港に近づくにつれ、霧がさらに濃くなった。
船は音を立てずに桟橋へ滑り込む。
海も風も、まるで息を潜めているかのようだった。
船頭が舵を止め、振り返る。
顔の皺が、灯りに照らされて深く刻まれる。
「おっと、オウカにいきなり行くのはやめとけよ」
「――あそこは怨霊だらけだ」
その声は、冗談ではなかった。
湿った風が甲板を抜け、冷たい予感を運んでくる。
「“天涙ノ社(てんるいのやしろ)”で、神主様にお祓いしてもらうんだ」
「じゃなきゃ――怨霊にイレモノを提供するようなもんだぜ」
“イレモノ”という単語が、ぞっとするほど生々しかった。
ルッツが「ひェ」と声を漏らし、思わずハオの袖を掴む。
彼女の耳先が震えている。
船頭の目は、霧の奥を見据えていた。
まるで“実際にそうなった”のを見てきた者のように。
「……ありがとう、おじさん」
バルトロメオが軽く頭を下げる。
「天涙ノ社って、どっちにあるのかな?」
船頭は口の端を吊り上げた。
「ここからすぐさ。教えてやる」
彼は指先で、桜並木の奥を指し示した。
—–
オウカの桜並木を抜けると、空気が急に冷え込んだ。
先ほどまで晴れていた空が、いつの間にか墨を流したように暗く染まっている。
「なあああ!? さっきまで雨降ってなかったよな!?」
ガイウスが慌てて空を仰ぐ。
黒雲が渦を巻き、ぽつ、ぽつ、と冷たい滴が頬を打った。
「“天涙”ってこういうこと!?」
彼の叫びに応えるように、空が裂けた。
滝のような雨が一気に降り注ぐ。
「うわっ、ちょっ、絶対歓迎されてないじゃんこれぇ! やだもおおおお!」
ルッツが悲鳴を上げ、耳を押さえながら逃げ場を探す。
髪がしっとり濡れて、桜の花弁が頬に張りついた。
「イヤイヤ。風水的に雨はすごくいいことよ、ウェルカムよムシロ」
ハオはどこ吹く風といった様子で、袖を絞りながら言う。
その口調があまりにも平然としているので、余計に腹が立つ。
「それはそれとして濡れるんだよねぇ!!!」
バルトロメオが両手を広げて嘆く。
「神主さ~ん!? 開けてェ~!!!」
一行が鳥居を駆け抜けた瞬間、雨脚がふっと弱まった。
まるで見えない境界を越えたように。
振り返ると、外の桜並木ではまだ激しい雨が降り続いている。
しかし社の敷地内だけは、まるで天井があるかのように静かだった。
「……あまやどり?」
ルッツが小声でつぶやく。
鳥居の向こう、灯籠の灯がふわりと揺れた。
社の奥、扉がわずかに開く。
「おや……珍しいお客人ですね」
白衣に身を包んだ青年が、提灯の明かりを掲げて立っていた。
柔らかな笑み。
だが、その背後に――無数の影が蠢いている。
「……よろしければ、お茶でもいかがですか?怨霊は気にしなくて大丈夫ですよ」
「笑顔で言うことじゃねぇよ!!その後ろの顔!!いっぱいあるって!!!」
「お前の後ろに──!! ……いや、もう言わねぇ!!」
彼こそ、“天涙ノ社”の神主。
雫宮 柾夜(しずくみや まさよ)。
「これはずいぶん濡れられて……すぐ暖かいお茶をお出ししますね」
白衣に黒羽織の神主が、静かに頭を下げた。
言葉の端々に、まるで“雨が止む音”のような柔らかさがある。
だが、その背後には確かに“何か”がいる。
「お、おい……お前の後ろに──」
ガイウスが青ざめながら指を差す。
「ああ、あれですか」
雫宮はにっこりと笑った。
「私の曾祖父ですよ」
「成仏させろやああああああ!!」
境内にガイウスの叫びが響いた。
ハオは袖で口元を隠して笑う。
「でも癒し系ネ~」
バルトロメオも感心したように頷く。
「笑顔がきれいな人は信用できる」
「お、お祓いしてくれるん、だよね……!?」
ルッツが涙目で聞く。
「すでに怖いんだけどこの国!!」
半エルフ、すでに亡霊国家に限界間近。
上陸から二〇分、早くも帰りたいオーラ全開である。
雫宮はそんな一行に、湯気の立つ茶を差し出した。
「ええ。怨霊は怖くありませんよ。
彼らも、誰かに話を聞いてもらいたいだけなんです」
穏やかな笑みのまま、彼は続ける。
「……そういえば。私、神主になる前は“日向”と名乗っていたんです」
ガイウスが顔を上げる。
「ひゅうが……?」
「ヒノエでも随一の武士の家で──」
「大和兄さんによく、稽古をつけてもらっていました」
炎のゆらめきが、彼の横顔を照らす。
雨音だけが残り、誰も言葉を返せなかった。
湯呑みから立ちのぼる湯気が、ほんのりと桜の香りを含んでいた。
外の雨は止み、境内に漂う霧が薄れていく。
けれど、どこか“時間そのもの”が止まっているような感覚は消えない。
ルッツがおそるおそる口を開いた。
「で、そのヒューガ家って……すごいの?」
雫宮は少しだけ目を細めた。
「ええ。幕府の重鎮だったそうで……高名な武家だったと聞かされました」
穏やかに言いながらも、どこか遠い目をしている。
「しかしもう、“神楽城”も落ちた今は、過去の栄光です」
静寂の中、雫宮の視線がふと、山の彼方へ向けられる。
その方向を追った一行は、思わず息をのんだ。
霧の切れ間――そこに聳えていたのは、
これまで見たどの城とも違う、異形の美を持つ城郭だった。
天を貫くような多重の屋根。
白漆喰の壁には風雨の痕が刻まれ、それでもなお、異様な威厳を放っている。
その名は――神楽城(かぐらじょう)。
丙の中枢にして「ソラル大陸で最も美しい」と称された城である。
ハオがふと呟いた。
「日向(ヒューガ)はネ、“日光の当たっているところ”って意味ヨ」
「お日様みたいな人のことダネ~」
「パーティに漢字ガチ勢がいると理解しやすくて助かるぜ……」
ガイウスが苦笑する。
けれど、その声にはどこか引き締まった響きがあった。
神楽城の天守に、淡い光が差し込む。
それは朝日でも、灯でもない。
まるで亡霊の吐息のように、白く揺らめいていた。
雫宮が静かに呟く。
「兄は……あの場所で、まだ戦っているのかもしれません」
一行は誰も、言葉を返せなかった。
蝋燭の灯が揺れる社殿の中、空気はしんと冷えていた。
壁の奥からは、時折かすかな囁き声がする。
それが風なのか、人の声なのかは誰にも分からない。
ガイウスが姿勢を正して口を開く。
「で、本題なんだけど……俺たち、詳しくは言えないけどさ」
「ヒノエを通らないといけないんだ」
雫宮は静かに頷いた。
「えぇ、存じています」
ガイウスが少し驚いたように眉を上げた。
「……お祓いしてくれないか?」
「もちろん」
穏やかな笑みを浮かべ、雫宮は手を合わせた。
その声が響いた瞬間、社の灯がふっと強くなる。
「では……上着を脱がれてください」
一拍の間。
「え? え?? 半裸になれっての!? 無理無理!!」
ルッツが顔を真っ赤にして後ずさる。
耳がぴょこぴょこと動き、尻尾まで逆立っていた。
「恥ずかしいなら肩まででも大丈夫ですよ。大丈夫です」
「大丈夫です」を二度繰り返す、その声がやけに優しい。
けれどその笑顔の奥で、影がゆらりと揺れた気がした。
「おや、冗談ですよ」
雫宮はくすりと笑い、袖から一本の御幣を取り出した。
白い紙垂がふわりと舞い、光を帯びて揺らめく。
「……ただの儀礼です。怨念を遠ざけるために、身の周りの“余計なもの”を落とすだけ」
御幣が一振りされるたびに、社殿の影がざわりと動く。
天井から垂れる水滴が、音を立てて床に落ちた。
ハオは目を細めてぼそりと呟く。
「ネ~、優しいのか怖いのか分からないタイプヨ、コレ」
「俺はもうどっちでもいい……早く終わってくれ……」
ガイウスは目を閉じて、ため息をついた。
雫宮はそんな彼らに柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。“ヒノエを通る者”には、みんなこうして印をつけていますから」
その笑みの奥、金色の瞳がわずかに光った気がした。
お祓いの最中。
社殿の中に静かな時間が流れていた。蝋燭の灯がゆらめき、雨音は遠ざかる。
ルッツは、おそるおそる雫宮を見上げる。銀色の髪が、淡い光に揺れていた。
「ねぇ……その、ヒノエの人って、みんな黒髪に茶色い目じゃないの?」
ふいに漏らした疑問。バルトロメオも頷き、
「あー確かに。港でも“ヒノエの人=黒髪”ってイメージだよな」
と合いの手を入れる。
雫宮は、微笑んだまま、ふと視線を落とす。
「えぇ、その通りです」
静かな声だった。
「私も、昔は黒髪でした。……この社で神職を務めるうちに、どうやら“向こう”に寄ったようで」
一拍置いて、金色の瞳がふわりと細められる。
「ですので、私……見た目よりも年――」
ガイウスが即座に割り込む。
「まてまてまて!わかった、わかったから!それ以上聞くと怖いからやめてくれ!!」
声が上ずり、肩がピクリと震える。
ルッツも「わ、わかる!今の雰囲気やばい……」と耳を伏せた。
その空気の中、ハオだけは平然としていた。
「ここからが面白いノニ」
仙人特有の飄々とした余裕が、逆に一同の背筋を冷やす。
雫宮は、楽しげに目を細める。
「ご心配なく。“向こう”の話は、慣れている者だけの特権ですから」
御幣の揺れる音だけが、やけに鮮明に響いていた。
お祓いの儀が終わったあと、社殿の中は静まり返っていた。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、畳に落ちる影が長く伸びている。
外では、雨音がいつの間にか止んでいた。
雫宮はゆっくりと御幣を納め、空を仰ぐように目を細めた。
「……そろそろ、私もヒノエを離れなくてはいけないかもしれませんね」
「え?」
ルッツが首をかしげる。
「大地が軋む音が聞こえます。
おそらくそう遠くないうちに、ヒノエは……消えるでしょう」
その声には悲しみも恐れもなかった。
ただ、静かな諦観。
ガイウスが息を呑み、少しだけ身を乗り出す。
「……あんた、どうするんだい?」
雫宮は小さく微笑んだ。
「私は、まだこの国でやるべきことがある気がするのです」
「……その役目を終えてから、この社に別れを告げようかと思っています」
ふっと笑みを深め。
「もしかしたら、お祓いするのも貴方がたで最後かもしれませんね」
と穏やかに言った。
その表情はどこまでも優しく――だからこそ、どこか悲しかった。
「くれぐれも、お気をつけて」
雫宮は両手を合わせ、祈るように一行を見送った。
灯籠の明かりが背後でふわりと揺れる。
銀色の髪が風にほどけ、色素の抜けた肌と金色の瞳が、月光のように淡く光っていた。
ガイウスはしばらく振り返ったまま、動けなかった。
胸の奥に、微かな違和感が残る。
――1年前。
自分はあの男と、よく似た誰かと剣を交えた気がする。
冷たい光、金色の瞳、そして――白い髪。
だが、顔も、名前も、あまりに多くのことが起きすぎて霞のように薄れていた。
「……あの神主、誰かに似てる……」
ガイウスが呟いたその時、遠くで地鳴りのような音がした。
まるでヒノエの大地そのものが、眠りながら息をしているようだった。