デリン・ガル。
デリンクォーラ帝国の心臓部にして、大陸一の鉄壁を誇る帝都。
その門をくぐる者は、皆、関所の審査を通らねばならない。
旅人、商人、芸術家、貴族、兵士、果ては魔導技師に至るまで。
名を偽れば拘束、素性が怪しければ入国拒否。
帝都の土を踏む者には、“証明”が義務付けられていた。
なぜならここは、世界でも最も重たい政治と技術と魔術が交差する場所。
闇ギルド、反乱軍、魔王軍残党――“外”の不穏を一切許さぬ、帝国最後の砦だった。
――そんな厳格な関所の一角。
広い審査室の中で、ひとりの男が机に足を投げ出していた。
書類の山。
そのてっぺんに、胡乱な態度で座る金髪の青年。
雷の刻印を頬に持つ、帝都関所責任者・ユピテル。
指先でページをめくりながら、実に退屈そうに息をつく。
「……“フランシス・オールダー”?」
彼はその名を読み上げると、すぐに鼻で笑って紙束を放り投げた。
「ガイウスじゃねェな。あの野郎の名前は……もっと、こう、嫌な感じに響く」
パチリ、と指を弾く。
小さな雷光が爪先から弾け、空気が微かに焦げた。
「国外追放されてから、どこ消えやがった……」
「“アイツ”と“アイツ”……」
関所の机に広げられた山のような書類を、ユピテルはぞんざいにめくっては放り投げていた。
所在が分かる者は監視で足りる。
ヴィヌスは故郷にひとり帰って塞ぎ込み。
メルクリウスも聖教の腐敗を暴くなどと口実を並べながら、勝手に自壊の道を歩んでいる。
あの二人は放置しても構わない。いや、放置した方が勝手に潰れてくれる。
だが――。
指先が机をトントンと叩き、雷光が小さく弾けた。
「行方知れずってのが、一番タチが悪ィんだよ……」
ガイウス。
アルキード王国から追放され、復讐心に燃えるアヴェンジャー。
ノルトンでの一件を耳にして以来、姿をくらまし、どこへ消えたかも分からない。
サタヌス。
制御不能のバーサーカー。
メキア砂漠か、はたまた東方カリヤか……噂ばかりが飛び交い、影も掴めない。
よりにもよって、最も放置してはならない二匹の怪物が、揃って行方不明。
帝国の牢獄よりも、魔王軍の支配よりも恐ろしいのは、この不在だった。
ユピテルは舌打ちをひとつ。
背筋に、雷鳴にも似た苛立ちが走る。
帝国にとっても、魔王軍にとっても、この二人の不在は不気味だった。
――見えない場所にこそ、最大の脅威が潜んでいる。
「ガイウスとサタヌス――一番潰すべき危険因子が、そろって雲隠れとか。苛つくぜ」
その言葉に返すように、静かな足音が近づく。
後方から、一歩。
シルバーグレーの執事服。
完璧に整えられた立ち姿。
銀盆の上には白磁のティーポットとカップ。
“六花将軍”・カリスト・クリュオス。
彼は膝を折るようにして優雅に一礼し、淡く微笑みながら進み出た。
「……ユピテル様、お茶のお代わりを」
陶器のカップに、音もなく紅茶を注ぐ。
その手つきは丁寧で、慎ましく、そしてどこか――祈るようだった。
ユピテルは舌打ち混じりに唇を歪め、カップを受け取る。
「……クソが。アイツらさえいなけりゃ、とっくに全員処分できてんのによ」
ぐい、と紅茶を飲み干す。
甘さはない。香りも感じていない。
ただ喉を通る液体が、怒りの熱をわずかに冷やすだけ。
けれど次の瞬間――カップの中の液面が、小さく波打った。
ユピテルの苛立ちが、そのまま雷の気配となって広がったのだ。
空気が一瞬、ビリビリと振動した。
その様子を、カリストは一歩下がって見守っていた。
目を伏せ、静かに立ち尽くす。
けれどその目は――微かに潤み、そして、微笑んでいた。
(……この雷に焼かれてもいい)
(この苛立ちの火花に、また少しでも近づけるなら……)
カリストの視線は、陶酔と忠誠が絡んだ静かな狂気を孕んでいた。
関所審査官の机に、一枚の書類が置かれた。
しっかりと封蝋された羊皮紙。
書式は古風ながら、記入は丁寧。
不備も誤字も、矛盾すら見つからない。完璧だった。
――申請名:フランシス・オールダー卿
――種族:ヒューマン
――年齢:二十代半ば
――出身地:アルキード王国・王都ラピア
――職業:旅の文筆家、歴史研究家、時折吟遊詩人まがいのパフォーマンスも
――経歴:東方より長く放浪を続ける“放浪卿(ワンダリング・ロード)”。
特にかつて存在したとされる“四勇者”への関心が深く、
その遺跡、土地、伝承を辿る旅を続けている。
――備考:
「フランシス卿はあくまで文化的研究の延長として旅をしており。
政治・宗教・軍事・魔術結社等との明確な関わりは持たないものとされる」
提出者:キャラバン代表ギルド「ノルトン発・灰路会(あいろかい)」
添付証明:身元保証3名、キャラバン同乗証、帝国正規通行許可証
審査官は眉一つ動かさず、すっと印鑑を押した。
――通過許可。
キャラバンが、ざわめきと共に前進する。
ガイウスは、フードを深く被ったまま列の最後尾にいた。
見送りの言葉すら、誰もかけなかった。
まるでただの“旅人”として、静かに帝都の門をくぐった。
彼のことを、誰も“ガイウス”とは呼ばなかった。
ただ、「四勇者オタクの旅好き貴族卿」。
世の中にはそういう“変わり者”も、一定数いる。
という、妙にリアルで突っ込みづらい身分だった。
そして、それを“仕立てた”のは。
キャラバンの連中総出で作られた、徹底した裏設定の積み重ねだった。
「なにせ、ほら」
「“ガイウス”の話をするたびに涙ぐむんだよ、あの人。ちょっと痛いくらいの信者でさぁ」
「“自分の中の英雄に触れたい”って理由で旅してる貴族様よ」
「剣? いやぁ、ファングッズらしいよ!モデル刀!なっ、ハハハ!」
誰もが笑いながら、しかし、その身分を護った。
笑うことで、本当のことを――誤魔化してくれた。
だから。“フランシス・オールダー”は、誰にも疑われなかった。
ただひとつ。 皮肉なことに――。
「かつての自分を追い求める者」という嘘の名乗りが。
最もガイウスという存在を的確に言い表してしまっていた。
(……ほんと、よくできた茶番だぜ)
ガイウスは一人、街の空気を吸いながら呟いた。
帝都の石畳は、夕陽を吸って鈍く光っていた。
灰路会の荷馬車が止まり、親方の声が通りに弾む。
「んじゃ灰路会はここで、さっ積み下ろしだ!てきぱき動きな!」
屈強な荷運びたちが一斉に動く。
麻袋が肩に担がれ、木箱が石畳に下ろされる音が、乾いたリズムを刻む。
御者が軽く手を上げた。
「はいよ~。お三方、達者で」
いつも通りの軽い調子。
だが、その目はちゃんと分かっている。
この三人がただの旅人ではないことも。
勇者ファンの少女が、一歩前に出る。
小さな胸に抱えたノートをぎゅっと握りしめ。
「フランシス様、ご武運を」
“勇者様”ではない、その呼び方をきちんと選んだ。
ガイウスは、一瞬だけ視線を落とした。
「ありがとう。あなたの旅路にも、幸運を」
声音は穏やかで、温度がある。
少女は頬を赤らめて深く礼をした。
荷車の列が、ゆっくりと遠ざかる。
陽の光の中に溶けるように、笑い声と車輪の軋みが消えていく。
そして残されたのは三人。
エルフの少女、ダンサーの青年。そして――。
「いやはや。帝都の空気は、やはり格別ですね」
ルッツが瞬きをし、バルトロメオは無言で眉を上げた。
ガイウスは懐中時計を取り出す。
それはバルトの私物。金縁の細工が美しい。
カチ、と蓋を開き秒針の音が小さく刻む。
その間に、シルクハットの角度を指先で整える。
顎を引き、肩の力を抜き、視線を遠くへ流す。
所作が滑らかだ、荒々しさが影もない。
歩幅は一定、足音は静か、背筋は真っ直ぐ。
“ガイウス”の面影が、消える。
そこに立っているのは。
育ちの良い、どこか世間知らずな放浪卿「フランシス・オールダー」
ルッツがぽつりと呟く。
「……キズ野郎、どこ行ったの」
「失礼だな、ルッツ嬢」
微笑みながら、わずかに目を細める。
「勇者とは、理想を纏うものです」
その言葉は、冗談のようで本気だった。
勇者時代は期待される言葉を選び、希望を乗せる声音を作り。
“理想の勇者像”を演じ続けた。
あれは猫かぶりではない、訓練だ。
相手が何を求めているか?どんな声であれば信じるか?
ガイウスは、それを知っている。
だから今も理想の“英国紳士”を、完璧に再現できる。
「いや完成度高ぇよ。お前マジでそのまま社交界行けるぞ」
「恐縮です」
「ムカつくくらい似合ってるのが腹立つ」
ガイウスは視線を帝城へ向けた。
塔の先端が、夕陽を受けて黄金に染まっている。
あの中にいる、雷の魔将が。
自分を追放の地へ叩き落とした、あの男が。
胸の奥で、何かが軋む。
だが表情は崩れない、微笑みは完璧だ。
「さて。花の帝都。まずは宿から参りましょうか」
声は優雅だが、帽子の影に隠れた目だけが、冷えている。
勇者は理想を演じ、追放者は復讐を隠す。
狂犬は、シルクハットを被った。
帝都はまだ気づいていない。
最も危険な男が、最も無害な顔で、門をくぐったことに。
帝都の中央通りは、まるで舞台装置だった。
石畳は磨き抜かれ、魔導灯は夕闇の前に淡く灯り始める。
ショーウィンドウには絹、宝石、時計。
香水と焼き菓子の匂いが風に混じる。
「それで、ヴァンクリーフ君。私は帝都は初めてなのだが」
声は柔らかい、歩幅は一定。
杖も持っていないのに、杖があるかのような余裕。
「できるならば、路地裏の人目に付きにくい宿はあるかね?」
言葉は穏やかだが“人目に付きにくい”という言葉に、ルッツが横目で見る。
ああ、始まるな、と。
バルトロメオは、わずかに口角を上げるだけで答えた。
「ありますとも、フランシス卿。こちらへ」
方向転換は自然。
大通りをまっすぐ進みながら、角を二つ、三つ。
すれ違う令嬢たちが、ひそひそと囁く。
「あら、アルキード王国の方かしら? あのあふれ出る気品、間違いありませんわ」
「ええ。アルルカン貴族のような品のなさがありませんもの」
ガイウスは聞こえている、だが振り向かない。
ほんの僅かに、口元を緩めるだけ。
歓声も、憧れも、妬みも、全部浴びた。
だから視線に揺れない、称賛に酔わない。
「キズ野郎、楽しんでない?」
「まさか」
帽子の影で、目が一瞬だけ鋭くなる。
兵の配置も魔導灯の数も監視塔の角度も、全部見ている。
全部、記憶している。
紳士の仮面の奥で、魂はもう走っている。
「ここだ」
バルトロメオが案内した宿の看板は控えめ、派手さはない。
だが出入りする客は堅実そうだ。
ガイウスは軽く顎を上げる。
「良い選択だ、ヴァンクリーフ君」
扉の前で空気が変わる、ここまでは紳士。
ここからは――。
ガイウスは帽子を外し、軽く埃を払う。
その仕草はまだ優雅だが目が完全に“復讐者”に切り替わった。
「部屋を取ったら、すぐ動く」
フランシス卿は、宿の扉をくぐる。
そして中で狂犬が、首輪を外した。