「これは……ようこそ」
奥の帳場から現れたのは、背の高い老人だった。
銀の混じった黒髪を低く結い、羽織の袖をきっちり折り返している。
腰には刀こそ差していないが、姿勢と所作が妙に凛としていた。
まるで浪人。だが、どこか違う。
その目には、剣を置いた者の静けさではなく――。
すでに“戦の外側”からこの世を見ているような空気があった。
「桜花観光かい? 今夜はどの部屋も空いているよ」
低く、落ち着いた声だった。
その口調が柔らかいせいで、余計に背筋が伸びる。
「六兵衛……」
ガイウスが名札を見て呟く。
「なんかめっちゃ侍ぽい名前だな。あの城と関係ある?」
老人はゆっくりと首を横に振った。
「いや? 直接は」
「清宮様がお亡くなりになったのも、神楽が落ちたのも……もう百年は前でねぇ」
ルッツが瞬きをした。
「百年?」
「え? じゃあ……あの神主さん、いくつ???」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。
窓の外の花海棠が、風もないのに揺れる。
ガイウスがルッツの肩に軽く手を置いた。
「ルッツ……深く考えるとダメな奴だ。今は部屋を見よう」
「……そ、そうね。寝床、寝床!」
明るく取り繕う声が、かすかに震えていた。
六兵衛はその様子に、どこか楽しげな微笑を浮かべている。
「では“神楽”の間へ。こちらでございます」
「こちらのお部屋、とっても人気なんですよ。
なんといっても“神楽城が見える”特別室でして」
六兵衛が案内したのは、二階の奥――
廊下の突き当たりにある、一番広い部屋だった。
障子を開けると、広縁の先に夢幻桜が見えた。
夜の霧に包まれながら、淡い光を放つ桜。
その向こうには、崩れかけた城――神楽城の黒い影が見える。
だが、窓だけはおかしかった。
常に薄い霧が貼りつくように漂い、指先でなぞると、跡が残る。
まるで“外”と“内”の境界を拒んでいるようだった。
「……ここ、ちょっと寒いね」
ルッツが肩をすくめる。
何気なく掛け軸をめくったその瞬間――びっっっっっしりお札。
壁一面に貼りめぐらされた護符。
そしてその中に、一枚だけ紛れ込んだ“笑顔の子供”の写真。
沈黙を破ったのは、ルッツの絶叫だった。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”!! やだって言ったじゃん!!!」
バルトロメオは苦笑いを浮かべながら、お札の壁を見て半歩後ずさる。
「……あー……うん。旅館系ホラーのお約束だよね……」
笑いながらも、声が若干震えている。
「次は、たぶん……枕の下から女の髪とか出てくるやつ」
その瞬間、ルッツが爆発した。
「なんで幽霊出る部屋が一番いい部屋なの!! おかしいでしょ!!!」
廊下の端まで響くその叫びに、宿の看板がカタカタと揺れる。
その光景を見たガイウスは、なぜか妙に落ち着いた声で言った。
「うわぁ。幽霊屋敷ってアルキード的にテンション上がるゥ♡」
三人が同時に固まり、障子の外で風鈴が鳴った。
バルトロメオが眉をしかめて、即ツッコミ。
「急に冷静になるな!!! あとその♡つきそうな声何!?!?」
「え? だってアルキードじゃ“幽霊が出る=守護霊が濃い”って証拠なんだよ?」
ガイウスは真顔のまま、畳の縁を指でなぞる。
「むしろプレミアつくぞ。ほら、“祟りつき物件”って王都だと高値だからな」
「はぁ!?!? 頭おかしい!! 住めるわけないじゃん!!!」
ルッツの悲鳴が再び響く。
その間も、ハオは静かにお茶をすすっていた。
「逆に言うと、幽霊が出ない家って“価値が低い”んだヨ」
「怖いもの見たさってやつネ~。人間はね、ちょっと怖いほうが落ち着くのヨ~」
「落ち着くのはお前らだけだろ!!!」
ルッツが叫んだその瞬間――
廊下の奥で、カタッ。
誰も触っていない障子がひとりでに揺れる。
バルトロメオが笑いながら肩をすくめた。
「ほら見ろ、金髪ちゃんの声に呼ばれてるよ~」
「いや呼ぶなあああああああああ!!!」
「じゃ、ハオはこの部屋にするワ」
広縁の霧も、お札の壁も、子供の写真も見て――ハオは涼しい顔で言った。
自然に座布団へ正座し、お札を背にしてニコニコ。
もはや“怖い”の次元ではなく、“貫禄”が漂っている。
三人は目を見合わせた。
何も言えず、無言で頷くしかなかった。
「……うん。三人で寝よう。絶対」
ルッツの声は震え、
バルトロメオが苦笑しながら頷く。
「うん……一人で寝るには、些か刺激的」
その瞬間――障子の外で灯籠が弾けた音がした。
空気が一瞬、冷たくなる。
「……今の音、なに?」
ルッツが青ざめて振り返る。
戸の向こうで、ゆっくりと板の軋む音。
ちょうど“返事をするように”聞こえた。
「ピャー!!」
ルッツ、即絶叫。
布団を抱えて飛び上がる。
「うるせぇ!!」
ガイウスが反射的に叫ぶ。
「俺を巻き込むなァ!!!」
「わっ、出たね♪」
バルトロメオだけ妙に嬉しそう。
どこかの番組レポーターみたいなテンションで“幽霊の出現”を実況していた。
廊下の灯が一瞬ふっと消える。
障子の隙間から、冷たい風が吹き込んだ。
まるで、花海棠の枝が窓辺を撫でているかのように。
ガイウスが低くぼやく。
「……これさ。誰かの悪戯じゃなくて、“歓迎”だよな」
ハオは茶をすすりながらにっこり微笑む。
「そうヨ、“おもてなし”ネ」
「おもてなしの方向性が地獄なんだよ!!!」
部屋の準備を終え、夕飯前に荷物を整理していた時だった。
不意に、掛け軸の奥――お札の貼られた壁から「ミシッ……」と何かが剥がれる音。
次の瞬間、障子の向こうでパタパタと何かが走る気配。
風でもないのに花海棠の枝がガラスを叩くように鳴る。
灯籠の灯が、一瞬だけ不自然に揺れた。
「……ちょ、待って。今なんか動かなかった……?」
ルッツの声が震える。
「ぎゃあああああー!!!」
魂ごと持ってかれそうな悲鳴を上げて布団に飛び込むルッツ。
ガイウスも叫ぶ。
「マジで幽霊いるじゃん!!うわぁ~~~!!!」
本人なぜか、完全にテンションMAX。
バルトロメオが即座にツッコミを入れる。
「だから何だそのテンションは!!?君ユピテルの事言えないからね!!」
手をバシバシ振って呆れたように叫ぶ。
「ていうか!何でルッツが悲鳴あげてるのに笑ってるの君!?」
「お前の悲鳴、面白いのが悪い」
「いや勇者、性格悪ッ!?!?」
部屋の外では風鈴が鳴り、障子の隙間から誰かの影がふっと横切った。
「ぎゃあああああああ!!!!」
「わぁ~~~!」
「何でそこで盛り上がるの!!?」
――旅籠屋・花海棠の夜は、始まったばかりだった。
帳場の奥――。
紙灯籠の明かりの下で、六兵衛は筆を走らせていた。
表紙には、墨で大きく書かれた二文字。
「悲鳴録」
頁をめくるたびに、丁寧な文字が並ぶ。
まるで花見日記のような軽い筆致。
金髪エルフ嬢:「ピャー!/キャー!/ぎゃあああ」
→ 甲高くて伸びがいい。耳に残る。評価:★★★☆
赤毛の大男:「うるせぇ!!/俺を巻き込むなァ!!」
→ 恐怖というより怒鳴り声に近い。評価:★★☆☆
ダンサー氏:「わっ、出たね♪」
→ 驚き方が舞台演技。好印象。評価:★★★★
「いやあ、今宵もにぎやかで何より」
六兵衛は筆を止め、湯呑みを手に取った。
笑顔は穏やか、目尻に深い皺が寄る。
「やっぱり“金髪さん”は外れないねェ、うんうん。次の滞在も期待しとこ♪」
窓の外、風に揺れる花海棠の枝。
霧の中で、ほんの一瞬“誰か”が笑った気がした。
筆音だけが静かに響く帳場。
その背後の暗がりから、子供の笑い声がかすかに重なる。
けれど六兵衛は振り向かない、いつものことだからだ。
—–
障子越しに、風が通った。
紙を擦るような音がして、灯籠の明かりがわずかに揺れる。
ガイウスはその音で目を覚ました。
薄闇の中、他の三人は眠っている。
ハオだけが、布団にくるまったまま静かに目を閉じていた。
ガイウスは布団を抜け出し、縁側へと歩み寄る。
障子をわずかに開けると、夜霧がするりと入り込んだ。
ひやりと冷たい風が頬を撫でる。
「なぁ、ハオ。……あの神主の顔」
布団の中から、穏やかな声が返る。
「誰かに似てたのネ?」
「ああ……それが思い出せねぇんだけどさ」
ガイウスは霧の向こうを見つめる。
「てかお前、よく寝れるな。ここ、“一番出る部屋”だぜ?」
「寝れるヨ」
ハオは布団の中で小さく笑った。
障子の隙間から、外の景色がのぞく。
夜霧の中――ぼんやりと浮かぶ影。
崩れた城壁、折れた塔、そして満開の夢幻桜。
死の国の中心に今も立つ、滅びの象徴。
宿主の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
「清宮様がお亡くなりになったのも、神楽が落ちたのも……もう百年は前でねぇ」
百年前の戦。
それでも、城はまだそこにある。
まるで時間の外で息をしているように、霧の中に浮かんでいた。
ハオが目を閉じたまま、静かに言う。
「……あのお城、とっても綺麗よネ。滅んでも」
その言葉に、ガイウスは答えなかった。
ただ霧の向こうを見つめ、崩れゆく塔に反射する淡い光を追っていた。
灯籠が小さく揺れる。
花海棠の枝が外で鳴った。
その音だけが、夜を生きていた。
夜の花海棠。
満開の花の枝に、ひとつだけ人影が立っていた。
月も霞む霧の中、カリストは静かにその下を見下ろす。
旅籠屋の中は結界が張られており、彼のような“もの”は入れない。
代わりに、枝の上から中の様子を伺う。
灯籠の明かりが障子越しに漏れて、畳の間が淡く照らされていた。
ガイウスは寝相が悪い。
人づてに聞いていたが、本当にその通りだった。
布団から完全にはみ出して、畳の上で無防備に寝ている。
呼吸は深く、夢を見ているようだ。
カリストは、その様子をしばらく眺めていた。
どこか遠い記憶を見ているような、懐かしげな瞳で。
「……神楽城へ行くのか」
誰に向けたでもない言葉。
霧に溶けて、すぐに消えた。
「神楽城は行きたくない。ほかの地で迎え撃とう」
「帝もしきたりも、最早今の俺にはどうでもよい……ただ――」
視線を天へ向ける。
霧の向こう、天守の影がぼんやりと浮かぶ。
崩れかけた城の塔。その中には、まだ“何か”が息づいている。
カリストは帽子のツバをぎゅっと握りしめた。
「今も……あの方はおられるのか」
夜風が吹き、花海棠の花が一片、肩に落ちる。
彼はそのまま小さく微笑んだ。
まるでそれが、“答え”のように。
「……元帥様」
短く、口にしたその声は――ひとりの人間のものだった。