丙編-神楽城 - 4/5

廊下の先に、鈍く光る扉。
神楽城最奥──帝の間。
その前に立つ袈裟は、長く息を吐いた。
霧が薄く漂い、空気が少しだけ冷える。

「この先は帝の間……拙者のような影のものには、ちと眩し過ぎる所」
袈裟の声は静かで、それでいて重みがあった。
「同時に、最も怨念渦巻く地でもあられる」
その言葉に、一行の背筋が自然と伸びる。
ランタンの灯がわずかに揺れた。
彼は右手を組み、印を結ぶ。
「異邦人どの、この印を──どうか、心に刻んでくだされ」

ゆっくりと、指が動く。
畳の上に響く小さな音。
霊気が張り詰め、空気の粒子すら震えるような気配。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前──」
一瞬、風が止まった。
扉の奥の空気が、わずかにうねる。

その厳粛な瞬間を切り裂くように──
「うおおおおおお!? ホントにやるんだああああああ!! 僕感激ぃぃぃい!!!」
バルトロメオ、全身で拍手。
その声、神楽城中に響き渡る。

「丙来て一番デカい声出すのそこか!?」
ガイウスが思わず頭を抱えた。
ルッツが肩をすくめる。
「いや分かるけど……もうちょっと空気読もうよ」
ハオが淡々と茶をすすりながら、
「これは、バルトロメオらしい儀式妨害ヨ」
袈裟はしばらく沈黙したのち、微笑んだ。
「……賑やかなる供物も、悪くはござらん」
そう言って立ち上がると、九字の印がふっと光を帯びる。
帝の間の扉が、静かに開いた。

部屋の空気が、音を失った。
畳は湿り、外の風が止む。
まるでこの一室だけが時の流れから切り離されたようだった。
座敷の中央に、一本の軍刀が突き立っている。
刃こぼれの跡、握りの擦り切れた皮、そして鞘に宿る黒い影。
それはただの武器ではなかった。
人の形を持たぬまま、まだここに“主”がいる。

ルッツがふらりと前に出た。
「もしかして、この刀が……」
ガイウスの制止が追いつく前に、指先が柄に触れる。
次の瞬間──彼女の全身がびくりと震え、無言で正座する。
「ルッツ……?」
名を呼んでも返事はない。
目を閉じたまま、口元だけがわずかに動く。
そして、ゆっくりと開眼した。

その瞳の色が変わっていた。
柔らかい翠ではなく、凍るような鋼色。
声が低く響く。
「我が名は──晴輝。須藤晴輝だ。」
名を名乗った瞬間、神楽城全体が軋んだ。
壁が鳴り、畳が震え、どこかで長い間止まっていた歯車が再び動き出すような音がした。

ガイウスは即座に刀に手をかける。
「やめろ!ルッツを返せ!!」
踏み出した足が、途中で止まる。
ルッツ──否、須藤晴輝は片手をゆるやかに上げただけで、
彼の全身を縫い止めた。
目が合った瞬間、言葉より先に理解が走る。
この圧、剣士ではない。指揮官のものだ。
「またれよ、異邦。」
「私は丙人でない者が神楽に来たと知り、興味を抱いただけだ。」

声が波紋のように空気を震わせる。
バルトロメオは息を飲み、
「……すごい。舞台演目じゃない……これが“本物の侍”──」と呟く。
その言葉に、彼(彼女)は静かに首を横に振った。
「違う。」
「私は侍ではない。“歴史”という変化に、抗えぬ者とは違う。」
部屋の奥で、古い木製の柱が小さく軋む音。
空気が冷たく、けれどどこか穏やかに変わっていく。

空気が、張りつめていた。
青い光に照らされた畳の上、四人と一人──いや、一柱。
ガイウスはおずおずと手を挙げた。
「えぇと……セイキ様? それとも元帥様……? お、俺達なんて呼べばいいんですか?」
ルッツ──否、須藤晴輝は薄く笑った。
「くだらん。好きに呼べばいい。」
その一言だけで、言葉の重さが違った。
軍人の声ではない。国を率いた男の声。

ハオが前に進み、ぺこりとお辞儀する。
「元帥サマ~。ワタシはハオだヨ。まずは荒らしに来たワケじゃないワ。」
「このヒノエのことを──知りに来たノ。」
ルッツの瞳がゆるやかに彼女を捉える。
「承知している。」
「貴様たちの様子は見ていた。好奇の墓荒らしではないと見える。」
その声だけで、背後の障子がわずかに鳴った気がした。
呼吸をするたびに、神楽城そのものが“聴いている”ような感覚。

バルトロメオが小声でガイウスに囁く。
「……正座すべき?この空気。」
「しろ、なんていうか……しなきゃいけない空気だ。」
二人が同時に姿勢を正す。
誰も笑わないのに、空気がどこか人間臭くなる。
元帥の声が再び響く。
「それで、何故神楽城に貴様たちは踏み入った?」
その問いはまるで“国そのものに問われている”ような重みがあった。

ハオが静かに息を整える。
「……丙は、何で滅びたのか。」
「対価はこのお茶でどうデショウ?」
袱紗のように懐から茶を取り出し、丁寧に置く。
茶の香りがほんのりと漂い、異様な緊張が少しだけ溶けた。
ルッツの中の元帥が、短く息を漏らす。
「……構わぬ。長くなるぞ。」
彼の声は穏やかで、それでいて全てを知る者の響きを持っていた。
まるで“歴史そのもの”が口を開く前の静けさのように。

ルッツ──いや、須藤晴輝は静かに目を閉じた。
部屋の空気がわずかに重くなる。
まるで古文書が語り出すような、乾いた声。
「まず、丙は鎖国していたことは、異邦たちは知っているか?」
問われ、誰もが息を呑む。
バルトロメオが最初に口を開いた。
「は、はい……神楽幕府が国を閉じていたん、ですよね?」
「然り。」
ルッツの口から出たその一言に、空気が一段低くなる。
「しかしある日──黒き船が異邦より訪れた。」
城の外で風が鳴いた。
障子の向こうに、黒い海の幻影がちらりと揺れる。
「閉じた国を、開かねばならなくなり、長く続いた幕府に“限界”が訪れたのだ。」
その声に、長年の軍人の諦観が混ざる。
誰かの怒りでも悲しみでもない。
ただ、“時代”という巨獣に呑まれた人間の声。

「黒き船は……我らを侵略せんとして現れたのではない。」
ランタンの光が、障子に波紋のような影を落とす。
「彼らは補給のため、ただ港に停泊したいと申し出た。
――“開国してくれ”、そう頼んだだけだ。」
ガイウスが眉をひそめる。
「悪意は……なかったのか?」
「なかった。」
「だが、我らは“外の言葉”を恐れ、“異なる文化”に怯え、全てを拒んだ。」
ルッツ(晴輝)の語りを聞きながら、ガイウスはふと帝国で目にしたあの光景を思い出す。

“魔導エンジンによる御者の大量解雇。”
誰も悪くない。
「ただ便利なものが現れただけ」で、職も誇りも一瞬で奪われた者たちの哀しみが蘇る。
ガイウスはランタンの灯に目を落としながら呟いた。
「……悪気はなかったんだよな。
あの黒船も、魔導エンジンも。誰かを苦しめようとしたわけじゃない。
それでも、誰かの人生が――何もかも変わっちまう。」
ハオが、静かに同意する。

「時代が動く時、“誰の悪意”でもない破壊が起こるネ。必ず何かが置き去りになる。」
バルトロメオは黙って頷き、ルッツ(晴輝)は遠く、霧の向こうを見据える。
「そうだ。“文明の波”という名の、止められぬ嵐だった。」
「抗う術を持たぬ者たちを、静かに、だが確実に呑み込んでいったのだ。」
部屋の空気が、また少し重くなる。
“便利さ”も、“善意”も、時に最も容赦のない破壊者となる――。
勇者ズはその現実を、静かに受け止めていた。

「──丙は開国とほぼ同時に滅んでしまった。」
「運が悪かったのもあるが……あまりにも閉塞的過ぎる環境が、滅びを招いたのだ。」
ルッツの唇が、淡く震える。
彼の中の元帥は、すでに何百回もこの話をしてきたのだろう。
だが、それでも語らずにはいられない。
「老中たちは言われた。“清宮王は最早時代遅れの老人だ”と。」
「そして──自分たちの言葉を民に流布すべく、幼き帝を神楽に据えた。」
その瞬間、障子の外で雷鳴が落ちた。
畳の上の影が、いっせいに揺れる。

ガイウスが眉をしかめる。
「……革命、か。」
「いや。」
元帥の声は低く響く。
「それは革命ではない。内なる崩壊だ。」
沈黙が落ちた。その沈黙こそが、滅びの本質を物語っていた。

ルッツ(晴輝)はまっすぐ前を見据えたまま、声を落とす。
「帝は幼かった。故に、己が言葉が如何に重いか理解していなかった。」
静かな言葉が畳にしみこむ。
「そして、帝の定めたしきたりは人々の絆を裂いた。」
障子の外、風が一瞬止まったように感じられた。

「“御国のため”――その思想が流布され。
同性愛は禁忌とされ、同性に恋愛感情を抱く者は座敷牢に送られた。」
「子を産めぬ女はいないも同じである。国に尽くせぬものは丙に要らぬ」
どこかで柱が軋む音がする。
遠い昔に泣き叫んだ者たちの記憶が、場の空気を重くする。
晴輝元帥はほんの僅か、悔いを滲ませた声で続ける。

「焦っておられた。新政の柱を定めぬまま、民に秩序を強いたのは……」
「ある風読みが“百年以内に大震災が起こる”と進言したのが、一因とも言われている。」
ガイウスが低く呻く。
「……つまり“大災害”が来るって言われてたのかよ。」
ハオは真剣な顔で頷く。
「土と風に関わる術は、未来を視るよりも当たるネ……
でも、それだけで国を縛ったら、もっと大きな歪みが来るヨ。」
“善意”と“予言”が重なった時、それは“呪い”となって国を滅ぼす。
そんな皮肉が、帝の間の空気そのものになっていた。

歴史の闇が語られ、しばし静寂が降りる。
ルッツ──晴輝は、淡く湯気の立つ茶碗に口をつけていた。
凛とした指先、揺るぎない背筋。その姿に、先ほどまでの幼さは微塵もない。
ガイウスが不意に口を開く。
「……んあ? そういやよ、俺らあのガイドの忍者(袈裟さん)、普通に見えて話せるじゃん?」
「なんで元帥様は、ルッツ通さなきゃ喋れねえんだ?」
一同が一瞬黙る。
バルトロメオが真顔で口を挟んだ。
「多分……損傷が激しすぎるからだよ。」
「は?」
「その、つまり……Gがつく方の、R-18」
言いづらそうな声に、全員が一瞬フリーズする。

「うわああああああああああああ!!!!」
ガイウスが盛大に耳を塞ぐ。
「聞きたくなかったやつ!!」
「うるさくてゴメンね~。これうちらの平常運転ヨ」
ハオの言葉にルッツ──晴輝は、くだらん……とだけ呟くが、
その口元には、ごく微かな笑みが浮かんでいた。
茶の香りが、また一度だけ柔らかな空気を戻してくれた。