丙編-もうひとつの雷神 - 2/6

ハオが静かに桜のほうへ身を傾ける。
「ねぇ桜さん──“日向さん”って軍人、知っている?」
ルッツ(桜)は一瞬目を伏せて、淡く息を吐いた。
「はい。……彼は、私の部下でしたから。」
バルトロメオが眉を寄せる。
「なんだか猛烈に引っかかるんだ……その、大和くんに、何か……“した”?」
桜はしばらく黙り、まるで言葉の選び方を探すように、指を組んだ。
「……何も……あ、いえ……一つだけ。」

「ある日、晴輝元帥に用があって、執務室を訪れました。
ですが元帥は不在で……代わりに、日向大尉がひとり。」
窓辺。淡い陽が雪を照らす午後。
机の上に白いハンカチが置かれ、その上に日向の指が触れていた。
その指は震えていた――まるで、祈るように。
「彼は、元帥のハンカチを手に……じっと見つめていました。」
「オウ、ロマンチストねぇ。」
桜は微かに苦笑し、俯いた。
「その目が……なぜか、“恋する女”に見えてしまって。」
「つい──言ってしまいました。」
「……“女のような目をするのをやめなさい”と。」

ガイウスが息を詰める。
「……それで、壊れたんだな。
誰にも言えなかった気持ちを、たった一言で──。」
その言葉に、桜の表情が痛みに歪む。

吹雪の中、血と氷が混ざる戦場。
剣を構えた白い夜叉――その眼差しは狂気と涙の境界。
「誰……? 貴方は誰……!」
「私は、貴方なんて知らないッ……!」
吹雪の向こうに、人影が立つ。
白い軍服。
軍帽の影に隠れ、顔は見えない。
だが──“声”が、すべてを物語った。

「知っているさ。お前は。」
「“あの方”の側にいられる……それが、どれほどのことかも知らずッ!!」
桜が後ずさる。
刹那、夜叉の手に握られた刀が青白くスパークした。
雷が凍りつく。
氷が血のように割れ、刀身を伝って“群雷”の刻印が脈動する。
桜の悲鳴とともに、世界が白く弾けた。

「死ね……! 死ね……!! 死ねぇぇぇぇぇ!!!」
刃が振り下ろされ、返り血が弧を描く。
だが飛び散る血は、空中で凍り、氷の花弁のように散っていった。
刀を握る彼の手もまた、赤く凍りついていく。
それでも、握り締める。それでも、叫ぶ。
「――なのに、どうして俺じゃない……!」
氷の音だけが残り、やがてすべてが静止する。
声が凍てついた空気を裂くたび、雪が悲鳴のように舞い散る。
剣の刃先が震え、握る手が血を流しても、それでも離さなかった。
その指には、かつて元帥が使っていた白いハンカチが結ばれていた。

風は、やさしかった。
けれど、そのぬくもりの奥に、長い時間を閉じ込めた冷たさがあった。
ルッツの口からこぼれる声はもう、彼女のものではない。
「……それから程なくして、魔の軍勢が丙に攻め入りました」
言葉は淡々としていて、悲しみを思わせる響きがあった。
「晴輝元帥と、男女として言葉を交わす日々は──減っていきました。
それでも、私は……この国が好きでした。だから……こうして、留まっています」

ハオは両手を静かに合わせた。
その仕草には、いつもの冗談っぽさはなかった。
「ありがとうネ、桜さん。アナタのおかげで……ハオたち、進めるヨ」
桜は小さく微笑んだ。
「私は……なにも」
その否定が、どこか懐かしさを帯びていた。

「でも、僕たちには“意味がある”。──桜さん、もう、いいかな?」
バルトロメオの言葉に、桜は短く息を吸い、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
光が差した。
それは朝の光でも、霊の光でもなく、
長い夜をようやく抜け出した者だけが浴びる、静かなやすらぎの色だった。
ルッツの身体を包んでいた気配が、春風のようにふっと抜けていく。
最後に、微かな声が残った。

「あ、そうそう……この奥に──巴家に伝わる退魔の小太刀があります。
きっと役に立ちます。……話を聞いてくれてありがとう、見知らぬ方々」
風が通り過ぎ、祠の奥の扉がかすかに音を立てた。
小さな音が、まるで桜の別れの合図のように響いた。
「……あー、戻った戻った」
ルッツが目をぱちりと開け、ぼんやりと周りを見る。
「おい!? なんでまた泣いてるのよ!!?」
「泣いてねぇし!! 砂埃だし!!」
ガイウスがそっぽを向く。
声は強がっていたが、目尻はほんのり赤かった。
その様子を見て、バルトロメオがふっと笑う。
ハオは手を合わせたまま、静かに目を閉じた。
春の風が頬を撫でていく。

ハオの声が、祈りのように残った。
「春は、去っても……香りは残るネ」
その言葉のあと、誰も口を開かなかった。
ただ、木花ノ社の境内を通り抜ける風が、桜の香りを運んできた。
社の空気が変わった。
苔むした石段を登り切った先、鳥居の向こうには深い静寂が沈んでいる。
風がないのに、紙垂がゆっくりと揺れていた。

ハオが足を止め、低く息を漏らす。
「オー……やっぱり。この神社は、穢れを受け止める場所ヨ」
祠の奥、御神体の上には一振りの小太刀があった。
鞘には微かな文様が浮かび、長い時を経てもなお、刃が光を放っている。
百年は過ぎているはずなのに、錆ひとつない。
人の手を離れ、神に近い存在になったような気配だった。

「縁切寺ってやつだね」
バルトロメオがその光を見つめながら呟く。
どこか懐かしい響きがあった。
「ガイ君、気を付けて。縁切の神様は容赦ないからね。
良い縁でもバッサリ断つ。人間の都合を考えてくれない神だよ」
ガイウスは少しだけ眉を上げた。
「……つまり、祈る相手を間違えたら、俺らも切られるってことか」

ハオが肩をすくめる。
「ネ。だからこそ“退魔の刃”ヨ。
この刀は、悪縁を断つために生まれた。
けれど……“切り離したい記憶”も、断ってしまうかもしれないネ」
沈黙の中、小太刀がわずかに光を反射した。
刃の輝きは清らかで、それでいて人を遠ざけるように冷たい。
縁を断つために祀られた神の刀。
祈りの対象であり、同時に、警告そのもののようだった。

境内の空気が一段と澄んでいた。
誰も息を呑むようにして立ち、ただ社の前に整列する。
御神体の上、小太刀が淡い光を放ち、風もないのに鈴が微かに鳴った。
ハオが前へ出て、穏やかな声で言う。
「神様には二礼二拍手一礼、が基本ヨ。
二回お辞儀、二回手を叩く。そして頭を下げる。
これは挨拶みたいなものネ。……礼儀は大事ヨ。」
その声が落ち着いた余韻を残す。
一同が並び、ゆっくりと腰を折る。

パン……パン。
空気が鳴るような、乾いた音が境内に響いた。
何かが応えるように、光が一瞬だけ揺らぐ。
神域が呼吸をしたように感じられた。
ガイウスが一歩前に出て、背筋を伸ばす。
言葉は短く、まっすぐに。

「……お借りいたします。」
その声には、勇者らしからぬ慎重さがあった。
祠の光が一瞬だけ強くなり、小太刀の刃が柔らかく明滅する。
まるで、“受け取った”とでも言うように。
ハオは隣で微笑み、そっと囁いた。
「神様、気難しいけど、悪い人じゃナイヨ。“覚悟”を見せれば、ちゃんと聞いてくれる。」
ガイウスは短く頷き、鞘に手を添えた。
その指先が触れた瞬間、刃の奥で光が走った気がした。

——-

夕暮れの桜花町。
西日が家並みを橙に染める頃、ガイウスたちは街角の茶屋で道を尋ねた。
「刀工・厳龍の家?」と、茶を啜っていた冒険者風の男が振り返る。
「簡単だよ。三笠ヶ原を西に真っ直ぐ行けばいい。ススキを抜けてすぐのとこにある家がそうさ」

「三笠ヶ原って、あのススキ原のことかな?」
バルトロメオが眉を上げ、手帳に軽くメモを取る。
「風流ダネ~」
ハオは嬉しそうに頬を緩めた。
「夕方のススキって、金色に光るんだヨ。ちょっと詩的ネ」
ガイウスは空を見上げる。
日は既に山の端に沈みかけていた。
「……急ぐぞ、日が暮れてきた」
その一言に、空気が少しだけ引き締まる。
桜花の街を抜けると、すぐに風の匂いが変わった。
遠くに広がるススキ原が、まるで白銀の海のように波打っている。
その向こうに、“雷の刃”を生んだ者の家が待っていた。

風が吹くたび、銀の穂がざわめいた。
三笠ヶ原。
どこまでも続くススキの海は、夕陽を浴びてまるで炎のように揺れている。
その光景は美しく、同時にどこか物悲しい。
ここは、かつて戦場だった。
見渡す限りの穂波の下に、いくつもの命が埋もれている。
風が運ぶのは香りではなく、記憶。
この土地の静けさは、沈黙の上に築かれたものだった。

ススキは背が低く、しゃがめば大人でも身を隠せる。
忍びたちが夜を駆け、矢が飛び交い、火の粉が舞った跡。
「見て見て~!ここ、しゃがむと隠れちゃうよ!」
ルッツが屈みこみ、ススキを揺らして笑う。
その声が、あまりにも無邪気だった。
ハオは目を細めて、穏やかに言う。
「ニンジャさんに便利だったでしょうネ。このススキ」
言葉は軽いのに、空気が一瞬だけ重くなる。

ガイウスは足元に目を落とした。
穂の間に、黒ずんだ鉄片が埋まっている。
錆びたそれは、誰かの刀の欠片かもしれなかった。
「……そうだな。便利ってことは、使い方次第で……ってやつか」
その静寂を破るように、背後から声がした。
「ばぁっ!!」
「おわぁぁ!?」
ガイウスが振り返ると、ススキの中からバルトロメオが顔を出して満面の笑みを浮かべている。

「こんな風に奇襲してたんだろうね~。風流だけじゃないみたいだよ?ここ」
ススキが揺れ、影が踊る。
笑い声が一瞬だけ風に溶けて消えた。
美しいだけではない――この原は、生きることと死ぬことが同じ重さで息づいている場所だ。

ススキの穂が風に揺れて、音もなく波をつくっていた。
日が傾き、三笠ヶ原の草海が金色から灰色へと移ろう。
その光の変化の中に、どこか遠い記憶の影が混じった気がした。

「フーロン人とヒノエ人、そっくりって有名ヨ」
ハオの声が静寂に溶けた。
「黒髪で、ちっこくて、でもオーラで大きく見える。
きっと大和クンもここで息を潜めていたノネ」
ガイウスはその言葉に、ふと視線を落とした。
ススキの陰に潜む影が、脳裏で別の姿に変わる。

腰を低く落とし、息を殺し、ススキの中へと身を沈めるひとりの青年。
雪の中のように静かな呼吸。
肉食獣のように「その時」を待つ緊張が、あたりの空気を張りつめさせる。
「ッ…!」
音もなく、大和は跳ねるように立ち上がった。
踏み込みの瞬間、ススキの穂が弾けるように舞う。
刹那の斬撃、空を裂く風の音だけが残った。

現実に戻ると、ガイウスの手がススキを撫でていた。
ざらついた茎の手触りが、思いのほかやさしい。
風が髪を揺らし、金色の穂が彼の肩をかすめた。
「小柄だからこその戦い方か……」
ぽつりと呟き、指先で穂を摘む。
「俺には、真似できそうにないな。」
その声は静かだったが、どこかに羨望と、哀しみのようなものが混じっていた。
戦い方は違えど、命の張り方は同じ。
彼は、今もこの風の中で息をしている。