一方、マルスは囲炉裏の炎をジッと見つめながら考え事をしていた。
「そろそろだな……」
パチパチと薪が爆ぜる音、薄暗い部屋に暖かな光が揺らめく。
ゆらゆらと揺れる火を見つめながら、すっと火の方に指をさす。
火はまるで彼に操られるように渦を巻いて。遠くの景色を写していく。
そして、程なくし向こう側から「繋がった」相手の声が聞こえてきた。
「はいはいは~い。本日は晴天なり……かわいさ無形文化遺産のウラちゃんよ~★」
「ウラヌスよ、アルキード王国には潜り込めたか?」
「もうマルたんノリわる~い、それが人にものを頼む態度かしらぁ?」
「いいから答えろ、どうなんだ?」
「……まぁいいけどぉ、ちゃんと通信以外は潜伏に徹してるわよ~ん。
でもちょっとつまんないわね、いつまでやるのコレ~?」
「私が皇様に取り入り、アルキード王国に侵攻させるまでは。
それまでは演技に付き合ってもらうぞ?」
「うへぇ~マジめんど~い、アタシは自由にやりたいのにさぁ~?」
「貴様の勝手は今に始まったことではない、さっさとやれ」
「ハイハイ、りょーかいしましたっと♪じゃあね~」
かれこれ数ヶ月ぶりに通信したが相変わらずの調子であった。
ウラヌスは誰相手にもあんな感じである、まぁ元気な証と受け取ろう。
末っ子との通信を済ませ、囲炉裏に火が灯る。
ネプトゥヌスが戻ってきたのは、丁度そのタイミングだった。
「……筍は、食ってきたか?
庵の主――マルスが囲炉裏の向こうでぽつりと尋ねた。
「それは良いのです!!」
ピシャリと即答するネプトゥヌス。
まるで痛点を突かれたかのような鋭さだ。
ふん、と鼻を鳴らしてマルスは再び筆を取る。
彼の隣には、今朝から一文字も進んでいない巻物が広げられている。
「それよりもですわ!マルス、あなた……この国に里帰りしてまで!
多少は魔王様の復活方法について調べていましたの!?」
「……ここで瞑想をしていた」
筆を走らせながら、まるで天気の話でもするかのような口調。
ネプトゥヌスのこめかみに青筋が浮かぶ。
「貴方、ユピテル死にましたのよ!? ご存知!?」
ネプトゥヌスの声が庵に響いた瞬間、囲炉裏の炎がピクリと揺れた。
だが、マルスの筆は止まらない。まるで燃え尽きた灰のように無反応だった。
その様子に苛立ちを覚えつつも、ネプトゥヌスは吐き捨てるように言葉を続ける。
「魔王様亡き後、彼は“唯一の柱”でしたのよ。
誰もが再起の旗を彼の手に見ていた。
けれど、それが……それすらも失われてしまったのですわ」
魔王軍副総帥・ユピテル・ケラヴノス。
雷と共に現れ、雷と共に討たれた。
――討伐者の名は、ガイウス・アルドレッド。
かつての勇者にして、今は「追放者」と呼ばれる男。
その名が魔王軍に、否、全世界に轟いたあの日。
魔族たちの目に映ったのは、“神のような男の死”だった。
「魔族の間では“再起の夢”が崩れ落ち……」
「冒険者ギルドは今、魔王軍討伐依頼で入れ食い状態ですわよ」
口元を歪めるネプトゥヌスの目は、もはや怒りを超えて呆れていた。
「どんな無名の若造も“俺にも討てるかもしれない”と舞い上がっている。
街では魔族狩りが娯楽になりかけている……これが現実ですのよ」
マルスはようやく筆を置き、火を見つめた。
「……それでカリストは?」
「精神を壊して、行方不明ですわ」
静かに、炎がまた揺れる。
竹庵の木組みの影が、まるで何かを悼むように滲んだ。
カリスト・クリュオス――氷の魔将。
ユピテルの副官にして、ただ一人“彼”に忠を尽くした男。
その忠が絶たれた今、彼がどこで何をしているのか誰にもわからない。
ネプトゥヌスは息を吐いた。怒りでも、哀しみでもない。
これは、ただの“絶望”に似た感情だ。
「……私たちは、“六将”として何をしているのかしら」
問いかけにマルスは答えなかった。
ただ一枚の和紙に、さらさらと筆を滑らせる。
そこに書かれていたのは、ユピテルの戒名のような文字だった。
『轟雷は驕りにより討たれた。その名は、雷と共に消えた』
それが、マルスにとっての弔いだった。
ネプトゥヌスはその文字を見つめ、唇を噛む。
(こんなもの、哀悼ではありませんわ。ただの記録、まるで他人事……)
彼女は思う。この炎の男は、本当に仲間だったのかと。
けれど、次の瞬間――。
「だが、“奴ら”が動く時、私は立ち上がる。
その時こそ、名を刻むにふさわしい戦が始まる」
マルスの言葉が、囲炉裏の火のように低く、熱く響いた。
ネプトゥヌスは目を伏せる。
彼の中にあるのは、情でも義でもない。
“歴史に名を残す”という狂気だけだ。
「もう仙人ですのよ!!やっぱりこの男苦手ですわァァ!!」
ネプトゥヌスは叫んだ。
思わず、筍を囲炉裏の火に投げ込んでしまいそうになる。
「“動くのを待つ”って何ですの!?ガイウスたちが動いている!
今がその時でしょう!?ユピテルがやられて、六将が分断されて……」
マルスは筆を止めない。
ただ黙々と、今日という日の記録を書き記していく。
「“いま”動く者もいれば、“いずれ”動く者もいる。私は後者だ」
「どんな分類ですのそれは!?ただのサボりですわよ!」
「……私には、“炎”の性がある。燃えるべき時にだけ燃えればよいのだ」
囲炉裏の火がぼうっと一層明るくなる。
ネプトゥヌスは黙った。
相手の言っていることは相変わらず理解しがたいが――。
その瞳の奥に、静かな執念だけは確かに見えた。
「……貴方って、本当に変わりませんわね」
「すまんな。私は、人の顔など興味がないのだ」
ひときわ強く火が弾け、竹の香りが空間を満たした。
竹林を抜け、土の道を歩いていると。
通りかかった商人風の魔族たちが、ネプトゥヌスの連れていた白馬を目にして足を止めた。
「おや……これはいい馬だ。白毛は珍しい、気品もある」
「脚の筋肉も見事だ、戦場でも引けを取らぬでしょうな」
彼らは口々に褒めた。
ネプトゥヌスは手綱を軽く撫でて、冷ややかに笑う。
「その子にはもう乗りませんのよ。……ええ、言い値で売りますわ」
「ほう、そうかい。ならば――この値はどうだ?」
提示された袋の中、銀貨の音が重々しく響いた。
ネプトゥヌスは一瞬目を細めてから、すぐに頷いた。
「……衣替えにちょうどいい金額ですわね」
白馬が短く嘶いた。
その声に振り返ることもなく、ネプトゥヌスは袋を受け取って歩き出す。
夜逃げの道連れはここまで、これからは一人で――否、この地で“居つく”ために。
街の衣装店。
棚に掛けられた布地は赤や金が多く、華やかな色合いに目を奪われる。
ネプトゥヌスはふと、壁際に掛けられていた一着に視線を止めた。
――青の旗袍。
淡く光沢を放つ生地、立て衿に繊細な刺繍が施された、気品ある一着。
「お客様……その青、よろしいのですか?」
店員の魔族が、少し驚いたように声をかけた。
「人魚といえば青い肌なので、肌色を引き立てる青がいいと、皆おっしゃるのですが……」
ネプトゥヌスは鏡に映る自分の姿をちらりと見ただけで、返事をしなかった。
ただ、青布に手を伸ばし、生地の冷たい感触を確かめる。
「……フーロンの民はどうしても肌が赤っぽくなるから、青は似合いづらいのです。
でも――貴方なら、とっても似合うでしょうね」
その一言に、彼女はふっと微笑んだ。
次の瞬間、青い瞳がまるで氷の刃のように鋭く光り、短く告げる。
「ええ、これをいただきますわ」
衣替えの支度金は、つい先ほど白馬を売った代金。
新しい旗袍と、髪をまとめる青のシニヨンカバーを手に入れたネプトゥヌス。
その姿はこの国に溶け込むような、新しい姿を纏っていた。
衣装店の鏡の前。
ネプトゥヌスは試着した青の旗袍を、すっと身に纏う。
裾には白糸で繊細な「波」の刺繍が広がっていた。
水面の揺らぎのような文様に指を滑らせ、ふと脳裏に一節がよみがえる。
――「水は方円の器に随う」。
フーロンの言葉である。どんな器でも形を変え、流れ、在り続ける。
(……そう。わたくしは水の魔将。生きるためなら、器の形に従いましょう)
ネプトゥヌスは鏡越しに、自らの青白い肌と旗袍の青を重ね合わせる。
それはまるで、フーロンの水面と一体化したかのように自然で――美しかった。
「プライドを貫き通した果てがユピテルですもの」
低く、しかしはっきりと呟く。
「わたくしはあの男のようにはなりません。どのような形でも……生き延びてみせますわ。
――あの“アヴェンジャー”から」
金の簪でシニヨンを留め、青のシニヨンカバーを被せる。
新しい姿に身を包んだネプトゥヌスは、まるで別人のように堂々と歩み出した。