丙編-もうひとつの雷神 - 3/6

厳龍の家は、思いのほか静かだった。
瓦は落ち、梁の隙間から陽が差し込む。
それでも、どこか整った気配が残っている。
誰かが最後まで“整えること”を忘れなかった家だった。
ハオが玄関先で立ち止まり、ふと首を傾げる。
「……あれ?」
ガイウスがすぐ反応する。

「なんだ?」
「どうやら厳龍さんは未練なく逝けた様ダヨ。気配ナイワ。」
ハオは目を細め、畳に残るわずかな魔力の残滓を感じ取りながら微笑んだ。
「この家、清いネ。もう、誰も縛られてナイ。」
「残念……」
バルトロメオが肩を落とす。
「舞雷を何故打ったか、聞きたかったなぁ。」

部屋の奥で、ルッツが戸棚を探っていた。
埃をかぶった木箱を開け、目を輝かせる。
「日記あるよ! ハオ、解読して!」
「はいはい……」
ハオが歩み寄り、ページをそっと撫でた。
古びた紙が、まるで眠りから呼び起こされるようにふわりと開く。
インクは滲み、文字はところどころ擦れている。
それでも、言葉は確かに残っていた。

風が吹き抜ける。
遠い昔に雷が落ちたような、かすかな金属の匂い。
ページの隙間から、封じられた雷の記憶が立ちのぼる気がした。
畳の上に日記を広げると、ページはすっかり雨に溶け、墨が滲んでいた。
それでも、ところどころに筆の跡が生きている。
ハオがそっと指先で文字をなぞりながら、口に出して読み上げた。
「百年、雨ざらしネ……でも、ところどころ読めるヨ」
ガイウスが耳を傾ける。
部屋には彼らの呼吸と、古紙の擦れる音だけが響いた。

ハオは少し目を細め、途切れ途切れに言葉を追っていく。
「……“南蛮の戦士”。おそらくユピテルのことネ。
“勇者に剣を折られ、自分のため刀を打てと言ってきた”……そう書かれてる。」
ガイウスが低く唸る。
「……折られた剣、ってことは……あいつ、戦ってたんだな。」
バルトロメオが肩をすくめて小さく笑う。
「まぁ、どっちが“勇者”だったのか怪しいけどね。」
ハオは次の行に目を落とす。
文字は薄れ、墨の影が水に溶けたように広がっている。

「“正直なところ、無個性な軍刀を量産する日々に飽き飽きしており”。
“その男が、自分の趣味じゃないと渡してきた腕輪──
極めて高純度の雷鉱石を溶かし、刀にすることにした”。」

――厳龍の工房。
鉄を打つ音が止み、炉の熱がわずかに息を潜めた。
目の前の南蛮人は、ただならぬ気配を纏っていた。
「魔王が、俺の雷魔法を増強するためって、ドヴェルグどもに打たせたそうだが」
青年は低く、金の腕輪を光にかざす。
「成金みてぇで気に入らねぇ。だが、こいつを壊すと雷の威力が落ちるって言われるンだ」
その声音には軽さがない。
口調こそ荒いが、そこには明確な焦燥が滲んでいた。
厳龍は無言のまま、その腕輪を見つめる。
溶けた金属のように、内側から淡く雷が蠢いている。

「おまえ、刀工だろ?雷を刀にしたことはあるか」
炉の炎がぱちりと鳴る。
ユピテルの眼光は鋭く、まるで何かを断ち切ろうとする意志そのものだった。
薄笑いのないその顔には、“職人への問い”としての純粋さが宿っていた。

厳龍は、しばしその視線を受け止めたまま言葉を探す。
己の鍛冶師としての誇りが、静かに呼び覚まされる。
「雷を斬る刀か……面白ぇ。いいだろう、南蛮人」
「ただし覚悟しろ。魂を籠める刀は、鍛える者と鍛えられる者、両方の命を喰う」
――その日、“舞雷”の運命が、炉の中で鳴り始めた。

ルッツが目を輝かせて前のめりになる。
「ってことは、それが舞雷!?」
ハオが頷く。
「そう。ユピテルが自分で持ってた素材ヨ。」
ページの端がちぎれており、最後の部分だけかろうじて残っていた。
ハオが慎重にそこを拾うように声を出す。

「“完成すれば間違いなく最高傑作となる。
だが──こいつはお転婆すぎる。もう一振り、鎮めるための刀を打たねばならぬ”」
その場に沈黙が落ちる。
ガイウスは小さく呟いた。
「……“舞雷”を鎮めるための刀……」
バルトロメオが視線を上げ、静かに結ぶ。
「それが、“群雷”か。」
雷の匂いがした。
百年経っても消えない、刀鍛冶の熱と、雷神の残響のような空気。
まるで今も、ここで槌音が響いているかのようだった。

ハオの声が、日記をなぞる指と一緒に低く沈んでいく。
風の通らない厳龍の家の中で、古紙の擦れる音だけがやけに響いていた。
「問題は……」
ハオは眉を寄せたまま、少し言葉を選ぶように続けた。
「“打ってる途中で、この南蛮人が魔王軍って気づいたことだ”──そう書いてあるネ。」
バルトロメオが息を呑む。
「魔王軍……やっぱり、ユピテルのことだね。」
ハオは頷く。
「でも、もう後は魂を籠めるだけだった。
“あの野郎は刀が二本で一つだと知らねぇ様だったので、先に出来たものだけを渡した”──」
部屋の空気が一気に重くなる。
ガイウスは言葉を失ったまま、拳を握りしめた。

日記の紙は半ばちぎれていたが、最後の数行だけがかろうじて残っている。
ハオはその部分をゆっくりと読んだ。
「“そう遠くないうちに俺の首は落ちる。
帝どもは、もう一振りを日向の坊っちゃんにでも託すだろう。
だが──群雷はまだ魂を籠めきっていねぇ。
アイツ次第で、群雷はカタチを変えるかもしれねぇな”」
静寂。
その言葉が落ちるたび、何かが胸の奥で軋むような音を立てた。
ハオが日記を閉じ、まぶたを下ろす。
「……“アイツ次第”って、誰のことだと思う?」
ガイウスは短く息を吐く。
「日向大和──だろうな。」
雷鳴のように、遠くで風が鳴いた。
百年前の約束と裏切りが、今ようやく繋がった。
ユピテルが持つ“舞雷”と、大和が継いだ“群雷”。
二つの刃が、最初から対の運命で生まれていた。

空の色が、ゆっくりと朱から紫へ変わっていく。
三笠ヶ原のススキが、その光を受けて燃えるように揺れていた。
風が吹くたびに、穂の群れが波のようにうねり、黄金の海がどこまでも続いている。
バルトロメオが、そっと日記を閉じた。
その指先は少し震えていたが、表情は穏やかだった。
「……ガイウス君。」
「……ああ。」
ガイウスは短く頷き、背を向ける。
「天涙ノ社に戻ろう。」
その言葉に誰も逆らわなかった。
答えはすでに出ている。
あとは、それを確かめに行くだけだ。

厳龍の家の扉を開けると、冷たい風が中へ流れ込んだ。
沈みかけた陽が、部屋の隅に残る鉄槌を赤く染める。
まるで、それが最後の夕陽を見送っているかのように。

ハオが軽く両手を合わせ、微笑んだ。
「お邪魔しまシタ、厳龍サン。」
その声は祈りのようであり、別れのようでもあった。
彼らが外に出ると、風が少し強くなった。
ススキがざわめき、まるで古い戦の記憶が息を吹き返したように揺れる。
日は、地平線に半分だけ残り、三笠ヶ原を赤く、美しく照らしていた。