フーロン編-陰陽、巡る拳 - 5/5

夜のシェンタオは、昼間とは別の街になる。
提灯の灯りが風に揺れるたび、影がひとつ増えて、ひとつ消える。
人の数は減っているはずなのに、気配だけはむしろ濃くなる。
どこかで誰かが値を吊り上げ、どこかで誰かが命を売り渡す。
そんな匂いが、夜気に混じっていた。

「……で、夜のシェンタオといえば?」
わざと軽く言う。自分の内側に触れすぎないための、癖だ。
ルッツが即座に食いついた。
「宝貝!見よう宝貝!絶対なんかあるって!」
無邪気な声。
その軽さが、今は少しだけありがたい。
シャオヘイは一歩後ろで、特に口を挟まない。
ただ視線だけが、ガイウスの背中を静かに追っていた。

知っているのだ。
今のガイウスが、まだ“均されきっていない”ことを。
だが何も言わない。
言葉は、時に均衡を崩す。
そのまま三人は、細い路地へと入っていく。

そこにあったのは、店というより“溜まり場”に近い場所だった。
中からは、鈴のような、金属の擦れるような、不思議な音が絶え間なく漏れている。
踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
「お前たちも宝貝を見に来たか」
不意に、声がした。
振り向くと、柱にもたれかかるようにして一人の少年が立っていた。
年齢は若い。だが、その目はまるで別物だ。獲物の動きを測る獣のそれ。
メキアの暗殺者だ、言葉にしなくても分かる。
纏っている“静けさ”が違う。

「この店は良いぞ」
少年は、店内を軽く顎で示す。
「必ず。お前たちの求めるものが見つかる」
ガイウスは肩をすくめる。

「実用性重視の、メキアのアサシンが褒めるってことは……」
視線を棚へ滑らせる。
並んでいるのは、刀、札、壺、布、見たこともない形の器具。
「お墨付き、ってことだな」
言いながらも、手は止まらない。
昔なら、もっと単純に“強そうなもの”を選んでいたはずだ。
今は違う。どう使うか、どこで使うか、誰に使うか。

この店は“道具を売っている”んじゃない、選ばせている。
今の自分に、何を持たせるかを。
老人は物色する顔ぶれを見て、からからと喉で笑う。
その声は軽いのに、妙に耳に残る。

「せっかくだ、少し“見方”を教えてやる」
言いながら、道士は指先で棚をなぞった。
並ぶ宝貝たちが、わずかに震えたように見える。
「宝貝ってのはな、見た目で選ぶもんじゃない。“今の自分”で選ばれるもんだ」
その言葉に、ガイウスの視線がほんのわずかだけ揺れた。

「例えばそれだ」
道士はガイウスが一度手に取った黒い鈴を、顎で示す。
「破門鈴。閉じたものを開く。鍵だの結界だの、そういう分かりやすいもんも壊すが……」
一拍、間を置く。
「一番よく開くのは、“引き返せなくなる道”だな」
軽く言ったが、その軽さが逆に重い。
ガイウスは何も言わない。
ただ、視線を逸らす。
道士は次に、ルッツの持つ鏡へと目を移した。

「そいつは“照魔鏡”。魔を照らす鏡……なんて言い方をするがな」
くい、と指を振る。
「実際に映すのは“魔そのもの”じゃない。“歪み”だ」
「歪み?」
ルッツが首をかしげる。
「そうさ。怒りでも、恐れでも、願いでもいい。偏ったもんは全部、あれには濁って映る」
道士は、ガイウスをちらりと見る。
「逆に、均されてりゃ……ただの鏡だ」
道士細長い箱を取り出し、ぱかりと開いた。

「陰陽珠。こいつは知ってるか?」
シャオヘイが、わずかに視線を上げた。
ガイウスの胸の奥が、微かに軋む。
つい数時間前まで、自分の中にあったもの。

「魔力の乱れを整える。だが勘違いするなよ」
道士は指で珠を弾いた。
澄んだ音が、店の中に広がる。
「こいつは“直してくれる”わけじゃない。整えるだけだ。均すだけだ」
じっと、ガイウスを見る。

「その先に行くかどうかは、持ち主次第だ」
言葉は柔らかい。
だが、逃げ道は一切ない。
ガイウスは、ほんの一瞬だけ息を止めた。
誰かに救われたわけじゃない、だからこそ戻れない。

「他は?」
あえて、話を逸らすように問うと道士はにやりと笑った。
「いいね、その顔だ。選ばれる気配が濃くなってきた」
次に取り出したのは、細い札束だった。
「これは“封気符”。気の流れを止める。敵の動きを縛るもんだが……」
ひらり、と一枚を指で挟む。

「自分に使えば、“迷い”も止まる。代わりに、動けなくなるがな」
ルッツが顔をしかめる。
「いやそれ不便すぎない?」
「便利なもんだけ欲しがるのは三流だ」
そして最後に、道士は小さな壺を取り出す。
中は見えない。蓋が固く閉じられている。

「これは“納魂壺”。名の通り、魂を収める器だ」
空気が、少しだけ重くなる。
「死者の残滓を閉じ込めることもできるし……生きてるやつの一部を削って入れることもできる」
「うわ、えぐ」
ルッツが引いた。
だが道士は肩をすくめる。

「便利だぞ。大事なもんを、失わずに済む」
その言い方は、どこか皮肉めいていた。
ガイウスは、無言で壺を見つめる。

――失わずに済む。

その言葉が、胸の奥に沈む。
ユピテル、仲間、過去も全部、失ってきた。
もし、これがあったなら――という思考を、断ち切る。
そんなものに縋る時点で、終わりだ。

「さて、どれにする?」
この店はやはり“売っている”んじゃない、選ばせている。
ガイウスはゆっくりと、息を吐いた。
夜の空気が、少しだけ冷たく感じた。
ルッツは、迷いのない手つきで鏡を抱えた。

「じゃあたし、照魔鏡にする!キズ野郎は?」
軽い。いつも通りの調子。
だがその軽さが、逆に選択の重さを際立たせる。
ガイウスは、少しだけ間を置いた。
「俺?ん~……」
視線が棚を滑る。
黒い鈴。札。壺。どれも“使える”。どれも“近道”だ。
「シャオヘイの陰陽珠、壊しちまったし」
言い訳のようで、言い訳じゃない。
事実を、そのまま置いただけの言葉に道士の目が細くなる。

「ほう。陰陽珠を壊したか」
その声音には、驚きはなかった。
むしろ、どこか納得したような響き。
「なら――」
道士は、ルッツの持つ鏡を指差した。
「照魔鏡が一番だな」
店内の空気が、ほんのわずかに変わる。

「照魔鏡はな、陰陽に至ってなきゃ、ただの鏡だ」
静かに言い切る、余計な説明はない。
だが、それで十分だった。
ガイウスは、しばらく黙ったまま鏡を見た。
銀の表面にさっき見た、“遅れて笑う自分”。

――もし今、もう一度見たら同じものが映るのか。それとも?
ガイウスは、ふっと鼻で笑った。

「……上等じゃねぇか」
鏡を受け取るその動作は、思ったよりも軽かった。
選ばれたのか?それとも、自分で選んだのか?
どちらでもいい、少なくとも――今は。

その瞬間、小さな音が店の奥から広がった。
気づけば、いつの間にか増えていた客たちが、まばらに拍手を送っている。
「いい買い物をしたな」
「運がいいのか、悪いのか……」
「どっちでもあるさ」
誰かが笑い、誰かが呟く。
祝福とも、警告ともつかない拍手。
だが不思議と不快ではない、それは“理解者”の音だった。
この店に来るような連中は、皆どこかで同じ選択をしてきたのだろう。
ガイウスは、鏡を軽く持ち直す。

重さはない。
だが、確かに“何か”を持っている感触があった。
メキアの暗殺者も例外でなく、小さく拍手を送っていた。
柱にもたれたまま。相変わらず、表情は薄い。
だが目だけが、はっきりと語っていた。

“力を使う時を見誤るな”

言葉にはしない、だが、確かに伝わる。
ガイウスは、ほんのわずかに口元を歪めた。

「……言われなくても分かってる」
小さく、独り言のように呟く。
それが返答になったかどうかは分からない。
だが少年は、それ以上何も言わなかった。
ただ視線を外す、それで十分だとでも言うように。

店の外では、風が提灯を揺らしていた。
光が、わずかに歪む。
その揺らぎが、どこか鏡の中の自分と重なって見えた。

店を出ると、夜の空気がやけに甘かった。
昼間に通ったはずの通りなのに、景色がまるで違う。
同じ場所、同じ石畳、同じ建物――なのに、どこか“別の街”に迷い込んだような感覚。

「……なんだこれ」
昼間、くるみを砕く音と香ばしい匂いで満ちていた店先。
そこには今、串に刺さった桃がずらりと並んでいた。
艶やかな琥珀色と、蜜をまとった果肉が、提灯の灯りを受けてゆらりと光る。
店の女が、手際よく串を返しながら笑った。

「昼はタオスゥよ。あんたたちも見たでしょ?」
カリ、と軽く表面を叩く音。
だが今は、その代わりに。
「夜はね、こっちの方が売れるの」
とろり、と蜜が垂れる。

「みんな仕事終わりで、甘いものを欲しがるからね」
差し出された一本。
湯気の代わりに、濃い甘い香りが立ち上る。
「おひとつ、いかが?」
ルッツの目が、分かりやすく輝いた。

「いる!!」
即答だった。
受け取って、かじる。
ぱき、と軽く歯が入って――その瞬間、蜜が弾けた。
「んっ、あま……!」
顔が一瞬で緩む。
その様子を見て、店の女が満足そうに笑う。
ガイウスはそのやり取りを横目に、ゆっくりと通りを見渡した。

昼は“売る街”だった。
夜は、“満たす街”に変わっている。
それを否定しない、止めない。ただ形を変えて、巡らせる。

ふと、視線が下へ落ちた。
通りの脇を流れる水路。
昼はただの生活の一部にしか見えなかったそれが、今は別物だった。
水面に、桃の花と夜空の星が逆さまに映っている。
桃の花びらが一枚、ふわりと流れて、星の間をすり抜ける。
その光景を、観光客らしき人々が、黙って見つめていた。

誰も騒がない、誰も写真を撮らない。
ただ、じっと見ている。
これは騒ぐもんじゃない、“崩したくない景色”だ。
隣で、ルッツがもう一本を狙っていた。

「もう一本いけるかな……」
「食いすぎだろ」
「夜は別腹!」
その軽さに、ガイウスは小さく笑う。
さっきまで、鏡の中の自分を疑っていた男の顔じゃない。
だが胸の奥には、まだ残っている。

揺らげば、すぐに崩れる。
均されているようで、均されきっていない。
ガイウスは、懐の中の照魔鏡に、ほんの一瞬だけ触れた。
冷たいが、嫌な冷たさじゃない。
ただ、静かにそこにある。

――今は、それでいい。

桃の花びらが、夜の街をゆっくりと流れていった。