空が、ほんのわずかに白み始めていた。
狂っていたライトアップは力を失い。
空中に浮遊していたメリーゴーランドの残骸も、音もなく崩れ落ちていく。
レイスは、血と埃まみれになったメフィストの肩を無理やり掴み、顔を覗き込んでいた。
その目は、あの「ドブ色」だったが……今は少しだけ、本気だった。
「メフィスト。お前の負けだ」
メフィストは苦笑する。口元に流れる深紅を、袖でぬぐいながら。
その笑みには、いつもの“演技”はなかった。
「……悔しいですが、事実ですねぇ」
崩れかけたシルクハットを落とし、彼女――いや、彼(?)は、膝をつく。
だが、肩はまだ、どこか誇らしげに張っていた。
レイスはそのまま、目を細めて言った。
「嬢ちゃんとの契約、なかったことにしねぇか?」
メフィストは目を見開く。
朝日が昇りはじめ、崩壊しかけた遊園地に淡い光が差し込む。
だが、その光を浴びながら、なお地獄のような風景は残っていた。
「……何で?」
力なく立ち尽くすメフィストが、呆然と呟いた。
「私が契約しなかったら――あの子、カプセルで腐ってましたよ」
メーデンが目を見開く。
「……え?」
レイスが睨むように声を荒げる。
「どういうことだ」
メフィストは、ポケットから銀色の小さな金属プレートを取り出した。
その表面には、細い文字で刻まれている。
“イズミ夫妻”
“契約:娘の命と引き換えに、魂を差し出す”
「この子が眠っていたコールドスリープ装置……本当は壊れていたんです」
ティアが険しい顔をする。
「つまり、契約していなければ……」
「……ええ。“命を繋ぎ止める”ための契約。
イズミ夫妻が、泣きながら差し出したんですよ?」
メフィストがふっと、いつものように笑う。
その笑みを、レイスはぶん殴るような行動で断ち切った。
「……貸せ」
「えっ?」
レイスは無造作に金属プレートを奪い取ると、指の骨が軋む音と共に握り潰した。
「……なッ!?」
ガキン、と嫌な金属音。
プレートはわずかに抵抗するも、レイスの握力の前にねじれ、歪み、砕けた。
さらにそれを地面に叩きつけ、靴で――踏み砕く。
「――っあぁああああああ!!??」
メフィストが、まるで天を仰ぐように叫びながらその場に崩れ落ちる。
「壊れないはずの……契約が……ッ! 壊れて……!?」
両手で頭を抱え、地面に身を投げ出す姿は、かつての優雅さなど微塵もなかった。
そんな彼女を見下ろして、レイスが悪魔のように笑った。
「ッハハッハハハハハ!!!鑑賞に値するぜ、お前!!!」
静まり返るドリーミアに、レイスの下卑た笑い声がこだまする。
メーデンが呆れたように呟く。
「……悪魔です……」
ロコも、しみじみとうなずく。
「うん、悪魔だわ……」
「壊れない契約が……ッ壊れてしまった……!」
地面に崩れ落ちたメフィストは、髪を乱しながら両手で顔を覆っていた。
美しかったシルクのような髪も、紅の瞳も。
いまや崩れたピエロの仮面と化している。
――それでも。
「……ふふっ……ふふふふ……クスクス……あっははははははは!!」
歯をむき出しにして、高らかに笑うその姿はまるで壊れたオルゴール。
レイスが眉をひそめて一歩踏み出そうとした、その時だった。
「いいでしょう……ッ!次は……次は、貴方ですレイス様……!」
メフィストがよろける身体を無理やり起こし、ボロボロの服のままレイスを指差す。
「光でも闇でもない貴方を、次は標的にします……」
「だって貴方こそ――“壊れない夢”なんですから!」
指を一本立てて、愉悦に染まった笑顔で――その決め台詞を放つ。
「――時よ止まれ、お前は……美しい!!」
その一言を最後に、メフィストは闇に溶けるように姿を消した。
直後、空気が変わった。
崩れかけていた観覧車がピクリとも動かなくなり。
空に歪んでいた星々が、元の軌道に戻るように静かに流れていく。
異形化していた遊園地――ドリーミアは、何事もなかったかのように。
ただの「廃遊園地」に戻っていた。
夜の冷たい空気が全てを包み込む。
レイスはゆっくりとタバコを取り出し、火をつけた。
その光だけが、変わらぬ“現実”の証のようだった。
吐き出した紫煙が夜空に溶けていく。
「……壊れたな、全部」
誰にでもなく、ぽつりとつぶやいて――レイスは、静かに夜空を見上げた。
そこにはもう、夢も狂気も、残っていなかった。
崩壊したドリーミアのゲートを背に、四人の影がゆっくりと歩き出していく。
空にはようやく夜明けの気配が差し込み。
色の抜けた廃遊園地の輪郭が薄明かりに浮かび上がっていた。
『……またの来場を……心より……お待ちしておりま……す……』
どこからともなく、ノイズ混じりの自動アナウンスが流れた。
何年も前に止まったはずの案内放送。だが今、それは“誰もいない園”に空しく響いていた。
足を止めたレイスが、ふと振り返る。
「……もう誰も来ねぇよ」
ゆっくりとした歩幅で、背中を向けたままレイスは言った。
「だが――面白かったぜ。ドリーミア」
残響のように、破れた旗が風に揺れる。
誰もいない夢の国に、再び静寂が戻った。
だがその奥深くには、まだ“終わっていない夢”が沈んでいる。
「――以上、ドリーミア跡地における踏査報告となります」
ティアが淡々と読み上げた報告書を受け取った受付嬢は、無言のまま固まった。
その顔は、あの「宇宙猫」のように情報処理を拒否していた。
「え、あの……?」
カウンター越しに震える手でページをめくる受付嬢。
そこにはこんな文字が並んでいた。
・夢のテーマパークが“永遠”を歪曲化し世界の外と繋がった件
・メフィストフェレス(種族不明)による契約起因の深淵侵食
・ドリーミア内アトラクションの異形化とパレードアノマリー化
・最終的に契約破棄によって構造は崩壊、侵食は沈静化
・だが再侵食のリスクは排除されず、封鎖と監視体制の強化を推奨
「……あのぉ……もう少し、こう……“現実的な”報告は……」
「なら現地行って来い」
レイスはげんなりした顔で紙コップのコーヒーを啜り。
ボロソファに腰を落とした。
「こっちはよ、一睡もしてねぇんだよ」
隣にはメーデンがちょこんと座っていた。
疲れてはいたが、どこか満ち足りたような顔。
「……ぶっ壊れてましたね、あの遊園地」
「一生、忘れられそうにないです」
すると、隣でタバコに火をつけたレイスが呟いた。
「何言ってんの、嬢ちゃん」
くゆる煙の向こうで、赤い目がほんの少し細められる。
「壊れてるから悪魔なんだよ」
報告書の文字はやがてファイルに綴じられ、静かに閉じられた。
しかし、世界の片隅ではまだ「夢を見続けている」のかもしれない。
照明の明かりが眩しくて、誰も口を開こうとしない。
レイスは乱れたコートを直しながら、欠伸交じりに告げる。
「受付、もう睡魔限界だから……仮眠室借りるぞ」
受付嬢は夢遊病者みたいな顔で。
「あ。はい、ごゆっくり……」
何も聞かずに鍵を差し出した。
ロコが大あくびをしながら。
「仮眠室で寝るの久しぶりだにゃ……」
受付カウンターにもたれかかりそう。
ティアは傷だらけのまま肩を回す。
「宿屋に行くのもおっくうだ、ボロいが寝られる。問題ない……」
レイスが半分目を閉じながら。
「夢と現実どっちがつらかったか、寝てから考えるわ」
メーデンに至っては、もう半分寝ている。
頭をふらふらさせたままロコに支えられ。
仮眠室のベッドに倒れ込むや否や、そのまま即落ち。
レイス、ティア、ロコ、メーデンの“悪夢サバイバーズ”が揃って沈む。
誰も夢を見たくない。
次に目が覚めた時、きっとまた「何か面倒ごと」が待っているのだろう。
それでも今だけは、静かで安全な場所で眠ることが、最高のご褒美だった。
朝焼けが差し込む仮眠室、寝息が静かに重なっていく。
ドリーミアの悪夢は終わった。
けれど、“ただ寝る”幸せだけは、まだ終わらない。
—–
「……調査の結果、ドリーミアは“グリーンエリア”と判定されました」
ハンター協会の受付嬢の、寝不足でちょっと目が虚ろな声。
報告を聞くレイスたちは、全員ちょっとだけ「まだ夢の中か?」って顔。
ロコが目を細めて問いかける。
「復興……すんのか、あそこ?」
受付嬢は真面目な顔で頷く。
「はい。深淵の侵食痕跡も消失しており、現在は安定状態にあります。
損壊や劣化が著しいですが、半年~1年で再オープンも可能かと」
「アレ、普通の遊園地になるんか?」
ロコの突っ込みに、レイスはぼそっと答える。
「……いいじゃん。忘れてなきゃ行くよ」
「絶対忘れてるやつの言い方だよそれ」
メーデンは呆れたように笑う。
ふと、いつもの“めんどくさい話題”をふる。
「また観覧車で、ZEROとNULLの違いとか言うんですか?」
「言う」
即答。
「このひとやだ!!!!」
全力でソファをバシバシ叩くメーデン。
ティアは「まぁ、それも現実だ」と肩を竦め、少しだけ口元が緩んでいる。
ドリーミアの破れた看板が補修され。
朽ちたメリーゴーランドに新しい木材が積まれ。
観覧車のゴンドラが、空に向かって少しずつ戻っていく。
壊れた自販機のそば、紙くずみたいなポスターが舞い上がる。
――“ようこそ、夢の国ドリーミアへ”。
かつて悪夢だった場所は、また新しい夢を描き始めている。
今度こそ、“未来へ続く”夢として。