丙編-亡者の國 - 1/5

ソラル随一の秘境――「ソルーナ」。
月光だけが地を照らす聖域に、聖剣《エクスカリバー》は封じられていた。
千年の封印を経て再びその輝きを取り戻した刃は、かつての勇者を呼び覚ます。
名実ともに「勇者」として再誕した青年、ガイウス・アルドレッド。
その背には、赦しではなく復讐の意思が宿っていた。
彼は今、帝都へ向かっている。
“亡霊たち”と決着をつけるために。
――そして、闇に属する者もまた、動き出していた。

霧雨が降る山道。
深い霧が森を呑み、木々の影は滲むように揺れていた。
その中で、ひときわ鋭い赤が光を放つ。
プルト・スキア。
魔王軍六将のひとりにして、闇を統べる暗殺者。
半ば朽ちかけた社の縁側に腰掛け、雨に濡れた木肌の冷たさを感じながら、
彼女は静かに髪を耳にかけた。
それは癖であり、思考を整理するための仕草でもあった。

帝都で“あの御方”を目覚めさせる――それが唯一の使命。
もはや一刻の猶予もない。
焦りの影を隠すように、プルトは薄く笑った。
その視線の先に、白があった。
白い軍服、白い肌、白く凍える息。

カリスト・クリュオス。
元は副官であり、氷の魔将。
しかし今や、その姿はかつての誇りを失い、泥と雨に汚れている。
氷杖《氷哭》に宿っていた魔力もほとんど尽き、瞳には生きている者の色がなかった。
「……カリストも来なさい」
プルトの声は冷たい雨より静かだった。
感情の欠片もない――ただの命令。
「六将は、残り二人」
「私とお前がそろえば……勇者相手にも、勝機はある」
カリストは答えなかった。
雨粒が杖の先を伝い、氷の滴となって地に落ちる。

「……デリン・ガルには……行きたくありません」
それは拒絶ではなく、哀願に近い響きだった。
「──あそこで、ユピテル様……死んだ」
短い沈黙が落ちた。
プルトはわずかに顔を上げ、じとりとした目で相手を見る。
腕を組み、首を傾げ、吐息を落とす――まるで、濡れた夜の中の野良猫のよう。
「哀れ」
吐き捨てるような一言。
けれどカリストは否定しない。
彼にとって“死”も“生”も、すでに遠いものだった。
ただ膝の上で跳ねる雨を、ぼんやりと眺めるだけ。

プルトは、カリストの返答に自分でも驚くほどの苛立ちに襲われていた。
理由などなかった。いや――あった。
それは、同じ“喪失”を抱えてなお、あまりにも違いすぎた反応への苛立ちだ。
自分だって、ウラヌスが倒れたときは激昂した。
鏡を殴り壊し、破片に映る顔を何度も見た。
それでも翌朝には血の滲む指でナイフを研ぎ、次に殺すべき相手の名を口にしていた。
なのに――この男は。

雨に打たれながら膝を抱き、亡霊のようにうずくまっている。
氷を操り王都を凍てつかせた冷酷な将が、今やこの体たらくである。
プルトは唇の端を吊り上げ、笑いながら吐き捨てた。
「勘違いするな、カリスト」
「私はお前を女々しいとは思っていない」
わずかな間。
そして、冷たく切り裂くような一言が落ちる。
「性別に関係なく、貴様は――気持ち悪い」
その瞬間、カリストの肩がびくん、と跳ねた。
雷鳴の代わりに、霧の中で氷がひび割れるような音がした。

長い沈黙ののち、彼はふらりと立ち上がった。
足取りは覚束ない。
だが、確かに立っていた。
虚ろな瞳の奥に、かすかな光が宿る。
それは生の執念か、あるいは愛ゆえの狂気か――。
プルトはその様子を見て、心のどこかでようやく納得したように小さく鼻を鳴らした。
「……それでいい」
霧がさらに濃くなる。
二人の影が滲み、やがてひとつの黒い線になって闇に溶けていった。

「せいぜい亡霊らしく、足止めをしろ」
それだけ告げて、プルトは霧の中に姿を消した。
足音も、影も残さず。
残されたのは、静まり返った社と、カリスト。
そして――濡れた白い氷像だけだった。

—–

ルッツの故郷にして、エルフの聖域――ソルーナを後にした。
一行は、迷うことなく帝都への街道を目指す。
しかしその道は、すでに封鎖されていた。
夜明けの薄明かりの中、兵士たちが無数の障壁と柵を築いている。
馬の嘶き、金属音、焦げた土の匂い。
どこか、戦の前の空気に似ていた。

「急いでるんだけど!通るだけだから、いいでしょ?」
ルッツが両手を広げ、詰め寄るように声を上げた。
その目は真っ直ぐで、焦りを隠さない。
だが前に立つ帝国騎士は、剣の柄を握り直しながら首を振った。
「魔王軍残党の目撃情報が多数残されています!
いくら勇者様でも、通すわけには参りません!」
「ちぃ……どうすんだよ、時間がねぇぞ!」
ガイウスが舌打ちをした。
風が吹き抜け、彼のマントの端を乱暴に揺らす。

そんな中、ハオが一歩前に出た。
狐の耳が小さく動く。
その表情は相変わらず穏やかで――しかし、何かを見透かすような目をしていた。
「ヒノエの道は開いてる?ハオ達、そっちに行きたいノ」
「え?」
騎士が思わず聞き返す。
ハオは淡々と答えた。
「ヒノエはとっくに滅んでるカラ、止めるものはいないわ」
ルッツは目を丸くして叫ぶ。
「それ、通っていいやつ!? 止められない=危険すぎじゃん!?」

「逆だヨ」
ハオは肩をすくめる。
「誰もいないから、誰も止めない。死人が通るには最適、ってネ」
「まーた縁起でもねぇことを……」
バルトロメオが額に手を当て、苦笑を浮かべた。
だがその横顔には、どこか吹っ切れた覚悟も見える。
ハオは空を見上げた。
薄曇りの中、風向きを読むように目を細める。

「丙(ヒノエ)は、かつて帝国とだけは交易してた。
だから……丙行きの航路が、まだ残ってる筈ダヨ」
「……だったらそこを使う」
ガイウスが短く言った。
「遠回りでも、突破口になるなら構わねぇ」
彼の瞳はすでに、帝都のさらに向こう――戦いの終着点を見据えていた。

「……丙に向かうのですか」
騎士の声が低くなる。
「ならば、くれぐれもお気をつけて。
あの国はすでに……生者の国ではありません」
ハオは小さく微笑み、軽く頭を下げた。
「謝謝」
そう言って背を向けたとき、
どこからともなく風が吹いた。
遠くで、桜の花弁に似た白い灰が舞っていた。
それはまるで――亡国が呼んでいるようだった。

波が船体を叩くたび、灯りの反射が一瞬だけ甲板を照らす。
その度に見える仲間たちの顔は、誰もがどこか沈んでいる。
風を読みながら舵を握る船長が、ぽつりと呟いた。
「最近、《桜花(オウカ)》に足運ぶ物好きが絶えねぇんだ」
「オウカって……ヒノエの都?」
ルッツがマントの裾を押さえながら問う。

「“ソラルいち美しい都”と呼ばれた場所だネ」
ハオが答える。
「建築も、庭も、祭も……全部、昔話のように華やかだったらしい。
ま、いまは亡霊が住んでるかも知れねぇけどな」
船長は肩をすくめ、煙草の灰を風に流した。
夜気が潮と混じって、胸に重くのしかかる。

「高名な風読み師が言葉をそろえたのが大きかったんだな、目に見えて観光客が増えた」
バルトロメオが首を傾げる。
「……あ、僕知ってるよ」
「“百年以内に、大地が裂ける”……だったよね?要するに、最後の花見ってやつだ」
船長は黙って頷いた。

「風も地も、すべてがそろってる。
地震、海嘯、断層破壊。ありとあらゆる“死の兆し”が重なってるらしい」
短い沈黙ののち、彼はゆっくりと呟く。
「ソラルいち美しい都が、もうすぐ消えちまう。
──そりゃ、最後の姿を目に焼き付けたいって奴もいるさ」
風が一層強くなり、誰かのマントが翻った。
ルッツが小さく息を呑む。
「……亡霊国家が、本当に死ぬんだ」
ガイウスは視線を海に落とし、低く答える。
「……“死にきれねぇ”奴は、間違いなくまだいるけどな」
誰も気づかないうちに、海面に淡い光が浮かび上がる。
桜の花びらに似た幻光――亡霊の灯。

海は静かすぎた。
風も波も、ただ呼吸をしているように小さく、しかし確かに船を押し戻そうとしている。
まるで「来るな」と言われているようだった。
だが船は、止まらない。否、止まれない。

遠くに見えたのは、白い霧の中にぼんやりと浮かぶ廃れた建築。
朽ちた鳥居。崩れた橋。傾いた楼門。
けれど、その奥に構える巨大な城郭だけは、傷ひとつなくそこにあった。
時が止まり、滅びが拒まれたような異様な“静”が、すでに恐怖だった。
ガイウスは無言でその景色を睨むように見つめ、
ルッツは甲板に身を乗り出して凝視していた。

「……なんで、こんな……」
思わずこぼれた呟きは、風に飲まれてかき消えた。
霧の中でもはっきりとわかる。
あそこは、もう“生きている者”のための場所じゃない。
なのに桜だけが、咲いている。狂ったように、永遠に。

「止まってるんだ、全部……時間も、季節も……」
ルッツの瞳に映ったのは、“散らない桜”だった。
そしてその花弁の中に、確かにいた。
船を睨みつけてくるような――まだ死にきれていないものたちの視線が。

「……あれが、《桜花(オウカ)》」
船長が煙管をくゆらせながらぼそりと呟く。
「ソラルいち美しい都だった……だが今は、“死者にとっての都”だ」
振り返れば、風は止まり、船の軋む音すら遠ざかっていた。
ガイウスの指先が、剣の柄に自然と添えられていた。

敵がいるからじゃない――“帰れなくなる”気がしたのだ。
一度踏み込んだら、二度と生に戻れない。
そんな予感が、すでに背中に張り付いていた。

霧の奥に、巨大な城郭が見える。
白壁はくすみ、瓦は苔むしている。
だが不思議と、崩れた様子はない。
まるで“滅びすら拒んでいる”かのように、ただそこに在る。

オウカは死の国でもあり、生の残響でもある。
“散らぬ桜”こそが、この亡国の呪いなのだ。