「ッ─!!」
空気が弾け、眼帯が地に落ちた。
ティータの左目が、露わになる。
焼け焦げたような肌。黒く染みついた雷の痕。
そして目とは呼べない、ぐちゃぐちゃに潰れた“なにか”が、そこにあった。
「……ッ……見たなァ……」
ティータの声が、震えていた。
それは怒りか、羞恥か、恐怖か─サタヌスにはわからなかった。
次の瞬間、ティータは喉を裂くように叫んだ。
「見たなァアアアアアアアアアアアア!!!!!」
斧を振るうサタヌスも、一瞬たじろいだ。
狂気の咆哮。
音だけで心臓が握り潰されるような、殺気。
しかし─ティータは一呼吸、深く息を吸った。
そして表情を、すっと消す。
「……もういい。あの女も、お前も、この街も全部いらねぇよ」
そう言ったティータの目は、何も見ていなかった。
「皆殺しにしてやる」
サタヌスは、震える指先を見下ろしながら呟く。
「鬼って……比喩じゃねぇのな……」
ティータの動きは、人間じゃなかった。
いや、むしろ─あまりにも正確で、“人間すぎた”。
筋肉の動き。踏み込み。重心移動。
すべてが軍人の教本通り、だが顔は狂っていた。
軍刀が斜めに唸る。
サタヌスの斧が、紙一重でそれを逸らす。
(……ああ)
サタヌスは、ふと思った。
(この動き……“盗るとき”の顔だ)
昔スラムで、どうしても盗りたい獲物があった。
相手は手練の兵士。
警戒されれば一瞬で殴り殺される。
だからサタヌスは、何も考えず“反射だけ”で動いた。
─今、目の前のティータが、それだった。
“本能が欲望に従っている”動き。
「……ボス、教えてくれたなァ……」
サタヌスが、口元だけで笑った。
「欲しきゃ、盗れ─ってよ」
ティータが正面から斬りかかる。
軍刀と斧が、交差する。
サタヌスは、真正面から受け止めた。
勝敗は-白。
音が裂け、ティータの軍刀が真っ2つに折れた。
軍刀が折れた勢いのまま、ティータの身体は後ろへ投げ出された。
白いモスクのタイルが、背中を冷たく打つ。
手から離れた軍刀の破片が、チャリ……と床を滑った。
目の前に、サタヌスが歩いてくる。
折れた斧を肩に担ぎ、沈黙のまま。
だがティータには、“別のもの”が見えていた。
サタヌスの輪郭に、ノイズのような影が重なった。
風になびく黒髪、浅黒い肌。白い衣。
「見えちまった……“見えちゃいけねぇもの”が……」
それは幻か?記憶か?はたまた呪いか。
ティータの瞳が、今度は恐怖で見開かれる。
“あの女”がいた。
いつか自分が手にかけ、心を壊し、逃げられた“あの背中”が。
「ここにいるはずがない」のに、そこにいた。
「や、やめろ……お前……レアじゃ、ねェ……ッ!!」
ティータが、這うように手を伸ばす。
だが、その幻影の奥から─サタヌスの“本物の声”が届く。
「だから言ったろ」
「あんたの居場所は、俺の人生にはねぇってな─」
こちらに静かに歩いてくる女の姿。
それはかつて、自分の眼を潰した夜の幻影。
彼の脳内で、過去と現在が重なってしまっていた。
「……俺は、お前に憑いた亡霊─」
サタヌスの声に重なるように、その声が聞こえてきた。
「お前に憑いてやる」
あの夜-娼館を離れる背中越しに聞いた声だった。
静かながらも、この世全ての怨念をぶつけるような憎悪の声。
「お前が犯した罪の形」
「私が受けた傷のかたち」
ティータの目にレアとサタヌス、ふたつの影が重なる。
「お前の背中に、ずっとしがみついてた」
瞬間、ティータの脳が壊れる。
「誰が喋ってるか分からない」じゃない、“同一の存在”が喋っている事がわかってしまった。
「レアはな」
ほんの少し運命が違えば、妻になっていた名。
ほんの少しティータに慈悲の心があれば、死なずに済んだ名。
「お前が殺した、女の名前だよ」
“それ”は赤いノイズとして睨んでいた。
「……やめろ……くるな……来るなああぁああ!!」
ティータは絶叫し、泣き叫ぶ子どものようにうずくまった。
サタヌスは斧を構えていた。
だが─振りかざした刃の軌道は、ティータの首を避けた。
石造りのタイルが、真っ2つに割れた。
欠片が弾け飛び、白い粉塵が舞う。
「殺すまでも、ねぇよな─“アブー”じゃねぇしよ」
ティータはその音に反応すらできなかった。
ただ、膝をついて、顔を伏せたまま。
すべてを“終わらせて”もらえなかったことを、理解していなかった。
サタヌスは勝利の感覚を抱いていなかった。
(……これが、俺の父親……かよ)
朝陽が、静かにモスクの壊れた天井から差し込んでいた。
ティータは、モスクの床で小さく丸まっていた。
肩が震え、息が荒く、もう人を殺す力すら残っていない。
サタヌスは、折れた軍刀を見下ろしたまま、ひとつだけ小さく息を吐く。
(……これが、オリオンじいさんの水晶で見た男かよ)
水晶の中。
強引にレアを押し倒し、下劣な笑いを浮かべていた男。
あの瞬間だけは、どんな過去よりハッキリ焼き付いている。
(こんなヤツから、俺は生まれたんだ)
目の前では、その男が過呼吸を起こしながら泣き喚いている。
血と泥にまみれて、誰の命令も聞けず、ただ過去の幻影に怯えているだけの怪物。
(同じ男……か?)
サタヌスは斧を構えない。
もう、そんな価値も感じない。
ただひとつ、静かに呟いた。
「……お前は俺の父親だ。でもな、俺の人生にお前の居場所はねぇよ」
ティータは何も答えない。
ただ、潰れた左目から涙とも膿ともつかぬ液を垂らしていた。