フーロン編-瑞兆の麒麟、凶星の虹 - 1/6

午後の陽は、少しだけ西へ傾いていた。
ガイウスたちは、なんとなくそのまま店に残っていた。
次の情報をどう集めるか。ネプトゥヌスをどう追うか。
考えるべきことはいくらでもあったが、辣子鶏の洗礼を受けた直後では、どうにも頭がしゃんとしない。

「……まだ舌ヒリヒリする」
「自業自得でしょ」
「いやあ、でも面白かったなあ。あそこまで綺麗に引っかかるとは思わなくて」
「笑うなバルトロメオ」
そんな気の抜けたやり取りをしていた時、店の戸がからん、と開いた。

「ハオー、いるカー?」
入ってきたのは、猿に似た顔立ちの獣人系魔族だった。
肩に担いだ籠には、丸々とした桃が山のように盛られている。
産毛の残る皮に夕方の光が当たり、ほんのりと白く霞んで見えた。
「おや、シェンじゃないカ。いっぱい持ってきたネ」
「山で採れすぎたんダ。うちだけじゃ食いきれなくてナー。腐らせるのも惜しいから、半分やるヨ」
「ありがとネ~」
ハオは何の警戒もなく籠を受け取った。
フーロンでは魔族も人も獣人も、こうして当たり前に桃をやり取りするらしい。
その光景に、ガイウスはまだ少しだけ慣れない。

「ずいぶん気前いいんだな」
「この時期は桃たくさん採れるヨ。多いと困るネ、少ないともっと困るけど」
ハオは籠の中身を一つ持ち上げ、満足そうに眺めた。
ルッツはさっそく身を乗り出す。
「わ、でっかい。ねえこれ甘い?」
「甘いヨ。でも足は早いネ。明日には何個か傷むかも」
そこへ、店の前を通りかかった近所の常連たちに、ハオが気軽に声を掛けた。
行商の老婆、湯治帰りの夫婦、薬屋の若者。
籠からいくつかずつ手渡していくと、皆が慣れた様子で礼を言って受け取っていく。

「ありがとネ、ハオちゃん」
「次は杏が採れたら持ってくるヨ」
「その時は干し杏にするといいネ」
そんなふうに、桃はみるみる減っていった。
だが、それでも少し余った。
籠の底に、五つ。
どれも熟れ具合がよく、明日まで置けば危ういものばかりだ。
ハオは腕を組み、桃を見下ろした。

「……これは保存食にするネ」
「保存食?」
「甘露煮ヨ。煮詰めれば日持ちするネ」
言うが早いか、ハオはくるりと踵を返して厨房へ向かった。
あまりに迷いがない。おそらくフーロンでは、余った果物を煮るくらい日常の手つきなのだろう。
ガイウスは何となく、その背を見送る。
自分たちは本来、こんなところで桃の行く末を眺めている場合ではない。
六将を追い、この国の流れを読み、戦うための手を探らなければならない。
……なのに。

「ねえ、あたしたちも手伝おっか」
「は?」
「だって今ちょうど暇じゃん。情報収集って言っても、夕方は店閉めるとこ多いし。桃剥くくらいならできるでしょ」
「僕は賛成かな。さっきお世話になったし、こういう時に手を貸しとくと地元の空気も見えるしね」
「いやおまえら、なんでそんな自然に“桃を煮る流れ”に乗れるんだよ」
「フーロンに来たんだから、フーロンの流れに乗ったほうがいいでしょ」
ルッツに真顔で返され、ガイウスは口をつぐんだ。
その理屈は雑なようでいて、この国では妙に正しい気がするのが腹立たしい。
厨房の奥から、ハオの声が飛ぶ。

「ヒマなら手伝ってヨー!皮むくの大変ネー!」
間延びした呼びかけだった。
断る理由はいくらでもある。だが、立ち去るほど切迫した状況でもない。
むしろ今のこの半端な時間を持て余していたのは事実だった。
「……わかったよ。手伝やいいんだろ、手伝や」
六将を追う旅の途中だというのに。
激辛料理に敗北していた復讐者は、夕暮れの異国で、桃の皮を剥くことになった。

辛味のように舌を刺すでもなく、酒のように鼻へ抜けるでもない。
ただ静かに、しかし確かに、その場の空気へ溶け込み続ける。
甘さというものは、もう少し脇役めいた存在だと思っていたのに、ここでは妙に堂々としていた。
木杓子で鍋をかき回しているハオは、鼻歌まじりだった。
「火、強すぎるとダメだヨ。桃すぐ崩れるネ。でも弱すぎても味しみないヨ」
「面倒くせぇな……」
「料理はだいたい面倒なものヨ。でも面倒くさいことの先に、うまいものあるネ」
のんびりした声だった。仙人じみているくせに、言っていることは妙に生活臭い。

鍋の中で桃が煮える音は、戦場とは無縁の静けさを持っている。
ぐつり、ぐつりと、規則正しく泡が弾け、そのたびに橙色の液面がわずかに揺れる。
炎は強すぎず、弱すぎず、ただ“続いている”だけの火だった。
この国は違うと、そう聞かされてきた。
だからガイウスは、どこかで構えていた。
否定されるのだと、あるいは利用されるのだと。
復讐を笑われるか、煽られるか。
どちらにせよ、“踏み込まれる”と。

「恨み晴らすノ、いいネ」
あまりにも、あっさりしていた。
「……は?」
思わず間の抜けた声が出る。
ハオは鍋から目を離さない。
ただ、淡々と桃をかき混ぜながら続ける。

「恨みあるなら、晴らしたほうがいいヨ」
肯定だった。
それも、拍子抜けするほど単純な。
正義も悪もない、思想も、説教もない。
ただの事実のように、置かれる言葉。

胸の奥で固まっていた何かが、わずかに軋む。
それが否定ではなく、肯定であることに、逆に戸惑う。
――こんなにも軽く、言っていいのか。
自分が抱えてきたものを、縋ってきたものを。

「でもそれだけだと人、簡単に壊れるヨ」
「壊れる……」
ガイウスは、無意識に繰り返していた。
その言葉に妙な実感があった、思い当たる節がいくつもあった。
怒りだけで進む感覚、それが止まったときの空白。
何も残らない予感。
ハオはようやく少しだけ視線を上げた。

「だから欲を流す」
柄杓が、ゆっくりと円を描く。
鍋の中の桃は、すでに原型を失いかけていた。
角は丸まり、色は深まり、汁と一体になり始めている。
「こんな風にネ」
とろり、とひとすくいされたそれは、もう“桃”というより、甘い塊だった。
「桃、煮詰まってきたヨ」
その一言で、空気がほどけた。

ガイウスは、ようやく息を吐いた。
戦いではない。
否定も、肯定も、極端ではない。

この国は流す、怒りも欲も、復讐すらも。
燃やし尽くすのではなく、形を変えて、溶かしていく。
ガイウスは、鍋の中を見つめたまま、わずかに目を細めた。

(……面倒な国だな)
だが同時に。
(……嫌いじゃない)
そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
桃の甘い香りは、意外なほどしつこく残る香りだった。

桃は煮詰まってきていた。
白い砂糖で透き通るように艶を出したものと。
三温糖でほんのり琥珀色に染まったもの、鍋の中で色が違う。

「半分は保存ネ。でも半分はシェンに返すヨ」
「返すって……あいつ、桃くれたやつだろ?」
「うん。あいつ、三温糖の甘露煮に目がないんだヨネ」
ハオは茶色い砂糖を指でつまむ。

「まるでウーコンだヨ」
「うーこん……?」
バルトロメオが首を傾げ、ハオはくるりと振り返る。
「あぁ、孫悟空っていえばわかりやすいカナ?」
「あぁ!それは知ってるよ。あの天竺目指してるお猿さんだね」
バルトの声は軽い。
だが、その言葉が妙に空気を変えた。

西遊記、天竺を目指す旅。
道中は騒がしく、喧嘩も絶えず、それでも一歩ずつ進む。
ガイウスは、手を止めた。
湯気の向こうに、ふと別の光景が重なる。

旧勇者PT-自分、サタヌス、ヴィヌス、メルクリウス。
――どこか似ている。
目的があり、肩を並べ、無茶をして、笑って、喧嘩して。

勇者と魔族、正義と敵、斬る側と斬られる側。
本当に、きっぱり分かれていたのか。
ハオは三温糖の甘露煮を瓶に詰めながら言う。

「甘いものはネ、誰かと分けたほうが美味いヨ」
「……保存食なんじゃねぇのかよ」
「保存もするヨ。でも全部抱え込むと、腐るネ」
あの四人は、天竺を目指していたのか?
それとも天竺に辿り着いた瞬間、旅が終わってしまったのか。
西遊記は帰り道もある、だが自分たちはどうだった。
魔王を倒し、目的を果たし、そして追放。
旅の終わりは、解散だった。

「……天竺、か」
天竺を目指す旅は、少なくとも“ひとり”ではなかった。
いまの自分は復讐の終点を目指している。
だがそこに、仲間はいるのか?
鍋の火が、ぱちりと鳴る。

「猿はネ、だいたい甘いもの好きヨ」
「偏見だろそれ」
「経験ネ」
桃の香りが、やわらかく残る中。
店の裏手、通りを挟んだ先。白壁の建物の軒先に、小さな布札のようなものが吊られていた。
なんてことのない飾りだと思ったのは一瞬だけだった。
そこに描かれた紋が、妙に目を引いた。

不思議な紋章だった。
白と黒の円が、ぴたりと重なっている。
否、白と黒だけじゃない。円の中に、小さく「互いの色」がある。
白の中に黒が沈み、黒の中に白が宿っている。
ただ二つに分かれているのではなく、喰い込み、寄り添い、飲み込み合うようにひとつの形になっていた。

向き合う魚のようにも見えた。
あるいは、追いかけ合う眼のようにも。

単純な図形のはずなのに、妙に記憶へ刺さる。
まるでこちらを見ているわけでもないのに、視線だけが吸い寄せられていく。
宗教か。呪符か。家紋か。わからない。わからないのに、目が離れない。

その動きはただ風に流されただけのはずなのに、妙な感覚があった。
試されている、というほど大げさではない。
けれど、どこかでこちらの出方を窺っているような、静かな気配。
紋章そのものが意思を持って、ガイウスの目に焼きつこうとしてくるような。

「はいデキた。ありがとネ~、この時期は桃が多いから腐る前に煮詰めないとネ」
あまりにのんきな声だった。
その一声に引っぱられるように、ガイウスの意識はあっさり鍋の方へ戻される。
甘い湯気。煮崩れかけた桃。木匙についたとろみ。
白黒の紋章のことが水面の下へ沈むみたいに、すぐ意識の底へ遠のいていった。

「おい、聞いてんのかヨ」
「……聞いてる」
「なら皿持つネ」
「人使い荒ぇな、おまえ」
「使えるものは使うヨ」
軽口を交わしながら皿を受け取る。
煮汁をまとった桃が、つやつやと光を反していた。
さっきの紋章のことは、もう口に出す気にもならなかった。
説明されても、たぶん今の自分には理解できない。そんな気がした。
けれど完全に忘れたわけではない。

皿へ桃を移しながらも、視界のどこかに、あの円の残像だけが薄く残り続ける。
白の中の黒。黒の中の白。
相反するものが、互いを抱えたままひとつの形になる、不気味なくらい静かな紋。
それは記号というより、問いのようだった。

剣で断ち切るべき敵か。
それとも、まだ名も知らない理か。
ガイウスにはわからない。
わからないまま、ただその形だけが、妙に鮮やかに焼きついて離れなかった。

窓の外で、風がまた吹く。
見えないはずのその紋章が、どこかでまだ揺れている気がした。
まるで、こちらを静かに試すように。