トウキョウ物語-中野/新大久保/渋谷編 - 5/5

「昔の吸血鬼って、お城で血を吸ってたのに……今はカフェで食べるんですね」
マスターは微笑を崩さず、丁寧に答えた。
「ええ。薬泉院の皆様が“吸血衝動抑制薬”を開発してくださったおかげでして」
「むしろ、人間を直接襲わなければいけない場合は――」
「“病気の可能性”があるのです」
その言葉に、プルトの視線がわずかに揺れた。
血を吸うことが“病気”。
それは美学の死であり、伝統の終焉でもあった。

——

《医史録抜粋》

風魔宮は、他の魔王城とはまるで違っていた。
寝室と王の間を除き、壁というものが存在しない。
そこにあるのは、無数の柱と、風を受けて揺れる蒼い幕。
城そのものが風の楽器のように、音を奏でていた。

「颶風の王」――オロバス。
その名が示す通り、この城の主は“風”そのものを支配する。
だが同時に、それは何も遮らないということでもあった。
秘密も、感情も、思想さえも。
この場所においては、すべてが風に晒される。

高空にあるその回廊を、一人の女が歩いていた。
白い外套をはためかせながら、髪を風に乱さぬよう抑えもしない。

薬泉院初代院長――ブエル。
医療と理性の象徴。
彼女は風魔宮の空気を計測するように、
足元の影の長さを一瞥し、歩みを止めた。
「久しぶりです、大公殿下」
その声は静かだが、風よりも鋭く通る。

王の間。
玉座の背後に広がる大空を背景に、
オロバスがゆるく片肘をついて座っていた。
「……あぁ、ブエル。また薬泉院の経営が芳しくないのか?」
風が彼の外套を揺らす。
それは笑いに似た動きだった。
ブエルは首を横に振る。

「いいえ。徐々に理解者が増えてきています」
「ほう?」
「“真祖”を名乗る輩が、私のような小娘の言葉は聞かぬというのです。
――ですが、大公殿下の言葉であれば、動くかもしれません」
オロバスの瞳が細まった。
金緑の双眸が、遠くの雲を映す。

「……つまり、お前は私に権威を貸せと言うのか」
ブエルは軽く頷いた。
「彼らは“進化”を誤解しています。血を吸わねば生きられぬ者を“弱者”と呼び、
吸わずに済む者を“選ばれし者”と崇める。その偏見を正したいのです」
「理屈の上では分かる。だが……」
オロバスはゆっくりと立ち上がり、玉座の階段を降りる。
「風は理屈では止まらん。お前の医療は“正しい”が、“美しくはない”。」
ブエルは動じない。
風でコートがなびこうが、紙が舞おうが、一切気に留めない。
彼女は静かに書類を差し出した。

「美とは主観です。私は病を治したい。
“風の流れ”に、邪魔をされたくはないのです。」
オロバスはその書類を手に取り、風でめくれたページを押さえた。
「……ブエル、お前という女は本当に退屈を知らんな」
ブエルは小さく微笑んだ。
「退屈とは、感情の病理です。治療の対象に含まれますよ?」
その瞬間、風が止んだ。
風魔宮が“静寂”という名の奇跡に包まれる。

オロバスが息を吐く。
「……お前にだけは勝てん」
ブエルは深く頭を下げた。
「勝敗ではありません、データです」
そして、背を向けて歩き出した。
再び吹き始めた風が、彼女の白衣をはためかせた。

—-

だが、それを語るマスターの声はどこまでも穏やかで、祈りのようだった。
レイスはメニューを閉じながら、低く呟いた。
「……時代だな」
プルトは目だけ動かし、静かに笑う。
「昔は“支配の象徴”とされた者が、今は治療対象ですか」
「フフ……面白い」
赤いライトが、二人の輪郭を染める。
グラスの中で血が光り、ピアノの音がゆっくりと“心臓の拍動”に変わっていった。

文明とは、怪物を治療することだ。
そして、怪物はそれを笑う。
赤い照明が、わずかに揺れた。
グラスの中の血が、呼吸するように波打つ。
湿った空気と、焦げた香り。渋谷の夜の底には、まだ火が残っている。

革のジャケットに鉄臭い香水を纏った男女が、一角の席でグラスを傾けていた。
腰のホルスターから覗くナイフの影。
客というより、仕事帰りのハンター。
視線が交われば、互いに何も言わず、ほんの僅かにグラスを上げる。
レイスが笑う。
煙草の火が、血のような色で頬を照らしていた。

「お。アイツら夜組だ」
「昼間は死んだみたいに寝てるから、会えねぇんだよな」
プルトは、細い指でグラスの縁をなぞった。
透明な爪が、赤い光を拾って瞬く。
「この店、いいですね」
「後でユピテルさんとカリストに教えましょう」
レイスは片眉を上げた。
「アイツら血が好きなの?」
プルトはわずかに微笑した。
その笑みは、店内の照明よりも冷たく、そして綺麗だった。

「まぁ、私たち六人でも――血なまぐさい方ですから」
一瞬、ウェイターの視線が二人をかすめた。
だがすぐに、何事もなかったように微笑みに戻る。
赤い空気の中では、視線さえもひとつの調味料だった。
ピアノが一瞬、止まる。
空調の音と、遠くで鳴くカラスの声。
その隙を縫うように、レイスが呟いた。

「……俺も元々夜組なんだ」
「昼組は“何でも屋”って顔してるけどな。どっちも地獄の残業だ」
煙がゆっくりと天井に溶けていく。
その向こうでは、赤いランプが永遠に明滅していた。
プルトは笑わずに答える。
「そのへんの悪魔が言ってましたね」
「――悪魔ハンターは、夜になると昼の数倍怖くなるって」

レイスはグラスを持ち上げ、少しだけ揺らした。
血のように見える液体が、光に反射して煌めく。
それは乾いた返り血のようでもあり、夜そのものの色でもあった。
「まぁ、夜に出る悪魔を“狩りに来る”時点でな」
「まともな奴は、一人もいねぇ」
プルトの瞳に、その赤が映る。
瞳孔がわずかに開く。
「彼らの時間に、自ら狩りに行く……」
「それこそ本気で殺しに来る者か、命のやり取りに昂る狂人しかいません」
彼女の声は淡々としているのに、
その言葉の奥には、どこか愉悦めいた響きがあった。
夜の獣だけが持つ、血の記憶。

近くのテーブルのハンターが、静かに口角を上げた。
誰も笑わない。
それでも、笑いのようなものが空気を撫でた。
ウェイターはそれに気づきながらも、何も言わない。
血の香りと笑みだけが、店の中をゆっくりと漂っていく。

赤い照明の下で、ピアノが再び鳴り始めた。
グラスが静かに触れ合い、乾いた音を立てた。
それは乾杯ではなく、共鳴。
夜に狩られる者たちの、静かな合図だった。

赤いライトが、テーブルの上でゆらゆらと呼吸をしていた。
レイスが煙を吐くのと同時に、店の奥の扉が軋む。
ギィ――と乾いた音。
黒革のジャケットを着た男が二人、鉄の匂いを纏って入ってくる。
血の雫が床に落ち、音もなく赤い染みを作った。
そのうちの一人がふとカウンターの方を見て、目を丸くする。
「……あっ」
思いがけず明るい声。
その瞬間、店の空気が一瞬だけ止まり、次に、どこか懐かしい笑いが生まれた。

「レイス!最近ずっと昼組らしいじゃん」
「夜組には戻らねぇの? ちょうど今、ドラゴンゾンビ出ててしぶといんだ」
その単語だけで、普通の客なら青ざめる。
けれどブラッドカフェの客たちは違った。
近くのハンターがくくっと喉を鳴らし、笑い声が赤い照明に溶けていく。
レイスは片目を細め、煙草の火をそのままに口角を上げた。

「んー……嬢ちゃん(メーデン)がね。起きろって言うから」
「でも、まぁ――たまにはいいかも」
プルトが小さく笑う。
その笑みは、氷の下で水が流れる音のように静かだった。
「ゾンビ、燃やすタイプですか?」
ハンターの男は肩をすくめる。
「今回は雷効くらしいぞ。あんたらの知り合いの“あの六将”向きだな」
「……マジか」
レイスは軽く笑い、灰を落とした。
「じゃあ“あの雷野郎”にでも声かけとくよ」
ウェイターが軽く一礼し、微笑む。
「お帰りの際は血抜き用のタオルをお渡しいたします」
笑い声と血の匂いが混ざり合い、ブラッドカフェは戦場の休憩所になった。
夜組の仲間たちは皆、戦いの最中に「血が騒ぐ」ことを誇りとしていた。
彼らにとって戦闘とは仕事ではなく、生存の証明だった。

だが、レイスだけは気づいていた。
その興奮を、他人よりも深く“楽しんでいる”自分に。
──その瞬間、自分の顔がふと、あの忌まわしい祖父――ベリアルに似ていると気づいた。
「……やだねぇ。笑ってやがったんだよ、俺の顔」
「“ジジイ”と同じ笑い方でさ」
血に酔った自分が、どこか幸福そうだった。
それがたまらなく嫌で、夜組を離れた。

プルトはグラスを指で転がしながら尋ねる。
「……夜組の仕事、嫌いなんですか?」
レイスは煙草を咥え直し、少しだけ笑った。
「嫌いじゃねぇ。むしろ好きだ。
血が跳ねて、剣が響いて、心臓が暴れる。……楽しいさ」
プルトは目線をグラスに落としたまま、軽く息をつく。
「……遺伝、ですね」
レイスは灰皿に火を押し付け、赤い火花を弾く。
「血は呪いだ。……でも、夜が呼んでると、どうしても足が向いちまう」

煙が赤く溶け、夜が深まっていく。
ブラッドカフェの窓の外には、もう人の姿もない。
街の明かりが消えていくたびに、
血と鉄の匂いだけが濃く残った。
レイスは伝票の裏に、雑な文字で何かを書きつけた。

『ユピテル、頼む。俺の代わりに“夜組”の討伐に出てくれ。』

プルトはグラスをくるくる回しながら、半眼で呟く。
「……やっぱり押し付けるんですね」
「血より報酬が好きな人ですから」
レイスは笑って、赤いネオンの反射を指で弾いた。
「対価はこの店の住所。アイツ、こういう場所、絶対気に入る」
ピアノの音が再び鳴り、店内に静寂が戻る。
赤い光がふたりの影を伸ばし、
その先で煙草の煙と夜風が混ざり合った。

──数時間後の廃駅は、世界の忘れ物でできていた。
錆びたレールが蜘蛛のように地面を這い。
瘴気が薄いヴェールのように漂い、息をするたびに金属の味が喉に残る。
腐蝕した竜の亡骸は、まだ死に切れていないかのようにひくつき、金属と血の腐臭を吐いた。

その前に立つ一振りの男。
ユピテル・ケラヴノスは、無造作に刀を肩にかけ、顔を上げて笑っていた。
「くわばらくわばら……いいねぇ、この世界」
夜の闇を裂く音とともに。
腐った竜の瞳が一瞬だけ光を取り戻し、廃駅全体が生き返ったように震えた。
ユピテルの雷は、乾いた拍手だった。
斬撃と閃光が同時に放たれ、瘴気を打ち払い、腐肉を炙る。
「斬り甲斐ある命が、こンなにいるとはァ!!」
竜の咆哮が廃構内を揺らし、その余韻は街の壁を伝って遠くへ届いた。

プルトはその音に、ワイングラスを口元から少しだけ離して視線を上げた。
赤いネオンの外、廃駅の方向。グラス越しに見える光の点が、雷の爆ぜる箇所を示している。
彼女の目は、ほんの少しだけ柔らいだ。
レイスは無言のまま煙草をくわえ、赤い灯りに映る外の景色を眺めている。
「……行かなくて、よかったんですか?」
プルトが、囁くように訊ねる。
レイスは煙を吐いた。その煙が赤に溶けて、夜の空気に消える。
「恥ずかしいだろ。ああいうの。派手過ぎるって奴だ」
彼の声は低く、でも確かな音だった。
「でも――ありがたいね」
「え?」
プルトの瞳が小さく揺れた。

「俺が抑えてるもんを、あいつが代わりにやってくれる」
レイスは、ふっと笑ったように聞こえる息を洩らす。
「“暴れる理由”ってやつを、うまく消化してくれるんだ」
プルトはグラスをそっと回し、赤い液面の端が光るのを見つめた。
彼女の指先が震えることはなかったが、唇の端が浮いた。
「……ありがとう、ユピテル様、ですね」
その言葉は、儀礼でも称号でもなく、本心そのものだった。

瘴気の層がひとつ薄くなったように感じられた。
廃駅に戻る静けさの中、レイスは軽く笑う。
「ま、アイツらしいよ。俺が笑えない分、笑って斬ってくれる」
その言葉に、プルトは静かに頷いた。

ピアノの低音が、店内に柔らかく戻ってくる。
赤い光が再びテーブルを包み、グラスの縁が手の動きに合わせて微かに震えた。
外の戦いで消えたもの、また別の形で内側に収束し。
夜はいつものように、残り火を抱えて続いていく。

──昼下がりの渋谷は、夜とはまるで別の顔をしていた。
赤いネオンも消え、109のガラスに映るのは、平和すぎる青空と雑踏の反射だけ。
ビル風がふわりと彼女の髪を揺らし、スマホの通知音が軽く鳴る。
プルトは一歩立ち止まり、画面を開いた。
差出人の名前を見た瞬間、ほんの少しだけ眉が上がる。
サタヌスからだった。

「プルト!!!」
「俺みたいなバカより同族のほうがいいんだろっ!!」
文面からして、すでにテンションが大惨事だ。
語彙の乱れと送信の勢いで、酔っているのか寝不足なのかすら想像できる。
プルトは溜息をつきながら、添付されたリンクをタップした。

──動画が再生される。
夜の渋谷。
赤いネオンの下、レイスと並ぶ自分。
ブラッドカフェの前で、二人とも穏やかに笑っている。
まるで吸血鬼同士の密やかな逢瀬。

再生時間の終盤、画面下には大きな文字。
#吸血鬼デート #渋谷の夜は血より甘い

プルトはしばらく無言で見つめ、そして、口元をそっと押さえて。
「……誰が上手いこと言えと」
昼の喧騒の中で、ひとり小さく笑った。
すぐにまた、スマホが震える。

「俺、知ってるんだぞ!レイスって強いし大人だし……!」
「お前、そういうのがタイプなんだろ!!」

完全に拗ねていた。
文面から飛び出しそうな勢いで、画面の向こうで赤くなっている顔が目に浮かぶ。
好きな女の子が他の男と話しているのを見て、勝手に嫉妬して。
勝手に傷ついて――それでも真正面からぶつけてくる。
プルトは指先で髪を耳にかけ、そっと微笑んだ。
瞳の奥に、ほんのりと優しい光。
「……可愛いことで」
昼の風がその言葉をさらい、109の上空へ消えていった。