ドリーミア編-踊る悪夢 - 3/3

真紅と金のカーテンが揺れる中、サーカスリングの中央。
ステップ一つ、メフィストフェレスが入場する。
「おやぁ、サーカスですか?」
その声は、どこまでも愉快げだった。
「フフ……私のための舞台を用意してくださるなんて、なんて光栄なことでしょう♪」
サーカスのステージ。
観客席は闇に沈み、ただ一筋の照明だけが。
中央で猫背に座るレイスを浮かび上がらせていた。

周囲の空気は凍りつき、誰も近づけない圧倒的な孤独。
スポットライトに照らされたレイスは。
舞台袖の気配にじっと耳を澄ましている。
静寂を破ったのは、軽やかな足音と、楽しげな声。
「お待たせしてしまいましたか?」
メフィストがカーテンの隙間から現れる。
その笑顔は、まるで“最悪の道化”そのものだった。
レイスは目を細め、口元だけで不敵に笑う。

「いや。蛇は待つのが得意だ」
「絞め上げるまでじっと息を殺して、身をひそめる」
低く響くその声。
見ている者の首筋に冷たい汗が流れるような。
“静かな恐怖”が満ちていた。

メフィストは、ほんの一瞬だけ目を見開く。
その表情の奥に、「やっと巡り会えた」という悦びと。
“本物の怪物”を前にした時だけ見せる、仄かな戦慄が混ざっていた。
二人の間には、もう言葉は要らなかった。

「さあ。はじめようぜ、メフィストフェレス」
「ヒーローショーの幕開けだ」
「――あらあら、どっちが“怪人”でしょうね?」
メフィストが笑う。その瞬間、会場全体の照明が赤に染まる。
「確かに……どっちも怪人だな」
「じゃあ、どちらがより“悪役”か、決めましょうか」
歪んだ、完全な円。
観客のいない観客席。
ふたりだけの地獄の舞台で、ショーは開演する。

「幕が上がりましたねぇ♪ さぁ、“ショー”の始まりです!」
小さく、しかし耳障りな音を立てて、彼(?)の懐からナイフが姿を見せた。
右手に5本、左手にも5本。鋭利な刃先がライトに反射し、星のように瞬く。
「この技、どこまで避けられるかしら?」
言葉が終わると同時、ナイフが空を裂いた。
斜め、縦、水平、交差――一切の隙を与えない角度で、レイスを包囲する。
「っ……おらよッ!」
レイスの動きは一拍遅れて、だが完璧だった。
踵で床を蹴り。
寸分の誤差もなく駆け抜け、ナイフは全て空を切る。

「フフ……素晴らしい反射神経ですこと♪」
メフィストが恍惚と笑うその顔には、まさしく“楽しんでいる者”の笑みがあった。
ショーの主役は、彼なのか――それとも、この場に立つ全員なのか。
「俺の動きが読めるかよ……!生憎、“即興”が得意でなァ!!」
ヒーローショーは、まだ始まったばかりだ。

「さぁ――本番と参りましょうか♪」
メフィストがくい、と指を鳴らす。
――ゴウン、と鈍い音がして、朽ちたサーカスリングの一部が黒炎に包まれた。
それは自然発火ではない。意志を持つようにメラメラと燃え上がり。
次第に黒く、巨大な“火の輪”へと変貌を遂げていく。

「ハハハハハ!! 火の輪潜りか!! 懐かしいな、おい!」
レイスが口角を吊り上げて笑ったその瞬間――
「違いますよ、レイス様……これは火の輪ではなく」
メフィストがゆっくりと振り返り、愉悦を込めて叫んだ。
「“死の輪潜り”です!!!」
黒炎の輪は凄まじい回転音とともに迫る!
地面を抉り、床板を燃やしながら、牙のようにレイスを噛み砕かんと唸りを上げる。
だが――レイスは避けない。むしろ駆ける。
死の輪へと向かって――いや、その奥にいるメフィストへ一直線に!

「馬鹿め!!死にたいようだな!!」
「それはこっちのセリフだッ!!」
だが、突進したレイスの足元が突如――
ぐちゅ、という音とともに、まるで泥のように沈み込んだ。

「しまっ――」
メフィストが再び、指を鳴らした。
足元が黒い沼へと変じ、レイスの動きが止まる。
その隙を逃さず、“死の輪”が再度――!
「甘いッ!!」
レイスは咄嗟に跳び上がる。
黒炎が頬をかすめ、外套の端が焼け、炎が弾ける。
だが――致命には至らない。

「……ふぅ、これは本当に素晴らしいショーですねぇ……」
宙に佇むメフィストが恍惚と笑う。
一撃も当たらないのに、何故か楽しそうだ。
「この程度の攻撃でこの俺が倒せると思ったかよ……!」
「ふふふ♪ 力不足でしたかぁ……では、これは如何ですか?」
再び、指が鳴る。
そして、リングの上に“黒い光”が満ち始める。

サーカス――それは元より異形の空間。
その異形を極限まで引き伸ばした。
美しく、恐ろしく、誰にも届かぬ“二人きりのショー”。
もし――ただのひとりでも観客がいたならば。
きっと拍手喝采が巻き起こっただろう。

けれど――このショーは、誰にも見られない。
そして、決して誰も――見ることは許されない。
「さあさあ!もっと踊ってくださいな!! うふふふ……!!」
天井から響くような、どこか狂気じみた高笑い。
パラパラと降り注ぐ火花、燃え尽きたリングの焦げ跡が空間に焦げた残響を刻む。

「……チッ、しつこいなぁ……ッ!」
レイスは舌打ちしながらも、唇の端をわずかに吊り上げた。
それは苛立ちではなく、もはや“乗ってきた”男の顔だ。
「じゃあ、俺もサーカスらしくしてやるか……!!」
地を蹴ったレイスの姿は残像すら残さずに宙を舞い。
一気に、天井すれすれの空中ブランコの台へと降り立つ。

その足取りはまるで演者。
袖を払うようにして指を鳴らせば、場内の照明がザァッと反応する。
「フフッ……なァに。俺もこういうの、一度やってみたかったんだよ」
光の中、レイスが浮かべたのは――
挑発とも、余裕ともつかない、“悪役の笑み”。
「おおっ!!お見事ですねぇ! では私も続きましょうかねぇ……!」
メフィストが、歓声のように声を上げる。
その手が、まるで舞台指揮者のように優雅に宙を舞う。

それに呼応するように、黒炎の輪が跳ね、踊り、波打つ。
狂気のサーカスは、最高潮へ。
「さぁ!!私の演目はいかがですかッ!? レイス様!!」
「はははッ!! 無駄だ無駄だ無駄だあああああああああ!!」
レイスの高笑いが、炎を切り裂くように響いた。
そして――跳ぶ。

空中ブランコに飛び乗った彼は、そのまま宙を舞い。
燃え盛る黒炎の輪の中へ――軌道を描きながら火の輪をすり抜ける!
その身体はまるで回転式ジャグラー。
風圧と速度が、炎を逆巻き、空中に美しい軌跡を描く。

レイスが空中ブランコから着地した瞬間。
一拍の静寂が訪れた。天井の照明は揺らぎ。
色褪せたサーカステントの布がひらりと舞う。

空っぽの観客席から、誰もいないはずの拍手音が鳴り始める。
最初はゆっくりと、やがて全方向から重なるように、音が増幅していく。
だが──そこに観客はいない。

「ほらほら、レイス様の演目に……皆さん感激していますよ?」
「サーカス団員、本格的に目指されてみては?」
そう言って笑うメフィストは、サーカス団の団長のような仕草で深く一礼する。
が、その背後には……顔のない人影たちが、霞のように浮かび上がっていた。
子供のようなシルエット、泣き顔の女、スーツを着た男。
おそらく、ミア、支配人、713便の“亡霊”たち。
レイスが鋭く目を細めた。

「……メフィスト」
「はい?」
「その拍手、ドリーミアの外から聞こえてる気がするのは……気のせいかい?」
「うふふふ……さて、どうでしょうねぇ?」
「この世界とあちらの世界……だんだん境目が曖昧になってきてますから」
その瞬間、観客席のシルエットたちの頭部がぐにゃりと崩れた。
顔のない「人の形」が、手を叩き続ける。
ひとつ、またひとつ、深淵がテントの隙間からにじみ出てきている。

レイスが煙草を取り出して火をつけると、いつもより濃く煙が立ちのぼる。
赤と金のテントが、軋んだ音を立てて揺れている。
天井から吊るされた照明がバチバチと火花を散らし。
闇が這い寄るたび、光がひとつ、またひとつと飲まれていった。

舞台中央。
立っているのはふたりだけ。
レイスは煙草をくわえ、血の滲む口元でニヤリと笑った。
対するメフィストは、肩を大きく上下させながら、ボロボロになった指先で空を撫でる。
「クスクス……足掻きますね、貴方……」
「でも、無駄ですよ。この世界そのものが、あの方々の玩具でしかない」
「あの方々?」
「ええ♪ “世界の法則”すら塗り替える存在。歪めて、壊して、それを愛でる……」
「私も!貴方も!その傑作のひとつなんですよッ!」
メフィストはボロボロになった指で、レイスを突き刺すように指差した。
レイスの目が細まる。その奥に、かすかに苛立ちが揺れた。

「……なるほど。上位存在ってやつか」
「そう。終焉も、裏切りも、涙も、絶望も、何もかもが、あの方々の歓喜に変わる」
背後の観客席で、また拍手が鳴る。
それは生者のものではない。
顔を持たない“深淵の観客”たちが手を打ち鳴らしているのだ。
レイスは煙草の灰を落としながら、深く息を吐いた。

「……俺が一番嫌いな概念だ。見てるだけの神様なんてよ」
「俺は“演じる側”じゃねぇ。壊す側だ」
レイスの足元で魔力が爆ぜた。
紫電が走り、サーカスの空間を揺らす。
その威力にメフィストの片膝が崩れかけるが、狂ったように笑い返す。

「いいですよ……壊してみせてください! この不滅を!」
「そっちが神の代理人なら、こっちは反逆者(リベリオン)ってやつでやってやらぁ!!」
二人が跳ぶ。
テントの中央、深淵の虚無が口を開けるその頂点。
魂を賭けた、“一晩限りのサーカスショー”最終幕が降りようとしていた。