畳の廊下は薄暗く、どこまでも続いていた。
天井はやけに低く、明かり取りの格子に霧の白が滲んでいる。
ガイウスが何気なく顔を上げた瞬間──。
「イッテェ!」
鈍い音が響く。
「大丈夫ですか? 異邦人どの」
すかさず袈裟が振り返る。
その声は穏やかで、どこか慣れた響きだった。
「この城……天井低いっ……!」
額を押さえるガイウス。
バルトロメオが苦笑しながら肩をすくめる。
「天井低いというか君がデカいんだよ。190手前だろ?」
「知ってる! でも角度が悪かったんだよ角度が!!」
「忍者屋敷仕様ネ~。頭上注意、書いとくべきダネ」
ハオが軽い調子で言う。
ルッツは苦笑しながら前を指した。
「ほら、ガイウス、ちゃんと前見て歩こ? 死者の城だよ?」
「それが怖ぇんだよ!」
薄暗い畳廊下。
灯籠の火が風もないのに揺れている。
奥から、誰のものとも知れぬ囁き声が流れた。
「なぁ、お前ら──誰に入る?」
「……あの踊り子さんがいいな。心が柔らかそうだ」
「クスクスクス……優しい人ほど、美味しいのに……」
闇の奥で、押し殺した笑い声。
それが耳の裏を撫でるように滑っていく。
バルトロメオが不意にゾクリと肩を震わせ、振り向いた。
「ん? いま……誰か、呼んだ?」
「言ってない言ってない言ってない!!」
ガイウスが即答する。
「いや呼ばれたかも呼ばれてるよ絶対!!」
ルッツが半泣きでガイの袖を掴む。
ハオが淡々と呟いた。
「聞こえたネ、“誰に入る”って……」
その瞬間、廊下の向こうで空気が変わった。
足音もなく、温度だけが落ちる。
低い声が、闇の中から這い出すように響いた。
「……体を、寄越せ……」
ガイウスの手が、剣の柄に伸びる。
「ッ……やべ、来たぞ──!!」
ハオはまるで買い物中のような調子で言った。
「やめなさい、鴨居に頭ぶつけるヨ」
「やめろぉ!! さっき俺がぶつけたの思い出しただろそれぇぇ!!」
ガイウスの悲鳴と共に、怨霊が硬直する。
だが一体の怨霊が、意を決して“生きた体”に入った場合を想像した。
「フフフ……久しぶりの生きた体だ」
幽霊の意識が、ガイウスの大きな体を動かし始める。
腕も脚もよく動く。心臓は高鳴り、五感が鮮明だ。
「暫くは堪能させてもらうぞ……ふふふ――イッテェ……鴨居!」
前触れもなく額に激痛。
「鴨居が……近い!! なんだこの体!? 大ハズレじゃないか!!」
天井が近すぎる。視界の高さも合わない。
立ち上がればすぐぶつかる。座っても脚が収まらない。
“異邦の巨人”の肉体は、幽霊の想定を大きく外れていた。
……数秒の体験で、怨霊はそっと抜け出す。
「………鴨居か……」
静かに霧の中へフェードアウトした。
「何この納得して帰ってくやつ!?!?」
「オチつけんなやあああ!!!」
薄暗い木造の洗面所。
床は湿り気を帯び、唯一残された水面だけがわずかに光を返していた。
「クソ……鴨居のせいで顔汚れた」
ガイウスが額をさすりながらつぶやく。
「袈裟さん、洗面所は……ていうか、水出る?」
「えぇ、向かいにござるよ」
忍者はいつも通り柔らかく答える。
ガイウスは蛇口をひねる。
ギギ、と古い金属の音。
しばらくして、鈍い灰色の水が勢いよく流れ出た。
鴨居をぶつけた勢いでついた煤を洗い流す。
「……うわっ」
すぐ後ろから、声がした。
「どうしたのー、ガイ君?」
バルトロメオが、やたら楽しそうに顔を出してくる。
「俺、いつ……髪、白くなったの?」
ガイウスは鏡を指差す。
そこには、見覚えのない銀髪の自分がいた。
「……おや、本当だ。綺麗な銀髪だね」
バルトは真顔で確認して、感想がそれ。
「いやいやいやいや!? おかしいだろ!?!?」
ガイウスが全力でツッコむ。
「でも銀髪も銀髪でいいじゃない?
演者としては、“失われた時の王子”っぽい雰囲気でグッド」
「頼むから現実で言ってくれ……! 俺まだ二十一歳なんだぞ!!」
その瞬間、鏡の中のガイウスが──ゆっくり笑った。
水面が波打つ。
揺れる光の中で、鏡の“もう一人”は静かに微笑みを残したまま消えた。
「……おしゃれすればいいよ、君、顔いいんだから。染めたら?」
バルトがいつも通りのテンションで言う。
「俺が? 何色からだよ」
「ん〜、例えば水色のインナーカラー入れるとかさ」
「なんで急に派手なのからなんだよ!? ウラヌスかよ!!?
あいつしかやらねぇだろそんなの!! 絶対いやだ!!」
バルトがにっこり。
「ふふ、じゃあ紫のメッシュから始めようか?」
「だからそのウラヌスルートやめろって言ってんだよ!!!」
湿った石壁に、水の滴る音が響いていた。
闇は濃く、吐く息すら白く見える。
その中に、かすかな声が混じる。
いや、“声”というより、笑いだった。
「……クスクスクス……」
「入ってきたねぇ……」
「どの体がいいか、決まった?」
「わたしはあの金髪、やわらかそうで──」
「俺は赤いのにしよう、目が綺麗だ。取りたいな、眼球……」
音が重なり、通路全体がざわめく。
壁から、天井から、無数の手が這い出した。
人の形をしているのに、動きだけが“生き物ではない”。
「ぴゃああああああああああ!? 来たあああああああ!!」
ルッツの悲鳴が響く。
「うるさいっ! 叫んでも何も消えねえ!! 来るぞ!!」
ガイウスが剣の柄を握りしめる。
ハオは掌に札を浮かべ、目を細めた。
「……ヨくないネ……この氣、悪い霊ヨ」
バルトロメオの声は低く、真剣だった。
「ふざけてたけど、これは……戦わなきゃだ」
その瞬間。
風を切る音が、霧の向こうから届いた。
影のような姿が、前に立った。
「……残念ですが、この城の幽霊の九割は、怨念に囚われております」
低い声。
聞き慣れた、穏やかな調子。
けれどそこに“笑い”はなかった。
「袈裟さん……?」
ガイウスが呼ぶ。
忍者の影がゆっくりとこちらを振り向く。
その瞳は、まるで燃え尽きた灰のように静かだった。
「拙者が正気でいられたのは……“ちと汚れ仕事をしていた”のも、あるやもしれませぬ」
その言葉に、ガイウスが息を呑む。
“汚れ仕事”──つまり、彼自身もこの城の血を見てきたということ。
「異邦人どの──武器を抜かれよ!」
袈裟が音もなく抜刀した。
薄闇の中、刀身が一瞬、青く光る。
その表情からは、あの人懐っこい笑みが消えていた。
霧の奥、怨霊たちの手が一斉に止まる。
まるで、“かつての主”に道を譲るように。
ガイウスは刀を抜いた。
「……ああ。もう逃げねぇ」
二人の刃が、静寂の中で交錯した。
冷たい空気が震え、灯籠の火が細く揺れた。
冷たい霧の中で、闇が動いた。
怨霊たちの影が床を這い、指先だけが異様に伸びる。
その姿は“形を持たないまま形になろうとする”歪みだった。
ハオが軽く息を吸い、前に出た。
その動作はゆるやかで、まるで日常会話の延長。
「幽霊ハネ、厄介ダヨ」
指先で印を結びながら、淡々と続ける。
「居るけど居ない、居ないけど居る」
「はぁ!? じゃあどうすればいいの!」
ルッツが焦って後ろに下がる。
「要は──物理攻撃効かないのネ」
「詰んでるじゃん!?」
「だから、こうする」
ハオは懐から札を数枚取り出した。
一枚、二枚、三枚。
薄紙が風に舞うように指先を離れる。
彼女の動きが一変した。
それはまるで、別の人格が降りてきたような速さと精密さ。
しなやかに腕を広げ、掌を返しながら札を投げる。
札が空を裂き、淡い光を放ちながら円を描いた。
音が鳴った瞬間、怨霊たちの影が軋むように悲鳴を上げる。
光が床を這い、封印の紋様を描いた。
その姿は優雅で、そして容赦がなかった。
ハオが静かに指を鳴らす。
「鎮」
怨霊たちが一斉に霧へと溶けていった。
残響だけが、微かに笑っていた。
ルッツがぽかんと口を開ける。
「……なんか、今だけ格好良かった」
「今だけ?」
ハオが笑う。
バルトロメオが感心したように拍手した。
「いや、“巫女”というより“エクソシスト”だね」
ガイウスが息を吐き、刀を下ろす。
「ま、助かったんなら何でもいい。
……ただし次ぶつけたら、鴨居が止めてくれるだろうけどな」
怨霊たちの笑い声が、途切れた。
床を這っていた黒い影が揺らぎ、煙のようにほどけていく。
「消えちゃうの……?」
「……まだ、言いたいことが……」
声がかすれ、遠のく。
怨念の残響は淡い光となり、
空中で静かに舞い散りながら消えていった。
霧が落ち着く。
それは“勝利”というより、祈りのあとのような空気だった。
袈裟が一歩前に出る。
薄く微笑んだまま、刀を納める。
その手の動きが、わずかに震えていた。
「……人を斬るのは、久方ぶりでござるな」
穏やかな声。
けれど、その言葉の重さに誰も返せなかった。
数秒の沈黙を破ったのはガイウスだった。
「……さらっとめっちゃ怖いカミングアウトしたぞこの陽キャ!?」
冗談めかして言ったつもりなのに、
声がほんの少し震えている。
袈裟は苦笑した。
「おや、怖がらせてしまいましたかな。拙者も……あの頃は若かったもので」
霧の中の灯籠が、微かに明るくなった。
ハオが目を閉じ、両の手を静かに合わせる。
「触れられたくない記憶は、誰でもあるヨ……」
その姿勢は柔らかく、怨霊たちの冥福を祈る巫女のようだった。
静かな祈りの音が、ゆっくりと広がっていく。
死者の笑い声も、今はもう聞こえなかった。
廊下の空気が少し緩む。
さっきまで抜剣してたガイウスが。
明らかに「鴨居」を過剰に警戒しながら、そろそろと歩き出す。
バルトロメオがすかさず突っ込む。
「マジで鴨居が一番ガイ君に効いてない!? なんなら魔王軍残党よりダメージでかいでしょコレ」
ハオもクスクス笑いながら、
「ガイウスにとっては“難攻不落の敵”ダネ」
ルッツが両手で身長ジェスチャーしつつ。
「城攻めどころじゃないもんね……」
「いやほんと、体張るなら敵の前でやらせてくれよ!!」
そこへ袈裟さんが微笑む。
「慣れぬ高さで頭をぶつけるのは、忍びでもよくあることでござるよ……」
ハオが驚いて振り向く。
「え!? 袈裟さんも!?」
「ははは、あの頃は血気で動いていたようなもので」
懐かしそうな顔で、額を軽く叩く仕草を見せた。
その様子を見て、バルトロメオが大げさに手を広げる。
「まさか人も忍びも、“難攻不落”の鴨居には勝てないんだなぁ~」
ガイウスは苦笑しながら、
「……城も幽霊もいいけど、鴨居だけはマジで油断できねぇ……」
廊下の灯が、ふわりと揺れた。
“人斬り”も“勇者”も、“鴨居”には勝てない夜だった。