「…ここ、ナイトメアって名前だったんだ」
メーデンが目を向けたのは、錆びついた案内板だった。
その板に残されたロゴが、かろうじて“ナイトメア”と読める。
ジュースのプルタブを開ける音が、微かに響く。
「“夢”がテーマなら、ホラーハウスが“悪夢”でも……筋は通るか」
そう言いながら、無意識のように一口。
喉を潤すそれは、安堵にも、逃避にも見えた。
彼女の横では、レイスが無言で壁にもたれかかっている。
その様子を意識したメーデンが、ちらりと視線を向けた。
「何です?じっと見て」
レイスは一拍置いて。
「別に。……キスされたのか?」
ぶっ込みすぎだよレイスううう!!と叫びたい衝動を抑え。
だが、メーデンも即座に返す。
「……嫉妬深いんですね?」
ピクリとした緊張感。
しかしレイスはぷいっと顔を逸らし、壁のポスターへ目を向ける。
そこにあったのは――色褪せ、破れかけた“ドリーとミア”のポスター。
ボロボロになっても、2人のマスコットは変わらぬ笑顔を貼りつけている。
いつから貼られていたのか。
閉鎖されてもなお消えない夢の残骸。
そしてその前に立つのは「夢の理想」などとうに忘れたような2人だった。
「……メフィストが、私の両親と約束したって」
ぼそりと落とされた言葉に、レイスはほんの僅か眉を動かす。
「アイツはお前の魂をご所望だ」
魂。
その言葉が、喉の奥でつっかえた。
メーデンの表情がわずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ、ホラーハウスの中。
キスをされかけた“あの瞬間”がフラッシュバックしたからだ。
頬が少し、赤く染まる。
だが、レイスは特に反応も見せず――肩をひとつ、竦めて言い放った。
「別に何もしねぇよ。俺は悪魔じゃねぇからな」
「……そうですか」
「ただな」
レイスの声音が、ほんの少しだけ変わった。
「ここでビビって逃げたらお前の両親のこと、多分一生わかんねぇぞ。多分な」
その言葉に、ジュースを飲むメーデンの手が止まる。
図星だった。
今ここで逃げ出せば、ようやく掴みかけた「謎の断片」
なぜ自分がコールドスリープに入れられたのか。
両親は何を思い、どんな契約を交わしたのか。
それらすべてが“夢のように消えてしまう”かもしれない。
ジュース片手にメーデンがつぶやく。
「イズミ博士……私のお父さん、でももう……顔もわからない……」
遠くから微かな観覧車の残響だけが聞こえる。
レイスはその横顔をちらと見て、小さく同意する。
「……わかるぜ。俺もアンフィスがどういう顔してたか思い出せない」
どちらの声にも、穴が空いたような寂しさがにじむ。
“思い出そうとすればするほど、遠ざかっていく大人たちの面影”。
「私が最後に見たお母さんは、たしか……泣いてた」
「もう会えないかもしれないって。
……でも、どうやって死んだのかは、知らないんです」
静かに、でも確実に、心の奥に氷水を流し込むような一言。
“あの夢に出てくる飛行機”“何度も墜落する713”
自分の両親も、きっとあの便に乗っていた。
300年の空白。記憶の摩耗。世界の喪失。
親という存在が“神話”になってしまった二人。
それでも、“誰よりも近かったはずの人が、一番遠くなることもある”
そんな痛みを抱えたまま、ふたりは並んで座っている。
缶コーヒーの苦味と、ジュースの甘さ。
どちらも現実だけど、どこかぼやけている。
「お前が望むなら、逃げてもいいぞ」
「……逃げたら?」
「メフィストはお前を追わない。
その代わり――俺も、お前も、ドリーミアから出られないだろうな」
メーデンは少し間を置いて、短く息を吐いた。
「いやですよ。一生廃遊園地でデートなんて、フリーパスでもお断りです」
「そうか」
レイスはポケットに手を突っ込んだまま、少しだけ顔を緩める。
「じゃあ頑張れよ」
「……はい」
それはレイスなりの――不器用な激励だった。
「さて、そろそろ行くか?」
「そうですね……あ、でもその前に」
メーデンは空になったジュース缶を持ち上げ。
飲み干したことを確認してから立ち上がった。
そのまま、ひょいと手招きする。
「なんだ?」
「ちょっと、背伸びしてください」
「……は?」
訝しむ間もなく、メーデンはつま先立ち。
背の低いレイスにそっと身を寄せ――唇 を、重ねた。
「……なんだ?」
「さっき、キスされそうだったので」
「だからか?」
「はい、消毒です」
そう言って笑う彼女に、レイスは一瞬言葉を失った。
理屈は破天荒だが、魔除けにはなりそうだった。
あのマジシャンは、自分に負けず劣らずのやきもち焼きだから。
「はぁ? 何してんの嬢ちゃん、ガキかよ」
「いいじゃないですか!せっかくの遊園地なんですから! ……廃墟だけど!」
そのまま手を引かれながら歩く。
その頬はほんのり赤い。
見ないふりをしながら、レイスは思った。
――今日くらいは、甘やかしてやるか。
ホラーハウスの出口。
薄明かりの下、ドリーとミア。
かつて夢の国を象徴した二人のマスコットが描かれた、色褪せたポスター。
その上から“記憶を封じる”ように、血のような赤で殴り書きされた「713」の数字。
合流した4人は、それぞれに疲れ切った顔。
それでもどこか“やりきった虚無”をまとっていた。
ティアが息をついて言う。
「ああ、充実した虚無だった」
レイスは薄く口角を上げて、わざとらしく肩をすくめる。
「だろ? 俺がいない間、虚無だったか?」
ティアは腕を組み、どこか誇らしげに頷いた。
「ああ、まるで虚無が実体を持ったかのような時間だった」
ロコが思い切りツッコミを入れる。
「虚無に充実って概念あんの!?逆じゃね!?」
空気の温度だけが微妙に上がる。
メーデンはふっとポスターに目をやる。
「713……やっぱり、ただの数字じゃない……」
まるで誰かが“思い出したくないもの”を。
何度も何度も塗り重ねて、“記憶を塗りつぶそうとした”跡のよう。
ロコがぼやく。
「またかよ……てか、何であちこちにこの数字?」
ティアは、マスコットの目元に引かれた赤を見つめて静かに呟く。
「意図的だな。夢の中でも、現実でも……」
レイスが、低く、ぼそっと言う。
「全部、見せられてるんだよ。忘れるなってよ」
どこからか自販機のコンプレッサーがうなる音だけが響く。
ティアはポスターの隅、粗雑に上書きされた“713”をじっと見つめたまま――
「……虚無ではないかもしれん」
と、ぽつりと呟く。
“虚無”だと思っていた場所に「何か」が残っている気がした。
「ちょっと!? 私の見てたの、やっぱり何かのメッセージだったんですか!?」
「さぁな」とレイスは軽く肩をすくめた。
「だが繋がってきてるな。“遊園地”と“飛行機”」
「そして“713”。ふつうじゃねぇ偶然が重なってる」
ロコが唸る。
「ミステリーだにゃ……」
「でもそれなら──私、何を思い出せばいいんです?」
メーデンが問いかけるように言った。
だがその問いに、まだ誰も答えられなかった。
ただその場に、“713”という数字が重くのしかかっていた。
「おかえりなさいませ〜♪」
軽やかな掌の音が、廃園の広場に不釣り合いに響いた。
メフィストが中央に立ち、手を打ち鳴らしながらこちらを見ている。
まるで歓迎でもしているかのような、悪魔の余裕を纏って。
「素晴らしいですねぇ♪」
「壊れないものが集まる場所。その象徴が“713”なんですよ」
その言葉に、レイスは目を細める。
「お前、最初から知ってたんだろ」
メフィストはわざとらしく肩を竦め、唇を尖らせた。
「もちろん♪ でも、答えにたどり着くのは貴方たちの“役目”ですから」
ティアがぼそりと漏らす。
「……やはり、虚無の延長か」
だがメフィストは、そこで否定を入れてきた。
「違いますよ♪」
「“残り続ける”ものの象徴です」
「終わらず、止まらず、忘れられない“夢の残骸”─それがドリーミア」
次の瞬間、不気味な赤い光が観覧車を、メリーゴーランドを。
そして朽ちた遊具を照らし出す。
いつの間にか夕暮れは終わり、空には満月に似た不自然な赤い光が満ちていた。
ぽつりと、レイスがつぶやいた。
「……これも、虚無か」
「いや」
ティアが返す。
「虚無というには強すぎる」
「お前ら、何がどう違うんだよ!?」
ロコが盛大にツッコミを入れるが、その声もすぐに夜の闇に飲まれた。
“713”とは、何なのか。
この遊園地に、何が遺されたのか。
次なる“深淵”が、すぐそこに待ち構えている。
「ねぇ、メーデンちゃん。713って、思い出しませんか?」
メフィストが、まるで悪戯を仕掛けるように笑いながら問いかけてくる。
その声にはどこか甘く、だが底知れない毒が含まれていた。
メーデンは少しだけ顔を伏せる。
「……いえ。でも、でも……なぜか、怖い気がします。すごく、怖い」
「……あんまり無理すんな」
レイスが珍しく、柔らかい声音で言う。
「無理に思い出す必要はねぇ。記憶ってのは、タイミングを選ぶもんだ」
「……だが」
ティアが静かに続ける。
「ここにいる限り、いつかは向き合わねばならないだろう」
「あはは! そうですよ♪」
「“虚無”を超えた先に、真実が待っています」
メフィストがそう叫んだ瞬間。
メリーゴーランドの回転が急に加速を始める。
軋みながら回るその遊具から、馬の一体が遠心力で剥がれ落ち、地面に激突。
ドンッという鈍い音が響いた。
砕けた馬のパーツが、カラン……と転がる。
その破片に。
「……713」
レイスが無言でそれを拾い上げ、目を細めた。
埃と塗装の隙間から見えるその刻印は、あまりに見覚えのある形状だった。
「……これ、飛行機のプレートじゃねぇか」
空気が、凍った。
まさか。遊園地に墜落した飛行機なんて記録は無い。
だが、ここは夢の世界――“ドリーミア”。
何が現実で、何が虚構か。
そして“713”とは──夢に見た便名だけでは、なかったのかもしれない。