庭の土は、まだ昼の熱を少し残していた。
踏みしめるたび、乾いた匂いがふわりと立つ。
遠くで屋台の鉄板が鳴る音、桃の枝を揺らす風。
フーロンの暮らしは、戦の余韻すら日常へ溶かしていく。
だが稽古場の空気だけは、薄い膜みたいに張り詰めていた。
ハオが扇を畳み、軽く顎を上げる。
「次は武闘の型だネ」
ガイウスは剣を外した腰を無意識に撫で、少しだけ肩をすくめた。
剣がないと、どこに手を置けばいいのか分からない。
「うん……あの、いいかな」
言い方が妙に遠慮がちで、そこが余計に目立つ。
いつもの軽口はない。ギャラリーの視線を笑い飛ばす余裕もない。
ただ、自分の中に残っているものを確かめたくて、口を開く。
「俺、帝国でユピテルを倒したとき……ちょっとだけ武闘っぽいことしたんだ」
シャオヘイが静かに頷いた。
「ふむ」
たったそれだけの返事が、逆に怖い。
評価も断定もない。逃げ道だけが消えていく。
ガイウスは息を整え、ゆっくり腰を落とした。
右腕は蛇のようにしならせ、左腕は蟷螂の鎌のように立てる。
指の角度が少し違う。肘の高さも本来の流派とはズレている。
形だけ寄せた“何か”になっている。
本人もそれが分かっているから、視線がわずかに泳ぐ。
「……こういう構えだ。うろ覚えだけど」
ハオは目を細め、尻尾をぱたぱたさせた。
笑っているのに、軽くない。シャオヘイは一歩だけ距離を詰め、重心を見る。
足の置き方、呼吸の置き方、力の逃げ道。視線が鋭い。
「蛇と蟷螂が混ざってるネ~。惜しいヨ」
くすくすと笑う。
「腕の角度が違うネ。蛇は“巻く”。蟷螂は“刺す”。お前は両方やろうとしてるヨ」
言葉は柔らかいのに、骨の位置まで言い当てられている気がした。
ガイウスの肩が、ほんの少しだけ固まる。混ぜたつもりはない。
必死だっただけだ。必死の時、人は最短の形を真似る。だから似た。でも似ただけ。
庭の空気が少し和らいだところで、柱に寄りかかっていた金髪が肩をすくめる。
「へぇ……蛇と蟷螂か」
バルトロメオは指で顎をなぞり、にやりと笑った。
口調は軽いのに、目がよく見ている。
踊り子の目は動きを読むのが癖だ。体の嘘も、本音も、全部拾う。
「そりゃ雷様に効いたわけだ」
「何がだよ」
バルトは両手を広げる。まるで舞台で観客に説明するみたいに。
「蟷螂は鎌を振り上げて威嚇する。あれは“上を取る”生き物だ」
「蛇は気配なく這いずり回って、気づいた時には喉元にいる」
肩をすくめる。
「どっちも“目立ちたい雷様”が一番嫌いそうじゃない?」
「確かにネ~。雷は“見てほしい”の生き物ヨ」
「雷は上から落ちる。蟷螂は上を奪う。蛇は下から崩す。相性は悪いでしょう」
ガイウスは少し考える。考えるというより、思い出が勝手に浮かび上がる。
ユピテルの顔。
子供が癇癪を起こしたみたいな笑い。世界を燃やすような無邪気さ。
自分がそこへ踏み込んだ瞬間、雷が正面から来るのを、彼は直線で受けなかった。
蛇のように回り込み、蟷螂のように間を奪い、点穴で止めた。
あの時の自分は、剣士ではなかった。
勝つために“別の形”になった。
「いかにもあの雷様が嫌いそうな動物だね」
「だから、うろ覚えでも効いたんだろ?」
バルトが笑う。ガイウスは鼻で息を吐く。
言い返そうとして、やめた。
今は誇る場面じゃない。誇った瞬間、型が嘘になる。
「効いたのは“動物”じゃないヨ。お前が“流した”からヨ」
言い切る声が、妙に静かだった。静かだから余計に重い。
シャオヘイが頷き、同じ温度で言葉を継ぐ。
「雷は直線。あなたは曲線になった。それだけです」
それだけで済むなら、今までどれだけ楽だっただろう。
バルトが肩をすくめる。
「それに、勇者殿の構えは重心が浮いていない。よく観察している証拠です」
「力で殴る人間は腰が高いヨ。逃げる人間は腰が揺れる。お前は“残る”腰してるネ」
ガイウスは一瞬だけ目を伏せた。
剣を握った時から、逃げない癖だけは抜けない。
逃げないから、追放されても立っていた。
逃げないから、六将を追っている。
逃げないから、間に合わないかもしれない哀しみにも、立ったまま耐えてしまう。
帝国でユピテルを打ち倒した時。剣ではなく、点穴で止めた。
あれは偶然ではなかったのかもしれない。
「でもネ。これは拳法じゃないヨ」
ぴし、と腕を直す。指先の角度を一段だけ変える。
肘の高さをわずかに下げる。たったそれだけで、構えが“生き物”になる。
今までのガイウスの形は、死んだ標本だった。
「これは“思い出拳”ネ」
「ですが、素養はある。小さい動きで決める思考。フーロン向きです」
ハオはじっとガイウスを見る。いつもの飄々とした目ではなく、師匠の目。
「お前、力で全部片付けようとする顔してるケド」
少しだけ真面目な声。
「本当は“流す”の、嫌いじゃないネ?」
ガイウスは答えない。
答えると、また嘘になる気がした。
勇者の仮面みたいに、自分で“正しい答え”を作ってしまう気がした。
今度はほんの少し、蛇を意識して巻く。
相手の直線を、自分の曲線へ引き込む。肩の力を抜き、肘を落とす。
重心を沈める。足の裏で地面を掴む。そこに居続ける。
「そう。それです」
ハオが笑う。
「大童一歩手前から、ちょっと戻ったネ~」
最大級の侮辱を、軽く投げる。
だが今回は、悪意ではない。むしろ合格点に近い。
ガイウスは小さく息を吐いた。笑えない。怒れない。でも少しだけ、軽くなる。
「……基礎からやる」
「よろしいヨ。まずは“混ぜない”ことからネ」
未完成の型は、ここで初めて“学び”になる。
夕暮れの光が稽古場を朱に染めていた。
汗を拭ったレンが両手を合わせる。
「日が暮れてきました。今日は終わりにしましょう」
ガイウスが肩で息をしながら頷いたその時、ハオが不意に笑った。
「じゃせっかくだから、ちょっと面白い戦い方も教るよ。――酔拳」
「すいけん? 酔っ払いながら戦うのか?」
ガイウスが半信半疑で聞き返すと、ハオは首を振りながら足を踏み出す。
「違う違う、酔っぱらいの“ふり”をするのヨ。こう……」
よろよろと千鳥足で歩き出す。
足取りは危うく、今にも転びそうに揺れる。
俯いた顔は酒に酔いつぶれた老人そのもの。
観客の妖狐たちが失笑するほど、見事な酔態だった。
「……いや、それマジで使えんの!?」
呆気にとられるガイウス。
だがハオは真顔で頷いた。
「強いヨ。搦め手って意味じゃ最強格かもネ。
相手が油断した瞬間――こうして崩して、返す!」
くるりと半身をひねり、よろめきから流れるように掌打を放つ。
まるで仕掛けを隠した演舞のような一撃に、ガイウスは思わず目を見張った。
酔っぱらいのふり-酔拳。
奥の手として会得する拳に、勇者は苦戦していた。
「えーと……こう?」
ガイウスは半端に腰を落とし、片足をふらつかせる。
「ダメダメ」
ハオが首を振り、扇で床を軽く叩いた。
「もっと足を交差させて。足元おぼつかない感じにネ」
「いや、意識して千鳥足やれとかむずいんだが!?」
ガイウスはぐらりと足を組み替え、わざとらしくよろける。
観客の妖狐たちから失笑が漏れた。
「あとね~」
ハオは愉快そうに目を細める。
「酔っぱらいっぽい独り言を言うのも有効ヨ。“酔ってないよ”とかね」
「なにその間抜けな戦法!?」
思わず叫びながら、ガイウスは片手をぶら下げ、ふらふらと前に進む。
「酔ってないよ~……あれ? 足元が……」
ガイウスのわざとらしい酔態に、周囲から笑いが漏れる。
そこに割って入ったのはバルトロメオだった。
「ガイ君、リアリティは大事だよ~。僕、仕事柄で酔っぱらいはよく見るからさ」
「お、お前何を言い出すんだバル……」
ガイウスが眉をひそめる間に、バルトロメオは器用に足をふらつかせ。
顔を赤らめる真似をする。
「いい? まずは目が据わってる感じで……“もう一軒行こうぜぇ~”とか言うんだよ」
肩を相手に預ける仕草まで添えてみせる。
「ちょっ、演技細かすぎない!?」
ガイウスは引きつった笑みを浮かべながら真似しようとする。
ガイウスは片足を交差させ、わざとらしくよろめいた。
「も、もう一軒……行こうぜぇ……」
千鳥足で肩を揺らす姿に、広場の観客から大爆笑が起こる。
「いるいる、こういう酔っぱらい!」
妖狐の青年が膝を叩いて笑う。
「あ~、こないだ店の前で吐いてたおっさん、あんな感じだったわ!」
鬼族の女が涙を浮かべて頷く。
「そうそう! うちの亭主、酒場帰りにまさにこれよ!」
観客の笑いはどんどん膨れ上がり。
いつしか「勇者の稽古」ではなく「即興喜劇」のような空気になっていた。
「ちょっ……なんで俺が大道芸人みたいな扱いなんだよ!!」
ガイウスの抗議は、モブたちの拍手と喝采にかき消された。
ハオがケラケラ笑いながら頷く。
「うんうん、これなら完璧に“酔拳”!」
「完璧に間抜けの間違いだろ!!」
こうして勇者ガイウスは、フーロンの宿場町にて。
“酔っぱらいのふり”というくだらない特技を会得してしまった。
ハオが徳利を片手に、にやりと笑う。
「酔拳のコツはネ〜、とにかくダラダラした動きするコト!」
彼女がふらふらと体を揺らしながら見本を見せる。
「で、間合いに入った瞬間だけ――喉の皮をねじったり、蹴りを叩き込むッ!」
ガイウスが眉をしかめた。
「いや、最後のだけ急に殺意高くねぇ!?」
「そりゃそうヨ、油断させてナンボの拳ネ」
「でもコレが難しくテネ〜、プロの武闘家でも酔拳の達人は中々いないんダヨ」
その横で、ガイウスは既に半分マジで酔っていた。
立ち上がると、よろけ、足を取られ、壁にぶつかり、周囲から爆笑が起きる。
「そんな超難易度覚えさせるなよ……」
ガイウスは自分の手を見つめた。
その指先が震えているのは、酒のせいだけではなかった。
「酔ったふりして殴るとか、ふざけてんの!?」
「ネタにしか見えねぇ!」
仲間も、観客も、口をそろえて大笑いする。
だがその喧噪の中、ガイウスの脳裏の遠い奥で――あの黒猫の姿がふとよぎる。
長い前髪に隠れた片目、冷ややかな赤い瞳。
『有効ですね……』
腕を組み、半眼でこちらを見据える黒猫の幻影。
プルトだ。
彼女は“弱いフリ”を常に戦法として使ってきた暗殺者。
だからこそ酔拳が「隙を作る戦術」であると即座に理解していた。
「……いや、なんでお前に褒められなきゃなんねぇんだ」
ガイウスは苦々しく頭を振る。
――酔拳。あまりにもくだらない戦法。
だが勇者の脳裏のプルトは、ただ一人頷いていた。
『いい戦法だ』
くだらない特技を会得したはずなのに、ガイウスの背筋に冷たい戦慄が走る。
この拳が本当に決定打となる未来を、どこかで確信したかのように。
ガイウス自身はまだ気づいていない。
笑われながらも踏み出したこの奇妙な構えこそが。
後に“獄炎将軍マルス”を打ち倒す決定打となることを――。
稽古の休憩時間。
バルトロメオが水を飲んでいる横で、ルッツがじろりとガイウスを見た。
「ねぇガイ、あんた猫かぶり勇者って自分で言ってたけどさ、
その演技力、それだけじゃないでしょ。なんかさ、演劇の先生でもいた?」
ガイウスは苦笑しながら肩をすくめる。
「……演劇の先生? 言わせんな、ヴィヌスだ。絶対ヴィヌス。」
ルッツが「ヴィヌス?」と首を傾げる。
ガイウスは遠い目をして、手のひらで頭をかく。
「アイツ、ちょっとでも“芝居に出来そう”と思ったら、
サタヌスもメルクリウスも全員巻き込んでな、全員“演劇部”だよ。」
──それは、まだ勇者一行が「世界を救う」なんて言葉を信じていた頃。
湖畔に満月が浮かぶ夜だった。
「ねぇ男衆、この湖と満月……」
ヴィヌスが両腕を広げ、得意げに立つ。
「騎士と王女の逢引に使えそうじゃない?」
メルクリウスがすぐさま眼鏡を押し上げた。
「使えないよ。湖は湿気が多いし、ただの月だよ。」
「眼鏡は黙ってて♡」
ヴィヌスが笑顔のまま軽くいなす。
メルクリウスの肩がほんのり下がった。
「じゃあ俺、草やるから。あとよろしく。」
サタヌスが早々に地面へ座り込み、適当に草をちぎり始める。
「草ってなんだよ草って!」
ガイウスがツッコむが、もう誰も止まらない。
ヴィヌスは湖面を指差し、満足げに言った。
「完璧じゃない? このロケーション! 私が王女で、シェパードが騎士!」
「やめろ! セリフとか用意してんじゃねぇ!」
バカみたいな笑い声が、夜の湖面に響いた。
あの時の光は、世界を照らすどんな炎よりも、柔らかく暖かかった。
「なんだ、勇者時代から結構仲良しじゃないか。」
「仲良くねぇし……」
そう言いながらも、ガイウスの口元には微かに笑みが浮かんでいた。
あの頃の喧騒と、眩しい舞台の光が、ほんの一瞬だけ脳裏をよぎった。
夕闇に響く拍手と笑い。
太極の静に始まり、酔拳の奇に終わる。
勇者の一日は、フーロンの空にすっかり溶け込んでいた。
夕闇が迫るフーロンの宿場町。
汗まみれの一行は、稽古を終えて石畳の道を歩いていた。
「しかし勇者ってほんと天才肌だね~」
バルトロメオが笑い混じりに肩をすくめる。
「掌打でぶっ飛ばされてたのが、最後にはちょっとだけ受け流せるようになっちゃうんだから」
「勇者補正ってやつ?」
ルッツがわざとらしくため息をつく。
「あたしたち、ついていけるかな~」
その言葉に、レンは振り返って真面目な顔をした。
「習得速度は人それぞれです。……マイペースにいきましょう」
黒衣の少年らしい落ち着いた声に、二人は思わず苦笑する。
その時、道端の菓子屋の棚に目を留めたハオが「あっ」と声を上げた。
「そうネ。焦ると拳も乱れるヨ」
微笑みながら、小袋を手に取る。
「桃酥(タオスー)食べる? 丁度人数分あるし」
袋を開くと、胡桃の甘い香りがふわりと漂う。
夕暮れの石畳を歩きながら、袋から配られた桃酥を受け取る。
レンは指先でクッキーを割り、胡桃の香ばしさを噛み締めた。
「……」
その顔に、稽古の疲れとも違う、満ち足りた笑みが浮かぶ。
(シェンタオでは……食べ損ねてしまった)
(やっと……ちゃんと味わえた)
彼にとって胡桃は子どもの頃からの大好物。
それをようやく、仲間と共に、落ち着いた時間の中で口にできる――。
その満足げな表情を見て、ハオは小さく頷き、心から嬉しそうに笑っていた。