ドリーミア編-回る悪夢 - 3/5

メーデンの足音が、お化け屋敷の静かな廊下に響く。
誰もいない。何の音もしない。
――なのに、空間は“ざわついて”いた。
ふと、目に入った。

「……713?」
壁に、黒ずんだプレート。
その数字だけが、くっきりと刻まれていた。
先へ進むと、今度は廊下の反対側の壁にも。
さらにその奥にも、曲がり角にも――数字が、どんどん増えていく。
いつの間にか“713”が書き加えられていた。
進むごとに“713”が無限増殖し、メーデンの心を追い詰めていく。

“忘れたなんて、言わせねぇぞ”
そんな声が聞こえた気がした。
そしてその時、一枚のポスターが廊下の先に貼られているのを見つける。
それは――「ドリーミア航空713便 ご搭乗の方はこちら」

「……飛行機……?」
次の瞬間。
耳の奥で、誰かの叫び声がよみがえった。
「この飛行機、もうダメだ!!」
メーデンは、逃げていた。
あの“713”の海から。
無言で迫ってくる数字に耐えられなくなって、反射的に走り出していた。

角を曲がると、急に空間が変わっていた。
全ての壁が、“鏡”だった。
「――ズミ……イチ……ウ……ハカセ……」
耳の奥で、声がした。

「……え?」
どこか遠く、ノイズ混じりのような男の声。
「エンジンが完全に停止して……います……助かる可能性は――」
声が、鏡の向こうから聞こえていた。
「……イズミ……リイチロウ……?」
メーデンがその名を口にした時、鏡の中の“自分”が一瞬だけ表情を変えた。
(今……笑った?)
違和感と、確信が同時に胸を打つ。

“イズミ・リイチロウ”。

「……なんで、その名前が夢に……?」
その空間には何もない。
それなのに、メーデンは思わず一歩、後ずさった。
空間に鳴り響く、意味のないノイズ。
いや――意味が“削ぎ落とされた”ノイズだった。
「……代償に……魂……を……」
そして次の瞬間。
鏡が、目の前で割れた。
ノイズと共に、反響音が耳を裂く。

「…………魂?」
メーデンが呆然と呟く。
「誰の魂なの……」
返事は、別の方向から来た。
「いよいよ思い出してこられましたねぇ」
振り返れば、そこに――メフィストが、いた。
まるで最初からそこに立っていたかのように、自然に。

「鑑賞に値する。」
それはもう、好奇心の色ではなかった。
“確認”の目だった。
――ああ、この人は“知っている”。

「……魂を、“代償”に……」
笑みの中に宿るものは、言葉で説明できない。
ただそこに立っているだけで、背筋に氷柱が這いずる。
――遊具に襲われた時よりも。
――悪夢に飲まれた時よりも。

今が一番、怖い。
妖艶で、整っていて、どこか中性的なその人物。
それだけに――目を逸らせば楽になるのに、逸らすのが怖い。
“見てはいけないもの”に似た、生理的な拒絶感。

「先ほどの仕掛け……」
「私が動かしてあげたんですよ。怖かったですか?」
笑う。
声は優しい。けれど、心には届かない。
(……この人、何が欲しいの?)
「そんなに……欲しいものがあるんですか?」

「こんないたずらまでして……」
壊れたアトラクションに魔法をかけ、動かして。
閉ざされた館の中に、自分ひとりを閉じ込めるように演出して。
それは、純粋な悪意なのか。
それとも――何かを“引き出そう”としているのか。

「あなたは魅力的ですとも。しかし……」
メフィストは、静かにメーデンへと向き直った。
シルクハットのつばを指先でなぞり。
その仕草はどこか女優めいて繊細なのに、瞬間ごとに。
“中性的な線の細さ”と“男役の威圧感”が交互に滲み出す。
赤い瞳がまっすぐメーデンを射抜き、ふっと艶やかに首を傾げた。

「……あなたが居ると邪魔なんですよ」
一見、悪役の皮肉に見せかけて、その声音の底には“嫉妬”と“焦り”。
何より「好きな男を手に入れたい女」の剥き出しの感情が透けている。
口元に添える仕草はしなやかで、低く囁く声にはどこか少年めいた危うさ。
笑みを浮かべる唇の形はどちらとも取れないし。
どちらとも”“どちらでもない”と錯覚する、危うい魔性のアンバランス。
メフィストは続ける。

「貴女がそばにいる限り、レイス様はこちらを見てくれない。
……だから、どうしても消えてほしいのです。」
今度は、ほんの一瞬だけ。
悔しさを隠すようにまつ毛を伏せ、柔らかい声で本音が漏れる。
「私だけを見てほしい――それだけなのに」
その“執着”は、恋にも愛にもなりきれないまま。
“手に入れたい女の本能”として滲み出す。
だがすぐにまた中性的な笑みで取り繕い。
不自然なくらい滑らかに態度を切り替える。

「悪魔王にすら届く才覚を持ちながら、それを無為にして、
何も守る気もない風を装いながら――それでも誰かを助ける」
「実に、不思議で……お美しい。」
この場の空気が一瞬止まる。
ドリーミアの”夢”ではなく、何か”別の法則”が働いているような錯覚。
(この人……本気で……?)
目の奥が冷えた。

「……それはあなた個人の価値観では?」
静かに、だがしっかりとした口調でそう返すと。
メフィストの瞳がきらりと揺れる。
「ええそうですとも! ですがこれは私だけではない、皆感じていることです!」
そう叫ぶなり、彼の手がメーデンの肩を強く掴んだ。
「えっ」
思わず声を上げたときには、地面に背中を打ちつけられていた。
乾いた音と共に衝撃が走り、息が詰まる。
その上に、ふわりと、けれど確実に重なる影。

メフィストが――覆いかぶさる。
その顔がぐっと、すぐ近くまで迫ってくる。
吐息が触れる距離で、瞳が、笑っている。

「ねぇ、お嬢さん。あなたも、そう感じませんか?」
「あのお方の美しさ、強さ、賢さ、そして……心根の優しさ♡」
その言葉に、メーデンの背筋がぞわりと凍る。
あまりにも狂気的な“愛”の言葉。
それなのに語るその声は、子供のような高揚に満ちていた。
だが彼女は逃げなかった。

「……あなた、勘違いしてる」
吐き出すように、絞り出すように――それでも、しっかりと。
「あいつはね、あなたみたいに“好きだ”って言う人ほど……嫌うのよ」
「私を消しても、心は射止められない」
その瞬間、空気が凍りついた。
真っ向から告げた、“レイスという男の本質”。
メフィストの愛を否定したのではなく。
その「届かぬ愛」に気づかせる一撃だった。

「存じております」
微笑みすら浮かべぬまま、メフィストは告げた。
それはまるで、“そんなこと百も承知だ”とでも言いたげな声音だった。
「だから、全てを手に入れたいんです。レイス様の“すべて”を」
瞬き一つせず、赤い瞳がメーデンを貫くように見据えていた。
まだ押し倒したままの姿勢で、上体だけをゆっくり起こし。
自分の胸元を、ぎゅっと抱きしめるように両手を握りしめた。
そして、夢見るように呟く。

「誰しも、絶望の中に一筋の光を差し込まれたなら――」
「その光に、すがるしかなくなるんです」
「……レイス様は、繊細な方です。あなたが思っている以上に」
「あなたのことも、大切にされている」
その言葉に、メーデンの瞳が大きく見開かれた。
が、それは感動でも、喜びでもない。

「……何を……うっ――!?」
次の瞬間、メフィストの手がメーデンの首元を掴んだ。
ゆっくりと、しかし確実に。
まるで宝物を扱うような手つきで、だがそこにあったのは――支配と破壊の意志。

「だから、まずは――あなたから」
「贄になってもらいましょう」
「きっと喜ばれますよ」
「……だって、私の見立てに、間違いはありませんから!!!」
そう言い放ったメフィストの顔は――無垢な少年のように笑っていた。
しかし、すぐに。
その笑顔はゆっくりと形を変える。
ニィィ……と歪む口元。
目は開き、笑っていない。
「魔物」の顔だ。

(――まさか、この人……本気で……!)
声も出ないまま、彼女は目を見開いた。
身体が凍り付いたように動かない。
その視界の中、メフィストの顔がゆっくりと傾く。
「ねぇ……覚悟は、できてますよねぇ?」
吐息まじりに囁かれる言葉。
メフィストの顔が、メーデンの首筋にぐっと寄せられる。

「っ、そんなわけ……」
「ありますよ。私にはわかります」
「これがあなたの魂の匂い。ご両親と契約していた甲斐が、ありました」
言葉より先に、肌の奥を這うような感覚がメーデンを襲う。
再び首筋に顔を埋めてくるメフィスト。
うっとりと、恍惚の表情で。
その様子に、嫌悪感と恐怖が混ざり合い、悲鳴を上げそうになった――が。

ヒュン――――ズドン!!!

「――っ!?」
頭上から風を裂く音。
次の瞬間、メフィストの身体が宙を舞って吹き飛ばされた。
地面を転がるその音が、現実を引き戻す。
何が起きたのか理解が追いつかない。
だが直後、聞き慣れた声が降ってきた。

「大丈夫か?」
見上げた視線の先には――紛れもない、彼の姿。
レイス。
それだけで、胸に張り詰めていたものが緩み。
メーデンは思わず、安堵の息を吐いた。

「遅いです! メフィストが私を……」
「悪い」
短く謝りながら、彼が差し出した手。
小柄な体格に似合わず、頼もしく、温かかった。
その手を素直に取って立ち上がると。
彼は一瞥して――不機嫌そうに眉を寄せ、顔を背けた。

「まったく、よりにもよってこんな奴に目をつけられるとは……」
「ちょっと、どういう意味ですそれ!」
「いいからいくぞ。ここはヤバい」
それだけを言い残し、メーデンの抗議も聞かず、手を引いて歩き出す。
だがその背中は確かに、”絶対に守る”という意志に満ちていた。

ホラーハウスの床に、うつ伏せになって転がる赤いスーツの影。
周囲には、崩れかけた内装と、まだどこかに残る子供向けの可愛らしい装飾。
だがその中央に佇むその姿は、完全に“童話の怪異”そのものだった。
「あぁん……レイス様ぁ……」
抑揚なく呟かれた声。
だがその響きには、異様な甘美さと悦びが混ざっていた。
吹き飛ばされたはずのシルクハットを、倒れたままの姿勢で片手で掴み取る。

彼はゆっくりと立ち上がり。
おかしな角度で曲がったままのシルクハットを直す。
その動作すら、もはや儀式のようで。
そして――そのまま、笑みを浮かべたまま。
ホラーハウスの深い闇へ、ふらふらと歩き去っていった。

退廃と崇拝。
そして狂気にまみれた、賛美という名の呪い。