崩れたモスクの中心に、少年が立っていた。
陽が昇り始めていた。
ステンドグラスは半壊し、剥き出しになった屋根から朝の光が斜めに差し込む。
ティータは、うつ伏せのまま動かない。
血の気のない顔に、表情はなかった。
斧は振るわれていない。
それでも─彼はもう、終わっていた。
サタヌスは、ただ立っていた。
肩で息をしながら、剥き出しの床に亀裂を刻んだ斧を見下ろす。
「これで、いいんだよな……レア」
誰に向けたとも知れない言葉が、静かなモスクに吸い込まれていった。
彼の髪は乱れていた。
オールバックは崩れ、素顔が晒されている。
けれどその瞳は、一片の怒りも、涙もなかった。
サハ・メキアの街は一部壊され、けれど燃えなかった。
民は生きていた。
市場も、モスクも、壁も、祈りも。
ギリギリのところで、守られた。
モスク周辺に少しずつ、人々の気配が戻り始めていた。
崩れた壁の隙間から、数人の兵士、商人、街の子どもたちが中を覗いていた。
「あの顔……軍曹に、似てねぇか?」
「まさか……あいつの手下だったのか……?」
その時一人の子どもが、小さな声で口を開いた。
「أنا أعرفه」
(あの人、知ってる)
「……え?」
大人たちが戸惑っていると、もう一人、別の子が叫んだ。
「اللذي لعبت معه أمام المطعم!」
(食堂の前で、遊んだお兄ちゃん!)
それを聞いた周囲の大人たちが、ざわめいた。
次々に子どもたちが指を差す。
警戒していた大人たちの顔に、徐々に理解と安堵が広がる。
誰かが、そっと呟いた。
「あいつ……街を守ったんだな」
サタヌスは、それを聞いていた。
でも、振り向かなかった。
「ありがとな……お前らのその声が、俺を“こっち側”に引き戻してくれた気がするよ……」
崩れたモスクに、足音が響く。
ガイウスとヴィヌスが、瓦礫を越えて入ってきた。
「おい、チビ。立てるか」
ガイウスが手を差し出す。
「さすがに泣いてないわよね?あんな顔してたら、泣いてるように見えるけど」
ヴィヌスが腕を組んで、サタヌスを見下ろす。
サタヌスは、顔を上げた。髪は乱れて、オールバックは崩れ。
頬には汗と砂と、少しの血の跡。
けれど─その顔には、笑顔があった。
朝の光が、崩れたモスクの天井から差し込む。
3人の影が、床に並んで伸びていく。
目がなくなるほど、くしゃっとした笑顔。
泣き顔と紙一重の、サタヌス本来の顔。
その瞬間、ヴィヌスとガイウスは、確かに“何か”が抜け落ちたのを感じた。
この笑顔に纏わりついていた“レアの影”が。
呪いの残滓が、ふっと音もなく、霧のように消えていった。
くしゃっとした笑顔のまま、サタヌスは2人に近づいていく。
が、目を細めて小さく呻く。
「うお、目ぇしょっぱい……なんだこの砂と血……」
そしてすかさず、横にいたガイウスへ手を伸ばす。
「おい巨人、顔拭かせろ」
そしてマントをむんずと掴み、容赦なく頬を拭う。
あまりに堂々としたハンカチ扱いだった。
「……お前な」
ガイウスがため息をつきながら、しかし微笑む。
「いつも俺のマント“邪魔だ”って言ってるくせに……」
それを見ていたヴィヌスが、思わず口元を手で押さえる。
「……ああ、戻ってきたわね、ワガママなメキア人」
——-
3人が崩れたモスクをあとにしようとした、そのときだった。
背後から、ずるずると何かを引きずる音が響いた。
振り返ると─そこに立っていたのは、ティータだった。
髪は乱れ、目は虚ろ。だが腕はまだ生きていた。
そしてその男は─怒りに突き動かされ、叫んだ。
「俺の人生をッ!!返せぇええええええええ!!!」
次の瞬間、ティータはサタヌスの胸倉を掴んだ。
首に手が回る。
「全部お前のせいだァアアアッ!!!」
その力は、先ほどまでの亡者とは思えないほど強く。
「この悪魔が!!俺の人生を……俺の全てを壊しやがって……ッ!!」
サタヌスは、最初は何も言わなかった。
ただ、ぎゅっと目を閉じて、拳を握り。
「…………」
苦しげに、でも涙は流さずティータを見詰めていた。
あの同心円の瞳で真っ直ぐ。
「そうか……」
サタヌスがぽつりと呟いた。
「最後まで……“俺のことしか”見えてなかったんだな」
ティータの叫びはもう罵りじゃなかった。
「壊れた人生を誰かのせいにするしかない男の断末魔」だった。
—–
絞めつけられる喉。
地面に押し倒されながらも、サタヌスはようやく声を絞り出した。
「……ティータ……」
それは、誰かに許しを乞う声ではなかった。
怒りでも、嘲りでもない。
ただの、“息子としての呼びかけ”だった。
しかし、ティータの顔は歪み、その瞳はもう人のものではなかった。
「ッ……テメェなんかッ!!息子じゃねぇっつってんだよォ!!!」
サタヌスはそのまま石畳に叩きつけられた。
意識が飛びそうになる。
そのままティータが馬乗りになる。
手にはナイフ、サタヌスはただ呟いた。
「……俺は」
「死ねッ!!クソガキィィィィ!!!」
ナイフが振り下ろされる─その瞬間。
─ガッ!!
ガイウスの手が、刃を受け止めた。
ティータの腕は動かない。
刃先は止まったまま、空を切る。
その時、ガイウスの瞳が、深紅に染まっていた。
普段は感情を隠していたその目が、今だけは。
「“この男”だけは……絶対に生かさない」
そう語っていた。
ナイフは止まっていた。
ティータの腕は、動かなかった。
ガイウスの瞳は深紅に燃えていた。
まるで感情そのものが“抉るような刃”となって、ティータを刺し貫いていた。
「地獄に堕ちろ」
その一言のあとに、ティータの意識が断たれた。
刃も、拳も、呪いも。全てが静かに終わった。
直後─町のどこかから誰かが叫んだ。
「あの鬼軍曹が、死んだぞー!!」
それは雷鳴のように広がった。
市場から、モスクから、民家から、歓声が湧き上がる。
「サハ・メキアが、救われた!!」
「奴はもういない!!」
子どもたちが踊り、大人たちが抱き合う。
兵士たちが武器を掲げ、誰もが、戦いの終わりを讃えていた。
─だが、そこに一人だけ。
その“喜びの輪”の中心にいて、まったく動かない少年がいた。
ティータは、斃れた。
サタヌスは思わずその身体を抱きとめた。
崩れそうになる腕へ、必死に力を込める。
「ティータ……」
その声には、怒りも呪いもなかった。
たった一人の息子が、自分の父親に向けた“最後の言葉”だった。
けれどティータの身体は、崩れていく。
灰のように、塵のように。
魔族の命が、肉体を失っていく定め。
「……ちょっと待て、まだ、まだ……俺、まだなんも言ってねぇだろ……」
手の中から、父の形が消えていく。
「親父……親父ぃぃぃぃーーーーーっ!!!」
サタヌスの叫びはモスクの屋根を突き抜け、空へと消えた。
けれどその声は祝福の鐘の音と、民の歓声に掻き消された。
誰も彼の悲鳴に気づかない。
誰もあの崩れていった“父の姿”を見ていない。
たったひとりの少年だけが、 たった一人分の死を見送った。
サハ・メキア中が歓喜に包まれていた。
すべての民が魔王軍からの解放を祝い、街は歓声であふれていた。
──ただ、一人を除いて。
城壁の隅、朝焼けが差し込むアーチの下。
サタヌスは膝をつき、両手で灰をすくっていた。
その肩は震え、声にならない嗚咽が喉に引っかかる。
泥と血にまみれた小さな手で、胸元をぎゅっと掴む。
涙は止まらず、頬を伝い、光に溶けて消えていった。
誰もその姿に気づかなかった。
誰も、父を失った少年の涙を見なかった。
ただ白い鳩だけが光の中で、彼の傍を舞っていた。
喜びも喝采も遠いまま。
少年の掌には、もう戻らない父だけが残されていた。