桜花は、不思議な静けさをたたえていた。
街灯の代わりに、桜の花弁がぼんやりと光を放っている。
それがまるで“魂の灯”のように見えて、誰も口に出そうとしない。
石畳の坂を下った先――小さな居酒屋の暖簾から、酒の匂いと笑い声が漏れてきた。
旅人や商人が数人、夜更けの杯を交わしている。
「最近出るんだよ、白い軍人の幽霊。
夢幻桜の前に立ってさ、なんか祈ってるとか怒ってるとか……」
「全身真っ白な軍服でな、顔色も悪いって話だ」
一瞬、風が止まる。
外の桜の枝が、ひとりでにざわめいたような気がした。
その瞬間、ガイウスが足を止める。
視線の先は、ただの石壁。
けれどそこに、何かを見たように目を細めた。
「……あいつ……?」
思考が、一瞬だけ過去を掠める。
血の匂い、雷光、白い軍服、笑い声。
誰かの“記憶”が、脳裏をかすめた。
だが、思い出しかけたところで――モブCが陽気に割って入った。
「海軍だろ、海軍! 陸じゃ着ねぇ服だよ、あれは」
場の空気が少し緩む。
ガイウスは少し間を置いて、苦笑した。
「……そっか。そうかもな」
笑って見せたその顔は、ほんの少しだけ硬い。
酒場の喧噪がまた戻る中、
彼の胸の奥にだけ、薄い霧がかかったままだった。
――誰かの笑い声が、遠くで木霊する。
“クス……んふふっ……”
耳の奥に残るその音を、彼は気のせいだと信じたかった。
霧が立ち込める夕暮れの柳並木。
風が通るたび、細い枝がざわざわと鳴り、
どこからともなく、鈴の音のような微かな響きが聞こえる。
夢幻桜を後にした一行は、モブたちの噂話を肴にして歩いていた。
昼の温もりが去り、夜と霧の境目がゆっくりと降りてくる。
ルッツが半笑いで振り向く。
「なぁ……さっきのモブ話、マジで言ってんの?
“柳の下に白い軍人の幽霊が出る”とか、定番すぎて逆に怖えよ」
「そこの柳、いい感じに湿っぽいねぇ〜。これは出るわ〜。出ちゃうよ〜?」
バルトロメオがニヤニヤと煽る。
「幽霊?こうか」
ガイウスが突然、柳の下に立つ。
両手をダランと垂らし、無表情で「おばけポーズ」。
「芸術点高いね〜! その怨念感、好きだよ。
“彷徨える勇者”って名前にしようか?」
バルトロメオが拍手し、ルッツが即座に噴き上がる。
「芸術じゃねえええええええええええええ!!!」
「表情も工夫するといいヨ。今の、明るすぎワ」
ハオが腕を組んで真顔で言う。
「なるほどな……じゃ、プルトの真似でもしてみるか」
ガイウスが顎に手をあて、静かに息を吐いた。
次の瞬間、顔の筋肉をすうっと引きつらせ目の奥の光を完全に消す。
不気味な“教祖スマイル”が浮かんだ。
「やめろおおおおおおおおおおおおお!!!」
ルッツが即座に全力で後退。
背中を桜の根にぶつけて、悲鳴を上げる。
「わぁ〜。闇堕ち寸前だね!」
バルトロメオがニコニコしながら頷く。
柳の下に幽霊は出ないが、幽霊を真似る勇者は出る。
椿橋。
帝都へ通じる港への、唯一の通り道。
そして――「丙を出ていく者」が渡る橋。
朱塗りの欄干が霧に霞み、どこまでも静かで、不吉だった。
かつてこの橋では、神楽王族の一人・椿姫が帝国の騎士と恋に落ちたという。
逢瀬の場所はこの橋。
しかし親に反対され、姫は騎士と駆け落ちし、二度と丙に戻らなかった――。
以来、この橋は“別れの橋”とも、“縁切りの橋”とも呼ばれるようになった。
霧の向こうに、赤い橋が延びていた。
欄干は朱に塗られ、濡れたように光っている。
その艶が、まるで血の跡のようにも見えた。
「……渡るしかねぇな」
ガイウスが短く言う。
霧の湿気で髪が額に張りつき、汗と雨の境目が曖昧だった。
彼の声だけが、この空間で“生きている”音だった。
「いや、マジで長くない? どこまであるのこの橋!」
ルッツが息を荒げながら足を止める。
後ろを振り返ったバルトロメオが、眉をひそめた。
橋を進むたび、足音が霧に溶ける。
どれだけ歩いても、赤い欄干が延々と続くばかり。
「さすがに長すぎない? もう相当歩いたよね……」
ルッツが不安げに足を止めた。
ガイウスは振り返ると……橋の入口が、すぐそこに見えた。
「……は?」
たしかに何分も歩いたはずなのに、振り返ればせいぜい数メートル分しか進んでいない。
最初に通り過ぎた石灯籠も、最初と同じ位置に立っている。
「な、なんで!? 歩いたのに、全然進んでない!!」
バルトロメオが青ざめて周囲を見渡す。
「これは……“無限階段”だ」
ガイウスが低く呟く。
「どれだけ進んでも、振り出しに戻される」
空気がピンと張り詰める。
霧の中、ただ足音と鼓動だけが響いていた。
「これ、誰かに弄ばれてるな」
ガイウスの低い声が霧の中に沈む。
風が止まり波の音も消える、残るのは四人の呼吸音だけ。
音が消えた瞬間、世界が“止まった”気がした。
「ねえ……聞こえる?」
ルッツが囁く。
霧の奥で、誰かが笑った。
「ふふ……いいジョギングになりますよ?」
艶めいた声が、霧に溶けて落ちる。
次の瞬間、橋全体が微かに震えた。
冷気が這い上がり、木の板がきぃ……と軋む。
ガイウスは目を細め、低く呟く。
「……この声、知ってる」
彼の記憶が、雷光と氷の断片を呼び覚ます。
ユピテルの隣で、よく笑っていた――あの男の声。
「……クス、んふふっ……♡」
彼がその笑いを真似た瞬間、霧がざわめいた。
嘲るような声が、背後から重なる。
「行かせない……ここは通さない……」
空気が凍る。
ルッツの息が白くなり、視界が歪んだ。
バルトロメオが振り向いたが、何もいない。
霧が濃く、吐息すら飲み込んでいく。
「くそっ、戻るぞ!」
ガイウスが叫ぶ。
だが、走っても走っても――橋の終わりは、現れなかった。
足音が重なり、空間が軋む。
時間がぐるぐると巻き戻されるように、何度も“同じ地点”に戻ってくる。
「ねぇ……これ、戻れないよ……!」
ルッツの声が震える。
恐怖と湿気が混ざり、呼吸が重い。
バルトロメオが静かに呟いた。
「“縁を切る橋”……って、そういうことか」
霧がゆらめき、声が近づいた。
「そうです……縁を切ったら、戻れない」
囁くような声の直後、橋の手すりに薄氷が張る。
音もなく、世界が冷たく変わっていく。
ガイウスは剣を抜いた。
「……ふざけんな、亡霊め」
濃霧の中、時間の流れが狂い始めていた。
何度歩いても、何度戻っても、橋の端は見えない。
まるで同じ道を延々と繰り返しているようだった。
「……もう、戻れない……の?」
ルッツの声が震える。
ガイウスは静かに息を吸い込んだ。
霧の中に意識を沈める。
――いる、近くに。
冷気に溶け、姿を隠している。
霧の奥から、歌うような声が響いた。
「誰から凍らせてあげようかなぁ……どれも新しい顔ぶればかりだ……うふふふふ……」
その声音に、ガイウスの眉がわずかに動く。
相手は自分が気づかれていないと思っている。
余裕のつもりで、品定めまでしてやがる。
――まったく、悪い意味で主人譲りだ。
「飼い主に犬は……似る!!」
瞬間、居合。
ガイウスの剣が閃光を放ち、霧を裂く。
雷鳴のような音が一瞬だけ夜を照らし、濃密な冷気が四散した。
空気が切り裂かれた次の瞬間、霧の奥から苦しげな声が漏れた。
「ッ、ぐぅ……! あ……ッ、あァ……!」
続けて、抑えきれない呻きが響く。
それは氷の魔将にあるまじき、あまりに生々しい痛みの声だった。
「い、いきなり何すんだよ……ッ! ば、バカ……!」
痛みで素が出たような言い方に、どこか悔しさがにじむ。
濃霧の中で、影が小さく身をすくめるのが見えた。
「……クソッ、犬のくせに……ッ、」
悔しさと屈辱が、冷たい声の奥でぶつぶつと渦巻いていた。
次の瞬間、風が一変した。
張りつめた空気が緩み、冷気が消えていく。
息を吐いた瞬間、視界が明るくなる――そこは、椿橋の入口だった。
「……戻った?」
バルトロメオが周囲を見回す。
橋は静かに佇んでいた。
ただ、霧だけがまだ薄く漂っている。
ガイウスは剣を納め、ゆっくりと息を吐いた。
「……思い出せた」
「カリストだ。あいつ……ここにいたか」
雷に焦げた木の匂いと、氷の残り香。
空気の中に、確かに“あいつ”の気配があった。
だが橋の先――椿橋の向こう側には、
依然として深い霧の壁が立ちはだかっている。
「……通れねぇ、か」
ガイウスが小さく舌打ちをした。
ただ桜の花弁だけが、ひとひら――冷えた空気の中に舞い落ちた。
——-
椿橋は相変わらず霧に閉ざされ、渡ることができなかった。
帝都への道が塞がれた以上、野宿という選択肢もあるが――。
日も傾き、霧は夜の気配を帯びている。
仕方なく四人は桜花の町を歩き、宿を探すことにした。
「ねぇねぇハオちゃん、丙の言葉じゃ宿屋は何て言うの?」
バルトロメオが軽い調子で尋ねる。
「旅籠屋(はたごや)ヨ。旅籠屋って書いてあるのを探せばいいワ」
ハオは両手を袖に隠しながら、淡々と答えた。
そう言って歩き出して数分、意外なほどあっさり見つかった。
看板には大きく「旅籠屋・花海棠」。
その名の通り、門前には満開の花海棠の木が枝を広げている。
夜風に花びらが揺れ、ほのかに香りが漂う。
……そして、その下に掲げられた札には「幽霊いません」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ルッツが絶叫した。
「看板に偽りありぃぃイイイイ!! 訴えてやるううううう!!!」
前庭の方で、カタカタ……と障子が鳴った。
タイミングが完璧すぎる。
「おい待て! 落ち着け! それ幽霊の方が困惑してるからァ!!」
ガイウスが慌てて押さえるが、声も若干裏返っている。
「“怒り”の気が強いと幽霊も集まるヨ?」
ハオはまったく動じず、袖の中で手を合わせている。
バルトロメオは肩をすくめて笑った。
「君たち~、フリーのホラゲじゃないんだよ? 怖がり方が激しすぎるよぉ~」
その直後、今度は障子が誰も触れていないのに震えた。
「今音したよね!? したよね!?!?!?」
ルッツの声が跳ねる。
ガイウスは真顔で首を振った。
「見てない。俺はなにも見てない。無だ、俺は無だ……」
桜花の夜風が吹き抜け、花海棠の枝が静かに揺れた。
“幽霊いません”の札が、からん、と音を立てて落ちた。