メキア編-砂の海 - 5/5

サハ・メキアの細い路地を抜けた先。
白壁に囲まれた一角、ひときわ静かな家があった。
扉は小さく、窓は布で覆われ、今にも砂に飲まれそうなほど風化している。
けれど、不思議と「誰かが暮らしていた」匂いが残っていた。

「ここか……ウェイトレスが言ってた“裏手の家”って」
ガイウスが扉の前で立ち止まり、ドアノブに手をかける。
しかし、ガチャリと音を立てて拒まれた。

「鍵かかってるな」
「……まあ、そりゃそうよね。誰も住んでないって言ってたし」
ヴィヌスが言いながら、懐から細い針金を取り出す。
「おいおい、まさか」
「ええ、まさかのピッキングよ。舞台で悪役ばっかり演ってた賜物よ」
ヴィヌスはドアに向かってしゃがみ、器用に指を動かす。
「……手癖、悪ぃな」
「褒め言葉と受け取っておくわ」
カチャリ。
乾いた音が響き、扉がゆっくりと開いた。
レアが最後に閉じたはずのその扉を、十数年近い時を越えて、静かに押し開ける。
中は薄暗く、どこか埃っぽい匂いがする。家具は古び、棚の上には手つかずのままの茶器。
もう何年も、誰の気配もなかったのだとわかる。

その扉の向こうに、彼女の全てが眠っていた。
笑い声も、涙も、怒りも。
それでも彼らは、まるで冒険の始まりみたいに、そこを覗き込んだ。

「……ここに、あの人が」
サタヌスが一歩、中に踏み込んだ。
扉を開けて足を踏み入れると、乾いた空気と一緒に、何か甘くて懐かしい匂いが鼻を掠めた。
それは、香水か、それとも——記憶の底に沈んだ、誰かの面影か。
「……埃、すごいな」
ガイウスがぽんぽんと窓の布をめくると光が差し込んで、室内がようやく見渡せるようになった。
こじんまりとした部屋。
木製の棚には瓶がいくつか並び、鏡の前には小さな化粧箱。
使い込まれたブラシ、擦り減った口紅、色あせた手鏡。

「ここ、寝室……なのかしら」
ヴィヌスが化粧箱のふたをそっと開けると。
乾いた粉が舞い、懐かしいような、少し寂しい匂いが立ちのぼった。
「娼婦だったって話、本当なんだな」
ガイウスが部屋の隅に吊られた、赤と金の派手なストールを見上げて言う。
「普通の商人の妻じゃ、こういうのは着ないだろ」
「……なんか、嫌じゃないけど。落ち着かねぇな、こういうの」
サタヌスが言いながら、部屋の中を歩く。
棚、椅子、布団。どれも小綺麗ではあるが、使われなくなって久しい。
それでも、ここが「誰かの家」だったことだけは、確かに伝わってくる。
静かで、もう誰も帰らない、けれど確かにあった生活の名残。

サタヌスは、鏡の横に置かれた小さなガラスの香水瓶を手に取る。
「……これ、昔スラムの女たちがつけてた匂いに似てるな」
「なら、レアは“持ってきた”のかもね。アルルカンから」
「……そうかもな」
そのとき、棚の引き出しの奥に、サタヌスの指が紙の感触を見つけた。
引き抜くと、それは羊皮紙に綴られた手記だった。

「……これ」
「日記?」
「多分。誰にも見られないように、奥に突っ込まれてた。ってことは……」
3人は自然と黙り込む。
レアという女が、どんな気持ちでこの部屋に生きていたのか。
その断片が、いま手の中にある。

サタヌスは羊皮紙を手に取ったまま、じっと立ち尽くしていた。
いつもなら即座に開いて読んでいたはずの彼が、今日はなぜか動けずにいた。
「……読んで、いいのか?」
ぽつりと、普段の彼からは考えられないほど小さな声だった。
ガイウスが少し驚いた顔で彼を見、それからあっさりと言い放つ。
「死人にどうやって許可取るんだよ。残したってことは、誰かに見つけてほしかったってことだろ?」
サタヌスは短く息を吐いて、そっと紙を広げた。

《誰にも見せないつもりで書いてるけど……。
もしこれを誰かが読んでるとしたら、その人は、私の人生の最期を見届けてくれる人かもしれない》
サタヌスは、読み進めるうちに、手のひらにじんわり汗をかいているのに気づいた。

《あの日のことを、まだ夢に見る。アルルカンで、あの兵士に……“あいつ”にされたこと。
何度も声をあげて、暴れて、抵抗した。でも“あいつ”は笑っていた。何もかも奪っておいて、平然として、笑ってた》
ページの隅に、インクの滲んだ跡があった。
それは涙だったのか、手の震えだったのか。

《娼婦なんて仕事、もうできなかった。でも、体は変わってた。
妊娠してた。堕ろそうか何度も迷ったけど……どうしてもできなかった。》

《産まれた赤ん坊は、男の子だった。可愛かった。
でも……“あいつ”に、そっくりだった。顔も、声も、笑い方も——》

《抱こうとすると、体が拒絶した。何度も頑張って、育てようとした。
でも無理だった。“あいつ”の影が、あの子に重なって、私は壊れそうだった》

《あの子に罪はない。でも、それでも、私は——母親になれなかった。
私は母親失格だ。赤ん坊をアルルカンに置いてきた。……ごめんなさい》

《本当は、愛してやりたかった。でも、無理だった。
“あいつ”に似すぎていた。どうしても、無理だった》

レア——その名は本来、「母性の象徴」として神話に刻まれている。
クロノス(サトゥルヌス)の妻、オリンポスの神々の母。
だがサハ・メキアに生きた“レア”は、
神話のように子を守れず、むしろ“捨てることしかできなかった”母だった。
本来のレアと、サタヌスをめぐるこの現実。
名前の意味を知れば知るほど、運命の皮肉が喉元に突き刺さる。

サタヌスは何も言わなかった。
ただ、日記を閉じた指が震え、目元から感情がすっと消えていく。
その瞳に──光を反射するような同心円の模様が浮かんでいた。
まるで、何かがその奥で回り始めたかのように。

言葉が出なかった。出せなかった。
誰も責めなかったし、慰めもしなかった。ただ、そこにいてくれた。

日記を読み終えた後も、サタヌスはしばらく動かなかった。
指先はかすかに震えていたが、声も、表情も、まるで無だった。
いつもなら、ムカつけばすぐに吠える。
何かあれば椅子を蹴飛ばすか、悪態のひとつも飛び出すのがサタヌスだった。

けれど今の彼は、ただ静かに、椅子の上で前のめりに座っていた。
手には、くしゃくしゃに握られた羊皮紙。歯を食いしばる音だけが、かすかに聞こえた。
「おい、悪ガキ……?」
ガイウスが低く呼びかけながら、そっとサタヌスの顔を覗き込む。
いつもの調子なら、「誰がガキだボケ」くらい返してくる。
けれど今、サタヌスはただ黙って、前を向いたままだった。

そのとき——
わずかに横を向いたサタヌスの目と、ガイウスの視線が交錯する。
その瞬間、彼は息を呑んだ。
サタヌスの目に浮かぶ、渦巻くような同心円模様。
人間のものではない、あまりにも静かで、あまりにも深い“何か”が、そこに宿っていた。

何も言わずに、ただ目だけが怒っていた。
その瞳に渦を描いたのは、父への怒りか──それとも、まだ知らない自分自身か。

「……お前、マジで怒ってんのな」
ガイウスは目を逸らさずに、乾いた声で言った。
「当然だろ。あんなの読んで、何も感じねぇほうが頭おかしいわ」
サタヌスの声は低く、しかしはっきりとした響きを持っていた。
「“あいつ”が誰か……分かったら、絶対に殺す」
瞳の奥の渦が、光の角度でわずかに揺れたように見えた。
それはまるで、“人ならざる何か”が、今ようやく目を覚ましたかのようだった。

——

日記を読んだ翌日。
サタヌスは一人、サハ・メキアの街中を歩いていた。
「レアという女を知ってるか?」
「十数年前、この街にいた娼婦で、子どもを産んだと聞いてる」
「……その子どもの顔が、“あいつ”に似てた。だから捨てた。……その“あいつ”を、俺は探してる」
老商人、鍛冶屋、果物売りの老婆。
彼女がかつて短く言葉を交わしたことのある人たちに、サタヌスは片っ端から当たっていた。
だが、返ってくる言葉はいつも同じだった。

「……レア? いたねぇ、そんな女……でも話したことなんてほとんどなかったよ」
「閉じこもってたからな、あの人。あんたみたいに気さくな感じじゃなかった」
その言葉が、サタヌスの胸にじわりと刺さる。
(気さく……? 俺が? あの人と似てなかった、のか……?)
ヴィヌスとガイウスも何人かに声をかけてみたが。
レアについて深く知っている者は誰もいなかった。
あの日記に書かれた“あいつ”の正体は、名も、顔も、足跡も。
まるで最初から存在しなかったように、サハ・メキアの記憶から抜け落ちていた。

「……無理か。証拠も、証人も、何もねぇ」
夕暮れの白壁の街を見下ろす屋根の上で、サタヌスはそう呟いた。
「けど……あの時から、この街はずっとあいつらに痛めつけられてる」
「魔王軍の駐屯地。今、レアが生きてたら、一番許せなかった連中だ」
その目に再び、同心円の渦が光る。
「だったら、今叩き潰すのが、一番早ぇ」

昼下がり、砂漠に長い影が伸び始めたころ。
ガイウスはサタヌスを肩車し、果ての地平線まで見渡す。
サタヌスは双眼鏡で、ひたすら駐屯地らしきものを探していた。

「駐屯地なんてないじゃん」
サタヌスは双眼鏡を外してぼやく、その隣でヴィヌスは苦い顔。
「その双眼鏡が悪いとかじゃないわよね?うさん臭かったもの、あの商人」と茶々を入れる。
ガイウスも首を振る。
「いや違う…双眼鏡のせいじゃない気がする」
砂漠には蜃気楼という現象がしょっちゅう現れる。
もしかすると、魔王軍の駐屯地も地平線から単純に探すだけじゃ。
見つからないのかもしれなかった。

その時、背後から元気な声。
「…あれ?お兄ちゃんたち肩車してるの?」
「あ!ラーヒラ!あの黒ベレーたち、どこから来るのか探してるんだよ!」
ラーヒラは少し得意げに笑って。
「あー、じゃあ…あっちの岩山の向こう、変な兵隊いっぱい隠れてたよ」と教えてくれる。

サタヌスは双眼鏡を首から下げ、ふとラーヒラの荷物に目をやった。
「ところでラーヒラは? その支度の様子を見ると、もうすぐ出るのか」
ラーヒラはにこっと笑い。
「うん、オアシスの賢者さまに安全祈願してもらってからね」と答える。
ヴィヌスが一歩前に出て、真剣な眼差しで尋ねた。
「砂漠の賢者さま……その人の名前は?たぶん会うことになるから、知っておきたいの」

ラーヒラは自慢げに胸を張る。
「オリオンさまだよ! あっ、アブーが待ってるから私ここで!」
そう言って手を振り、少女はキャラバンの列に駆けていった。
「賢者オリオン……覚えておこう」
ガイウスが静かに呟く。
夕日を浴びて、白い街とオアシスの向こうに、新しい“出会い”の予感が広がっていく。

وراء الألم توجد الحقيقة
痛みを超えた先に真実がある

طريق الحقيقة غالباً ما يكون طريقاً شائكاً
真実の道は得てして茨の道