メキア編-親子 - 5/5

荒れ果てていた家の埃は、掃き清められている。
ヴィヌスが文句ひとつ言わず、黙々と片づけていたのだ。
ガイウスは何も言わず、壁を修繕していた。
サタヌスは、何度も躊躇いながら、その敷居を跨いだ。
「……レア、行ってくるよ」
誰もいない、何も返ってこないはずの家の中に向かって、サタヌスがぽつりと呟く。
声は、思ったより震えていなかった。

「あんた、変わったわね」
背後でヴィヌスが微笑んだ。
「昔のあんたなら、そんなこと言わないでしょうに」
サタヌスは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「礼なんか言うタマじゃねぇけどさ。あの女が……。
レアが、生きてたときに、どんな顔してたのか、ほんの少しわかった気がする」
ガイウスは無言のまま、壁に立てかけていたベレー帽を拾い、サタヌスに手渡す。
それは、どこかに埋葬されることのなかったティータの唯一の遺品だった。

「墓は作らせてもらえなかった。せめて、これくらいは置いていく」
そう言って、サタヌスはそれをレアの家の片隅、日が差し込む小さな窓辺に静かに置いた。

それは、誰にも見えない場所で一瞬だけ再生された、ありえたかもしれない景色。
「ティータ、今日から新しい仕事でしょ?
もう軍曹の時みたいに、ふんぞり返って葉巻吸えるわけじゃないのよ?」
キッチンから聞こえる軽やかな声。
そこに確かにいるのは、笑っているレアだった。
真っ白な布のスカーフを髪に巻き、質素な白い服。
その表情は、いつか見たどの記憶よりも柔らかい。
「へーへー、俺ぁ恐妻家かよ」
ソファに腰掛けたティータがぼやく。
口にはいつもの葉巻……だったはずが、火は点いていない。
代わりに、彼はそっと葉巻を灰皿に戻し。
寝転んでいた小さな背中に向かって笑いかけた。

「……サタヌス」
レアが小さくしゃがみこみ、振り向く。
その表情は、柔らかい――でも、逆光で目元が見えない。
「こんな男になっちゃダメよ?」
少年が、黙って彼女を見上げる。
それは、本当にあったことじゃない。
ただ、誰かが望んだだけの幻想。
幸せな“幻”。

でもそれは─瞬で消えた。
色も音も、温もりも、全てが幻のように霧散していった。
サタヌスは、誰もいないレアの家の床に、ひとり立っていた。
窓の向こうには、旅立ちの朝が訪れようとしている。

「……やっぱ、ありえねぇな」
ぽつりと呟いて、彼はベレー帽をそっと棚の上に置いた。
まるで、“そのあり得なかった未来”を弔うかのように。
過去を――呪われた血を、ほんの少しだけ赦すように。
「んじゃ。行ってくるわ」
返答はない、だが両親の遺品は見送るように佇んでいた。

—–

レアの家をあとにして、3人は再び馬車へと乗り込んだ。
朝の空は高く、雲ひとつなく澄んでいた。
「お、そういやよ」
サタヌスが唐突に、思い出したように声を上げた。
「ティータからくすねた葉巻、まだ吸ってねぇな!」
ヴィヌスが「は?」という顔で振り返る。
ガイウスは何も言わないが、手綱を握る手がぴくりと動いた。

しかし当人は懐から魔王軍の指揮室でくすねた、上等な葉巻を取り出していた。
サタヌスは、馬車の荷台に肘をついて、空を見上げながらニヤリと笑った。
「へっ、いいモン吸ってんじゃねぇかよ。軍曹サマよぉ」
葉巻の先に火をつける。
しばらく甘く重い香りを味わってから、ふっと煙を空に吐いた。
「こりゃ当分タバコはいらねぇや。……あいつ、ブランド嗜んでやがったな」
ガイウスとヴィヌスが並んで座っているが、二人とも何も言わない。
でも、確かに聞いていた。
「スラムのボスがよ、言ってたな。
“いいもんは、スる価値があるからいいもんだ”ってな?」
サタヌスは、また煙を吸って笑った。
「……ま、今回はくすねたモンが一番うめぇってことにしといてやるよ」
そして煙の向こうに、父の残した影が一瞬だけ揺れた。

「……ねぇ、あんた」
ヴィヌスがぼそっと言う。
「なんであんなもん大事そうに吸ってんのよ」
サタヌスは答えなかった。
ただ、顔を窓の外に向けたまま、もう一口ふかして言う。
「さぁ?別に理由なんかねぇよ。……なぁ、巨人?」
ガイウスは無言。
けれどその横顔は、かすかに笑っていた。
そして、馬車はゆっくりと街を離れていった。
“魔王軍の亡霊”の残り香を燻らせながら、3人の勇者はまた、新たな戦いへ向かう。

——-

戦いが終わったサハ・メキア駐屯地。
まだ血と煙の匂いが残る廃墟に、死の影が降り立った。
ユピテルの右手に、氷の副官・カリストが随伴していた。
それを見た瞬間、周囲の兵士たちは顔色を変える。

(副官がいる……!?)
(嘘だろ、今日は“本気で誰か殺す日”じゃねぇか……)
足音ひとつ立てないカリストは、ただ冷たい瞳で前方を見ていた。
息が白くなるほどの冷気が、彼の周囲だけ漂っている。
誰かが、口を開いた。
「ユ、ユピテル様……ティータ軍曹は……」
視線すら動かさず、ユピテルは言う。
「死ンだンだろ」
将校が怯えながら頷く。
「……戦死、であります……」
ユピテルは口元を吊り上げた。
「へぇ……あんなにアピールしてた癖に?」
言葉は軽い。
でも隣のカリストの気配が、周囲の空気を一気に零下まで落とす。

ある兵士が、足元でバキリと音を立てた。
砂漠の土が、凍って割れた音だった。
ユピテルはゆっくりと歩き出す。
そのまま、誰もが凍りついた中を悠然と通り抜ける。
「何人死んだ? 勇者どもは生きてる?“この軍”が俺に何を報告できンの?」
答えられる者はいなかった。
カリストは無言で佇んでいる。
彼は真っ白な軍服に身を包み、軍帽を目深にかぶっていた。
顔の半分以上が隠れているのに、覗く目だけが異常に冷たい。
目元から覗く視線は、血も感情も宿していない“処刑者の目”だった。

誰も話しかけようとしない。
誰も視線を合わせようとしない。
ただその場に“いる”だけで、兵士たちの心臓を締めつけていた。

駐屯地には言葉を失った兵士たちが立ち尽くしていた。
その中に、一人だけ——ほんの僅かに、舌打ちした男がいた。
「……クソが。どいつもこいつも、ティータの後釜狙ってんだろ」
誰に聞かせたわけでもない独り言。
だが、それはユピテルの耳に届いていた。
「……カリスト」
主の声が、呼ぶ。
「見せしめにひとりだけでいい。好きに選べ。」
その瞬間、兵士たちの間に凍ったような沈黙が落ちた。
カリストは、音もなく歩み出る。
白軍服の裾が揺れ、足元の砂がわずかに凍っていく。

彼は、悪態を吐いた兵士の前で静止した。
兵士は最初、笑おうとした。
「へっ、な、なんだよ……オレ、何も——」
カリストが、無言のまま片手をその胸元へ翳した。
触れてはいない。だが、その指先の影が胸に差し込んだ瞬間。

兵士の胸元が、内側から凍り始めた。
「っっ……!! な、なに、が……!? 熱……冷た……動け……ッ」
冷気は心臓から全身に走るように広がり、筋肉がひとつずつ硬直していく。
「や、やだ……助け……ユ、ユピテル様、俺、悪くなッ……!」
叫ぶ声は、肺が凍りついて止まった。
数秒後、全身が白い氷像と化し、砕けて崩れ落ちた。
まるで砂漠の空気に耐えきれず、塩の柱のように、音もなく崩れて消えた。

カリストは一度も言葉を発さず、ただ微かに軍帽のつばを直しただけだった。
ユピテルが吐き捨てるように言った。
「……こういうヤツが一番いらねぇんだよ。
自分が何も背負ってねぇくせに、陰でブツブツ抜かすだけのクズがよ」
もう、誰も何も言わなかった。