俺のキャラじゃねぇだろ……」
そう言いつつも、ちらりと紙を見て、しばらく黙り込む。
無言の数秒。
そして、ふっと鼻で笑った。
「……でも、“フランシス”のほうがまだマシか」
バルトロメオが満足げに指を鳴らす。
「決まりだね。今日から君は――“フランシス・オールダー”」
「愛称はもちろん……フラン君♪」
ガイウスは軽く頭を抱え、嘆くように言った。
「……勇者の看板捨てたら、今度は怪物の名前で生きるのかよ」
ルッツはわざとらしく肩をすくめ、いたずらっぽく笑う。
「でも、気品あるじゃん。フラン君」
笑い声が馬車の中に溶ける。
誰も“勇者”とは呼ばない。
でもそれが――この旅の新しい始まりだった。
馬車の揺れが少し落ち着いた頃。
ルッツがふと、紙に書かれた文字列をじっと見つめながら、くすりと笑った。
「ところでさ……“フランシス・オールダー”って、なんか響きがすごく“古風”よね」
バルトロメオが反応するように微笑んで、軽く頷く。
「うん。“フランシス”っていう名前自体がね、貴族っぽい古典名なんだ」
「で、“オールダー”は“年を取った”とか“古いもの”って意味にもなる」
「つまり……」
ルッツがいたずらっぽく口角を上げる。
「古風なフラン君、ってこと?」
「いかにも古典文学から抜け出した、どこかズレたお坊ちゃんっぽいわけだ」
ガイウスは眉をひそめたまま、うんざりした声を漏らす。
「やめろ。……今の俺に“古い”とか言われるの、地味に刺さる」
バルトロメオは笑いを堪えつつ、隣のもうひとつの名前も指差す。
「じゃあ“フランツ・ロングフェロー”はどうだい?」
「フランツ」はドイツ系、「ロングフェロー」は詩人の名前。
でも、言葉そのままに読むと――。
「のっぽのフラン君」
ルッツが吹き出しかけた。
「いや、それガイウスじゃなくて、バルトの方が似合うじゃん!」
「確かに俺はダンサーだし、足も長いしね♪」
得意げに足を組むバルトロメオ。
ガイウスは天を仰ぎながら、ぼそりと。
「……この中から選ばなきゃいけないって時点で、俺の選択肢って地味に地獄だよな」
夜の馬車はごとごとと進む。
煤の匂いが遠ざかり、代わりに湿った草の香りが窓から入り込んでくる。
揺れるランタンの下で、ガイウスは頭を抱えていた。
「……俺は国外追放喰らって絶賛放浪中。戻れねぇ理由がある感じにしないとな」
真面目に言ってるのに、返ってきたのは楽しげな声だった。
「では“放浪卿”なんていかがでしょう?」
勇者ファンの娘が両手を胸に当てて提案する。目はキラキラと輝き、完全に物語の住人だ。
「已む無き事情で旅に出ていると暈せば……きっと素敵です!」
「もう少し肉付けすればいけるな」
親方がどっしりと腕を組んでうなずいた。
「家督問題とかどうだ? 財産争いに巻き込まれた、とかよ」
御者台の方から、がらがらした声が混じる。
「いやいやぁ、“家督問題”は鉄板だが、ちょいと色を付けようぜ」
元御者のおじさんが、手綱を操りながらにやりと笑う。
「従兄弟と仲違いして、泣く泣く国を出た……なんて芝居はどうだい?」
「それもう貴族あるあるじゃん」
ルッツはソーセージを齧りながら肩をすくめる。
「逆にリアルで怪しまれないかもね」
「いいねぇ」
バルトロメオが羊皮紙を片手に、すらすらと書き込んでいく。
馬車の揺れが落ち着き、ランタンの灯が穏やかに揺れている。
ガイウスが腕を組み、ふと真顔で言った。
「最後の問題は……俺の顔は知られてる可能性があることかな」
空気が一瞬、静まる。
確かにそれは重大だ。
元勇者。帝国に名が通っていてもおかしくない。
「なぁ、顔を隠す方法って知らねぇ?」
御者のおじさんが、すぐに笑った。
「いやぁ、そんなのカンタンでさぁ」
キャスケットのつばを指で弾く。
「帽子を目深くかぶって、黙ってりゃいいんです」
「関所の騎士は、どうせ通る人間の顔は五秒も覚えてればいいんですから」
妙に説得力がある、親方が確かに頷いた。
「せっかくだ。オレのお古のシルクハットをかぶせてみな」
荷台の奥から、黒いそれが出てくる。
年代物だが形は崩れていない、艶のある黒だ。
抗議する間もなく被せられ、全員が、ガイウスを見る。
帽子の影が、彼の目元を深く覆う。
赤い髪はほどよく隠れ、顔の傷も半分沈む。
マントの襟を軽く整え姿勢を伸ばす。
結果そこにいたのは、完全に英国紳士だった。
空気が三秒止まり。――爆笑が響く。
「なんで似合うのよ!!」
ルッツが腹を抱える。
バルトロメオが目を細めて拍手する。
「これは……想像以上に“卿”だね」
勇者ファンの女の子が、きらきらした目で叫ぶ。
「素敵です、フランシス卿!」
ガイウスは帽子のつばを指で少し下げる。
本人が一番分かっていた、これは使えると。
“勇者ガイウス”は荒々しい。
だが“フランシス・オールダー卿”は、静かで品がある。
姿勢を正し、ゆっくりと一礼してみる。
「ご機嫌よう」
その瞬間、再び爆笑。
「完璧じゃん!!紅茶持たせたい!」
「むしろステッキが欲しいな!」
ガイウスはため息をつきながら、帽子を軽く押さえた。
だがその口元には、わずかに笑みがあった。
仮面でもいい。
誰かになることで、前に進めるなら。
ランタンの光の中、“フランシス・オールダー卿”は誕生した。
馬車は進む。
闇の先にある帝都へ向かって。
“偽名”という仮面をかぶった“元勇者”を乗せて――。