凍てつく空気。
外では雪が音もなく降り積もり、分厚い硝子窓が曇っていた。
軍司令部の一角──整然と並んだ書類の山の中で、日向大和大尉は手袋を静かに外していた。
緊張が肌に滲む。ほんの少しの逡巡の後、彼は口を開く。
「晴輝様。……お時間がありますか?」
「俺と──」
その時、重厚な扉が音を立てて開いた。
「須藤元帥。魔王軍大将の動きについて、報告に参りました。」
凛とした声。
振り返った晴輝は、来訪者の姿を認めて微笑んだ。
「ご苦労だったな、桜。中へ。」
何の躊躇もなく、“名”で呼んだ。
その響きに、すべてが崩れる。
晴輝が自然に桜へ向かうその背を見つめながら、
大和の表情から力が抜け落ちていった。
膝が震える。視界の端で、雪が白く滲む。
(……桜。)
(“はるき”と呼べるその口が、どれだけ汚れているかも知らずに。)
(媚びる女狐が。……消えてしまえばいい。)
その心の声は、冬の冷気よりも冷たかった。
静かな軍室の空気が、確かに歪んだ。
街の空気が、どこか湿っていた。
神楽の霧とは違う──雨が降る前の、土の匂いを含んだ静けさ。
古びた商店街を抜けた先に、朽ちた鳥居があった。
蔦に覆われ、誰も通らなくなって久しい小道。
その奥に、かつて「木花ノ社」と呼ばれた社があるという。
ガイウスが立ち止まり、鞘を軽く叩いた。
「舞雷を打った刀工は……厳龍。」
「俺ら、厳龍の家に行けばいいのか?」
ハオが首を横に振る。
「いや、まだまだヨ。」
「神社は建てる方角も大事。……裏鬼門に、もうひとつ神社あるネ。」
バルトロメオが、朽ちかけた木の看板を指でなぞる。
「“木花ノ社”……機能はしてないようだね。」
ハオは境内の地図を覗き込み、指先で線をなぞった。
「風水では、社を建てるには“龍脈”と“気口”が大事ネ。」
「天涙ノ社は“青龍の守り”、つまり東の吉方に建ってる。」
一同の背後で、風がひとつ唸った。
雲の切れ間から、鈍い光が社の屋根をかすめる。
「でも裏鬼門──南西は“病門”。瘴気や未浄の気が流れこむ方角ヨ。」
バルトが眉をひそめる。
「……じゃあ、ここに社を置いた理由は?」
ハオは表情を少し曇らせた。
「“塞ぐ”ためネ。」
「封じた……か、もしくは──“引き受けた”。」
ルッツが寒気を感じて身を縮める。
「引き受けるって……何を?」
ハオは空を見上げ、少しだけ笑った。
「災いヨ。」
「“花に見えるモノは燃える”って言葉、知ってる?」
一瞬の静寂。
木々の間で風鈴のような音が響いた。
それはまるで、この土地のどこかでまだ
“花の形をした炎”が眠っているかのようだった。
風が止んだ。
木々のざわめきが途切れ、街の音も届かない。
境内の奥、苔むした賽銭箱の後ろ――割れた鏡の裏から、小さな木箱が見つかった。
ルッツが慎重に取り出す。
箱の蓋を開けると、古びた布に巻かれた紙片と、欠けた櫛、
そして裂かれたお守りが中にあった。
ガイウスが眉をひそめながら覗き込む。
「お前のせいだ」
「あの方をそう呼んでいいのは俺だけだ」
「お前があの方を誑かすからだ」
「死ね、死ね死ね死ね……」
紙の端から端まで、途切れずに続いている。
それはまるで、魂の滲み出た傷跡だった。
「……これ、“俺”って書いてある。
ってことは書いたの男か? 男の嫉妬ってこえぇーな……」
紙には赤黒く滲んだ文字が幾重にも重なっていた。
ルッツが腕を組んで眉を寄せる。
「何言ってんの。女の嫉妬のがヤバいわよ。
エルフのヤキモチは100年続くのよ? 下手したら生涯現役。」
バルトロメオが口元に手を添え、うっすら笑う。
「いやいや、男だよ。嫉妬っていうより“執着”になるから……僕の経験ではね~。」
ハオが湯飲みを傾けながら、柔らかく笑った。
「はいはい、どっちでも嫉妬は怖いヨ~。
ヤンデレは性別じゃない、魂ネ。」
その声だけが妙に明るくて、逆に空気がいっそう重く感じられた。
社の裏手、苔に覆われた小さな祠。
鍵も扉も朽ち果てていない。
ルッツがそっと手を添える。
「ここだけ……何にも壊れてない。」
ガイウスが低く呟く。
「あいつすら、荒らさなかったってことか……?」
ハオが祠の前にしゃがみ、掌で地面を撫でる。
「“荒らせなかった”ヨ。
執着してたから、壊せなかった。……とても、壊したかったハズなのに。」
祠の奥。
埃に埋もれた桐箱の中から、丁寧に包まれた一冊の手帳が現れた。
墨書きで表紙に、ただ一言――「桜」
ルッツが落ち葉を払いながら首を傾げる。
「漢字……ええっと、“巴”?それに“桜”?」
バルトロメオが指で文字をなぞり、
「“巴桜”。……これは、この神社に仕えていた者の名前かもね。」
ハオが静かに頷く。
「巫女だったネ、桜サン。祈る役、受け止める役、そして――嫌われる役。」
社の鈴がひとりでに鳴る。
誰もいないはずの空間に、桜の香りがかすかに残っていた。
紙の繊維が古く、触れただけで崩れそうだった。
ルッツが慎重にページを開くと、墨の色は赤く滲み、
冬のように冷たい文字たちがそこに並んでいた。
「巴家は、代々より“退魔”を担ってきた家系である」
「神に祈り、穢れを断ち、受け入れる器となることが誇りだった」
「私は本来──この木花ノ社で、巫女として終わるはずだった」
「……けれど、あの方の隣に立つには、相応の“力”が要るという」
「神の声では届かぬ場所に、私は武を選んだ」
「“選ばれた女”などと、誰かが言った」
「……その言葉が、あの人の瞳を曇らせていったのを私は知っている」
「私は、しきたりに“勝たせてもらった”だけ」
「なのに、彼の“願い”を一度も聞けなかった」
ページの端で、インクが乾かぬまま途切れている。
ルッツが眉を下げ、小さく息を漏らした。
「……これ、晴輝様と……本気で結ばれたわけじゃなかったのかも。」
ガイウスが腕を組みながら呟く。
「名を呼べる資格があっても、心まで届いたとは限らねえってことか……。」
ハオが静かに頷き、淡い声で続ける。
「望んだのは“傍にいたい”だけネ。
でも、“力”のある者しか許されなかった。……しきたりって、そういうものでしょう?」
バルトロメオは何も言わず、
ページをそっと閉じて祠に戻そうとした――その瞬間。
空気が、変わった。
微風が逆流し、木花ノ社の鈴が鳴る。
冷たい息が、彼らの足元を撫でた。
ハオが目を細め、指先で空をなぞる。
「……哎呀。」
低く、しかし確信のある声。
「桜さん、ココにいるヨ。」
ガイウスの喉が鳴る。
「……!!」
ハオはゆっくりと首を振り、
「でもとても怯えてるネ。声もない、形も出せなイヨ。
ただ、そこにいて──“聞いている”。」
バルトロメオが手記を見下ろしたまま、静かに呟いた。
「……晴輝様と同じパターンか。
魂の損傷が激しすぎて、完全な姿を保てないんだ。」
ルッツが青ざめた顔で叫ぶ。
「な、なに!? ちょっと待って!?
あたしが元帥に憑依されてる間……なに、なんかグロいやつ見てたの!?!?!」
ハオはにっこり笑って、
「違うヨ。ただ、悲しいだけ。とても、長い時間ここにいただけヨ。」
ルッツがため息をつきながら呟く。
「……まさか、また“器”になんの?」
ガイウスが真顔で即答した。
「大丈夫だ。お前、そういうのに後遺症出なさそうだし。
晴輝様憑依のときもすぐ復活しただろ?」
ルッツが舌打ちしながら眉を吊り上げる。
「チッ……わかったわよ、もう……。」
ハオは微笑みを浮かべ、優しく促す。
「では、降霊を行うヨ。そこに正座してネ。背筋まっすぐ、息を整えて~。」
ルッツが小声で文句を漏らす。
「あたしは通信機じゃないっつーの……。」
バルトロメオが笑いながらお茶を淹れる。
「通信機でも、心がこもってれば素敵になるよ?」
ルッツは涙目で叫んだ。
「バルト黙っててぇぇぇ!!!」
四人の声が木花ノ社に響く。
その中心で、微かな光がゆらめいた。
“巴桜”という名が、再び呼吸を始めようとしていた。
風が止み、祠の周りの空気が澄む。
焚かれた香の煙が揺れ、鈴の音が一瞬だけ遠のいた。
正座するルッツの表情が、ふいに変わる。
肩が震え、目が伏せられ、唇が何かを探すように動いた。
「……誰……?」
声はルッツのものではなかった。
かすれて、冷たく、少女のものに戻ろうとしている。
「お願い、もう……凍らせないで……」
ガイウスが慌てて一歩踏み出した。
「桜さん!? 落ち着け、誰も攻撃したりなんて──」
その瞬間、ルッツの身体が弾かれるように震えた。
目を開いた彼女──いや、巴桜は、涙を浮かべたまま叫んだ。
「私は──誑かしてなんかいない!!!」
「“あの方”の隣にいたいだけだった!!!」
その声が響いた瞬間、場の温度が下がった。
木花ノ社の周囲が、まるで氷の結界に閉じ込められたように静まり返る。
バルトロメオが小声で呟いた。
「おぉ……ホントだ、完全にパニック状態だ。晴輝様とは全然違う……。」
ハオはゆっくりと前に出て、柔らかな声で呼びかけた。
「巴桜さんネ? 你好、ハオだヨ。今は穏やかな場所ヨ──心配ないヨ。」
呼吸を整えるように、ルッツの肩が上下する。
やがて、そのまぶたがゆっくり閉じられた。
「……白い……白い夜叉じゃない……?」
バルトが首を傾げる。
「夜叉って?」
ハオが低く答える。
「んー……つまり“すごく怖いモノ”のことヨ。」
ガイウスが一歩前に出て、静かに言った。
「あぁ、うちに“白ずくめ”はいねぇ。大丈夫だ。」
その言葉に、桜の声がわずかに落ち着く。
指先の震えが止まり、微かな息が漏れた。
「私は……丙が魔の軍勢に攻め入られた時、ここにいました。」
「軍人としてではなく──退魔の血を継ぐ者として、この社を守るために。」
誰も動かない。
空気が水のように静まり、ただ桜の声だけが流れていく。
「……“それ”は、突然現れたのです。」
「この社に、まるで“帰るように”……。」
「そして、“異常な言葉”をぶつけてきました。私に向けて。」
「“お前が誑かした” “あの方をそう呼んでいいのは俺だけだ”──」
バルトロメオが苦い顔で唇を噛む。
「……さっきの“ストーカー男”の痕跡と繋がったね。あの傷痕、まさにそれ。」
桜が目を伏せ、声が震えた。
「……斬られました。」
「殺すためではなく──“怨念をぶつける”ために、です。」
「凍らせる力で、ゆっくりと、何度も。」
「“誤解”ではなく、“確信”を持って……私を責めながら。」
一陣の風が吹き、社の鈴が鳴る。
桜の涙がルッツの頬を伝い、氷が解けるように床へ落ちていった。