フーロン編-瑞兆の麒麟、凶星の虹 - 5/6

雨は、ようやく止みつつあった。
炎を呑み込んだ水は石畳の上に薄く広がり、大広場じゅうを鈍い青で染めている。
焦げた匂いはまだ残っていたが、さっきまでの灼熱はもうない。
熱を奪われた空気の中で、誰もがただ荒い息を整えていた。

ハオは宝貝を胸元で握りしめたまま、膝をついている。
シャオヘイが駆け寄り、ルッツとバルトロメオも安堵したように肩の力を抜いた。
だがガイウスだけは、まだ空を見ていた。

降り止んだはずの雲の奥に、なにか巨大な影が残っている。
気のせいではない。
空の高み、雲の裂け目の向こうで、蛇を纏う亀の輪郭がゆっくりと揺れていた。

玄武。
その名を呼んだのは自分たちだ。
けれど、呼び出したというよりは、ほんのわずかに“こちらを向いてくれた”だけなのだと、ガイウスは直感していた。

雨粒が一つ、頬を滑る。
汗か、雨か、それとも別の何かか。わからない。
その時だった。

『……火を憎むか、人の未熟を憎むか』
声は、空から降ったわけではなかった。
耳で聞くにはあまりに静かで、だが間違いなく胸の内側へ落ちてきた。
低く、古く、感情の起伏を持たぬ声。

雲間の向こうで、巨大な影がわずかに首を巡らせる。
その眼は地上の誰か一人を見ているようでいて、誰一人見ていない。
ただ、水が低きへ流れるような自然さで、視線だけが落ちてくる。

『お前は怒っているのか』
ガイウスの喉が、ひくりと鳴った。
唐突だった。
あまりにも唐突で、問いの形をしているくせに逃げ道がなかった。
「……怒ってるに決まってるだろ」
反射のように返した声は、自分でも驚くほど硬かった。
追放された。
功績を奪われた。
勇者であることを剥がされた。
仲間を失い、居場所を失い、そして今なお六将を追っている。

怒っていないはずがない、なのに。
なのに玄武は少しも頷かない、否定もしない。
ただ静かに、問いの先を置く。
『ならば、何にだ』
「……何、に」
『追放した者にか。奪われた名にか。失った居場所にか』
水溜まりに映る自分の顔が、わずかに歪んだ。
赤髪の下、傷の走る顔。
そこに映る目は、憤っている者の目というより、何かを見失った者のそれに近かった。

『あるいは、置いていかれた己にか』
言葉が、そこで止まった。
ガイウスは答えられない。
怒りだと思っていた。
思っていたから、ここまで来られた。
怒りはよく燃える。前へ進める。
躊躇いを焼いて、迷いを消して、六将完全討伐という一本の道を見せる。

けれど炎の下に、べつの熱が沈んでいることを。
それが灼けるような怒りではなく、もっと鈍く、もっと重いものだということを。
薄々、知っていた。
『怒りの下には、哀がある』
雨の匂いが、いっそう濃くなる。

『復讐の炎はよく燃える。だが、燃え尽きるのも早い』
それは脅しではなかった。
慰めでもない。
ただ、冬の水面みたいに冷たく澄んだ事実だった。
『炎を抱くことは悪ではない』
玄武は言う。

『だが、炎のみで歩む者は、やがて己を灰にする』
ガイウスは、無意識に鼻の傷へ触れていた。
マルスに焼かれた傷。
宿敵の証。
そして、過去の自分と今の自分を繋ぐ、消えない線。

「……じゃあ、どうしろってんだよ」
やっと絞り出した声は、ひどく小さかった。
玄武はしばらく答えなかった。
雲の奥で、巨大な影がただ静かにたゆたう。
まるで最初から、即答など与える気はないと言うように。

『見よ』
短く、それだけ告げる。
『己の怒りを。己の哀を。相手の未熟を。そして、お前の未熟を』
大広場の水面が、かすかに揺れた。
『見たうえでなお進むなら、それは怒りにあらず』
そこまで言って、玄武の影はゆっくりと薄れていく。
雲が閉じ、空はただの曇天へ戻り始めた。

誰も何も言わない。
ハオも、ルッツも、バルトロメオも、シャオヘイも。
彼らにはただ、雨を呼んだ聖獣が去ったようにしか見えなかったかもしれない。
だがガイウスだけは、その場から動けなかった。

怒っているのか?何に?なぜ?
問いは剣より重く、傷より深く、胸の奥に沈んでいく。

マルスを追わねばならない、六将を倒さねばならない。
その決意は変わらない。
だが今、ガイウスの中には、炎だけではない何かが確かに残っていた。
雨上がりの空気みたいに、まだ冷たく、まだ輪郭も曖昧なまま。

—–

シェンタオでのマルスとガイウスの再会の翌日。
ネプトゥヌスはすっかりパーダオいちのクリーニング屋として定着し。
その日も皇宮に洗濯籠を運んでいた。
最初はわたくしが人間の服を洗濯するなんてと不満たらたらだったが。
今では堂々と皇宮に入れる口実が出来、満更でもなくなってきている。
「メイレンユエです、お洗濯を届けに参りました」
「あぁいつもありがとう!皇様の装束をほつれなく洗えるのは君だけだ」
「お褒め頂き光栄です、ではごきげんよう」
ネプトゥヌスはいつも通り事務的に挨拶し、皇宮内を歩く。
役人たちは近々行われる大祭の準備で忙しいようで、いつも以上に忙しない。

「大龍祭ですか。もうそんな時期ですのね」
フーロンが最も沸くのが年最後の1日-大龍祭だ。
1年を無事に過ごせたことと新たな年を迎え入れる為の盛大な祭り。
フーロンの民は伝統を重んずる故に、大龍祭は例え何があろうが中止されないという。
魔王軍としてフーロンを襲ったときすら、停戦して参加させられたが実に不思議な経験だった。

何せ数日前まで争っていたものが祭りの会場で酒を酌み交わし笑い合うのだ。
その奇妙さはネプトゥヌスも未だによく覚えている。
「フフフッ……実に愉快でしたわね。ウラヌスが飾りの提灯を指さして。
アレが欲しいって駄々こねて、ユピテルがアレは売り物じゃねぇ!って引っ張って……
プルトは一瞥もくれず射的をしていて」
ネプトゥヌスは大龍祭での光景を思い出し、思わず笑みを零す。
あの時は六将全員が揃っていた、屋台で串焼きを人数分買って、皆で食べた。
「楽しかったですわ」
そう呟いた時、ネプトゥヌスはふと思い出す。そうだ、まだ全員分を届けていない。

「……っ!いけない、早く洗濯を届けないと」
ネプトゥヌスは我に返ると、洗濯物が入った籠を抱え直す。
そして大龍祭の賑わいで活気づく皇宮を早足で歩くのだった。
「メイレンユエです!大龍祭用のお洗濯をお持ち致しました」
「あぁありがとう、いつもすまないね」
「いいえ、ではわたくしはこれで……」
ネプトゥヌは籠を渡し、一礼して皇宮を後にする。
そして宿に帰ろうとしたところで、気配を感じネプトゥヌスはふと足を止める。

「そなたか?余の召し物を洗ったという者は」
其処には黒い狐がいた、本当に狐がいるわけではない。
その鋭い雰囲気と切れ長の目は老獪な狐そのもの、ネプトゥヌスは「まあ」と笑みを浮かべる。
この方が民が恐れ敬う、在りし日の魔王軍を退けた男-天狐皇か。
確かに贅沢太りした他の役人や貴族達とは違う、鍛え上げられた肉体が服越しにも分かる。

目が合った瞬間、ネプトゥヌスの肌が粟立った。
目の前の男――この国の皇、テンフー。
微笑みを浮かべているのに、体の芯が冷えるほどの圧があった。
(……あぁ、確かこの男を篭絡しようとした幹部が、見抜かれて逆上していましたわね)
(“尻尾が一尾しかないうえチビ男の癖に!”と、泣きながら怒鳴っておりましたっけ)
玉藻の前、またの名を九尾の狐。
その九つの尾を誇る女幹部が、“悟る気がない”と一蹴されたと聞く。
誇り高き彼女にとって、それは最大の屈辱だったのだろう。

――だが、目の前に立ってみてわかった。
この男は、尾の数などで測るべき存在ではない。

彼は、想像していたよりも背が低かった。
けれど、そう感じたのはほんの一瞬。
次の瞬間には、彼の周囲の空気が膨張するように感じた。
あの九尾を見抜いたという話――あれは誇張ではなかった。
尾の数や妖力で人を計らぬ者。
立っているだけで“上に立つ資格”を疑えなくさせる男。
(……なるほど、玉藻が逆上するわけですわ)
(背丈で測ろうとした瞬間、もうこの男の掌の上に乗せられている)

「はい、メイレンユエと申します」
ネプトゥヌスは裾をつまみ、軽く膝を折って挨拶する。
魔王軍だった頃は人間相手にこうした事もなかったなと内心苦笑する。
「何か不備はございましたでしょうか?」
「否、見ての通り皇の衣装は華美でな。今までの洗濯屋では色が落ちたり縮んだりで散々な目にあった」
「まあ。それは大変でしたわね、わたくし水魔法でなら誰にも負けないと自負しておりますので!」
ネプトゥヌスは胸に手を当て自慢げに答えると、皇は目を細めた。

「ほう……余の召し物を洗えるだけあって相当な腕前だ」
「恐れ入りますわ」
「うむ。ところでお主……」
「え?ええ……」
突然言葉を切り、天狐皇は急に腰の漢剣を抜いた!
突然のことにネプトゥヌスは思わず降参のポーズを取ってしまう。
「メイレンユエとは分かりやすい偽名だな」
そうだ聞いたことがあるぞ、今代の皇様は剣の達人で。
更に血の気が多く、魔王軍との戦いでも前線に残り戦っていたという。

「は?偽名?」
「余の召し物を洗える者など限られておろう、魔族……それも極めて高位の者か、あるいは……」
天狐皇はネプトゥヌスの顎を掴み、無理矢理顔を上げさせる。
「余の召し物を洗うなどと言う大それた事をしでかす者は、魔王軍くらいであろうな」
「!」
六将だと気づかれた!?ネプトゥヌスは冷や汗が止まらない。
-不味い、殺されるっ……。

「だが気に入ったぞ。これからも励め」
「……え?」
「大龍祭には大量の召し物がいる故な、人手が欲しかったところだ」
そう言うと天狐皇は剣を納めて、何事もなかったかのように立ち去るのだった。

宿に帰るなり、ネプトゥヌスはベッドにダイブする。
「はあ、ルナ様を思い出してしまいましたわ。恐ろしいのにノスタルジー」
大家さんの差し入れの饅頭を頬張りながら、ネプトゥヌスは呟く。
何故自分が魔王軍の六将だと分かったのか?
そして何より、六将だと気付いた上で人手が居ると迎え入れた底知れなさ。
ルナという絶対の主を蘇らせるという果たせぬかもわからぬ悲願が、少し揺らいだ。

「もしもお仕えする身になったら皇宮住まい?
なんてシンデレラストーリー……でもこのお部屋、わたくし気に入っておりますのよね」
ネプトゥヌスは趣味であるシーグラスを集めた瓶を撫で息をつく。
パーダオいちのクリーニング屋として有名になったことで余裕が出来。
魔王軍時代からの趣味であるシーグラス集めに没頭出来た。
シーグラスは波で研磨され角が取れたガラス片のこと。
宝石のような煌びやかさはないが、1つと同じものはない海からの贈りもの。

ネプトゥヌスはシーグラスの1つを手の中で揺らしながらカレンダーを眺める。
大龍祭までもう一ヶ月もない、そして大龍祭にはきっとガイウスが来る。
そして全て知るだろう、マルスが何を目論んでいるのか……。
大龍祭の終わりと共に、アルキード王国はどうなるか。
「まぁわたくしは目の前の洗濯物を片付けるだけですけどね」
ネプトゥヌスはシーグラスを瓶に戻すと、ベットから降り再び洗濯籠を抱えて部屋を後にする。
宿の女将に「今日もご苦労さん!」と声をかけられ、ネプトゥヌスは笑顔で返すのだった。