冥界-エーリュ―ズニル編 - 1/5

氷の中庭に、再び静けさが降りた。
「世界」をテーマにした最終勝負。
氷華鏡(ミラージュ・ペタル)と大いなる火(ムスペル・フレア)――
それはもはや芸術を超えた、創造と終焉の儀式だった。
そして今、冥界史上もっとも恐ろしい時間――採点タイムが始まろうとしていた。

フェンリルが、観客の亡者たちに向かって腕を上げる。
「さぁーて! これより採点開始だァ!
カリストの“静の世界”と、ヘルの“動の世界”、どっちがより“世界っぽい”か!!」
レイスが後ろで顔をしかめる。
「“世界っぽい”って何の基準だよ……」
ハオがにこにこと湯気の立つマグを揺らす。
「楽しい方が勝ちヨ。美学よりエンタメよ~」
最初の審査員、ヨルムンガンド。
フェンリルが妹の頭を軽く撫でながら尋ねる。
「ヨル、どっちが好きだ?」
少女は両手で頬を押さえ、瞳をきらきら輝かせる。
「しろいひとの、すき!」

「お、カリストに一票!」
「キラキラしてた! ゆきのなかにおほしさまがいっぱいだった!」
その後も、まさかの“全ラウンド・カリスト加点”。
周囲の亡者たちがどよめく。
レイスがぼそっと呟く。
「……これ、完全にファン投票入ってるだろ」
「むしろ純粋評価ヨ。氷に魂奪われた少女、こわいほど正直。」
次の採点者、レイス。
フェンリルがニヤつきながらマイクを渡す。

「さぁ、地上代表! どっちに入れる?」
レイスは腕を組み、しばし沈黙。
やがてぽつりと「……ヘルの方に全部入れる。」
「全部!?」
「だって……“東京最期の日”は反則だろ。」
「見た瞬間に心臓止まったわ。あれだけで勝負終わりだろ。」
ハオが茶を啜りながらぼやく。
「そりゃ“世界”テーマに旧東京出されたら、反則ネ。」

最終的な得票結果。
ヨルムンガンド:カリストに全投票
レイス:ヘルに全投票
ハオ:採点不能(※途中でお茶をこぼし、票が凍結)
プルト:観客側コメント「美しい物同士のマウントに興味なし」
結論――判定不能(美学の衝突)。

フェンリルが爆笑しながら締めに入る。
「結論! どっちも凍って燃えて最高ってことでいいだろ!!」
「雑なまとめだな、おい……」
ヘルは微笑んだ。
「いいの。どちらも“世界”を描いたのなら、それで十分。」
カリストも一歩前に出て、軽く礼をする。
「……光栄です。貴女の“世界の終わり”を見られただけでも、満足ですよ。」
氷の中庭に、光が反射し、ふたりの“世界”が重なって風景を生んだ。
それは、凍りながら燃える、世界のかたちだった。
中庭に残る冷気は、いまだ消えていなかった。
氷と光と、燃える幻影。
二人の「世界」は拮抗したまま、静かに溶け始めている。

ヘルが、ひとつ息を吐いた。
それは冥界の女王にしてはあまりに人間的な、安堵の吐息だった。
「……いい勝負だったわね。」
氷の花弁が音もなく崩れ、地を照らす。
その静寂を破ったのは、あまりに軽やかで、跳ねるような声だった。

「ヘルぅ、初めてじゃないか? 君に規模や威力じゃなく、美しさで挑んだのは。」
音だけで空気の温度が変わった。
楽しげなのに、どこか底が見えない。
次の瞬間にはすべてを壊しそうな――そんな危険な声。

その男の服は奇妙だった。
冥界――炎とは最も無縁の、氷と死が支配するこの極寒の世界で、
彼のコートの裾だけが、まるで燃え尽きた紙のように黒く焦げている。
近づけば、その模様はさらに異様だった。
整然と並んだ菱形の模様が、途中から歪み、青の染料が焼け跡のように滲み、
そしてそれを縁取るように、血のような深紅が絡みついている。

“秩序と混沌が、同じ布地で喧嘩している”
そんな不安定さを、その服は見せつけていた。
レイスは腕を組みながら、ぼそりと呟く。
「説得力ありすぎるな。冥界で“焼けた服”着てるやつなんて……」
男はその声に気づいて、にやりと笑った。
薄氷のような蒼い髪が、冥界の風に揺れる。

「ははっ、わかるかい? これ、“ムスペルヘイム帰り”の記念品さ。」
「熱が好きでね、でも冷たさの中じゃないと、火は綺麗に見えないんだ。」
その赤い瞳は、まるで氷の中に閉じ込められた炎。
笑みは軽く、声は愉快そうだが、どこか底が見えない。

ヘルが横で腕を組み、冷ややかに言い放つ。
「……オヤジ、相変わらずバランスを知らないわね。」
ロキは軽く肩をすくめて、氷の彫像に凭れかかる。
「バランスを取るのは退屈だよ。 世界はね、崩れそうな時ほど綺麗なんだ。」
ヘルは振り返らず、横目だけで見た。
「やぁ、君たち。世界また燃えたそうだね?」
その声は――軽やかすぎて、背筋が寒くなるほどだった。
誰もが知っている。
この声、この軽さ、この悪意の柔らかさを。

「ボクはロキ。」
口角がにたりと上がる。
「世界樹を燃やした男だよ♪」
ヘルは片肘をつき、深い息を吐いた。
「最悪で……最高の悪魔が、起きてきたわけね。」

レイスが顔をしかめる。
「……寝起きで“世界また燃えた?”とか言う親父、どうなってんだよ。」
フェンリルが遠い目をして頭を掻く。
「寝起きに罵られるんだぞ、毎回。オレでも反抗期になるわ……」
ロキはそんな子供たちを見て、楽しそうに笑った。
「親に似るってのはいいことだよ、ヘル。」
「ボクが眠ってる間に、君はちゃんと世界を“芸術的に終わらせる”ようになった。」

ヘルは立ち上がり、冷たい瞳でロキを見た。
「……終わらせるのは、芸術。燃やすのはあなた。」
ロキは軽く肩をすくめ、まるで子供の悪戯を自慢するように笑った。
「だってさ、“燃やした方がドラマチック”だろう?」
氷の庭に再び風が吹く。
その瞬間――凍りついた世界が、ほんのわずかに揺らいだ。
“神々の黄昏”を笑いながら語る道化師。
冥界に目覚めた、最悪で最高の悪魔。

ロキは踊るように言葉を放った。
「さぁ、次はどんな終わりを見せてくれるんだい? 世界は、まだ燃え足りないだろ?」

—–

その頃、此岸。
静まり返ったサイガ家の応接間で、兄妹は向かい合っていた。
窓の外では鈴虫が鳴いている。夏は終わったはずなのに、妙に蒸す夜だった。
セラフが机の上に古い写真立てを置いた。
写っているのは三人――彼、彼女、そしてイザナギ。

大聖堂の白い光の中で、天使像を背にして撮られた一枚。
キリエは笑顔で手を振り、セラフはいつもの穏やかな微笑を浮かべている。
そして――イザナギだけが、笑っていなかった。
セラフはその写真を見つめながら、低く言った。
「今までもあの子はこの時期になると精神が揺らぎやすい傾向があった。
しかし、それまでは問題がなかった。」
濃い青の瞳が、ゆっくりとキリエへ向く。
「キリエ、何故だと思う?」

突然の問いに、キリエは肩を跳ねさせた。
「え? えーと……」
彼女の指が無意識に写真の縁を撫でる。
その指先は、イザナギの無表情に止まった。
少し考えて、ぽつりと答える。
「……イザナギがフォルトゥナから出たことで、守れる人がいなくなった……とか?」
セラフはゆっくりと頷いた。
「正解だ。」
「“守ること”が、あの子にとっての依代だった。」
「人を護るという行為が、自分の存在理由であり、同時に枷でもあった。」
キリエは目を伏せた。
「じゃあ、自由になったのに、苦しんでるってこと……?」
「そうだ。」
セラフの声は静かだが、どこか祈るようでもあった。

「自由とは、いいことばかりではない。
秩序に縛られていた者ほど、それを失った瞬間――自分を見失う。」
彼は写真を伏せる。
「フォルトゥナが壊れたとき、イザナギは“守るもの”を失った。
だからこそ今、“呼ばれた”のだろう。冥界に。」
キリエが顔を上げた。
「……呼ばれた?」
「そうだ。あの子は“死”を恐れてはいない。
むしろ、“死に触れることでしか生を感じられない”のだ。」
その言葉に、部屋の空気がひやりとした。
まるで、遠く冥界の風が吹き込んだかのように。

セラフはゆっくり立ち上がり、窓の向こうを見た。
「この夏、境界は薄くなる。魂の帰る道が開く時期だ。
彼はその呼び声に、自ら応えたのだろう。」
キリエは唇を噛む。
「……そんなの、誰が呼んだの?」
セラフはほんの一瞬、哀しそうに微笑んだ。
「“誰か”じゃない。“何か”だ。」
「――冥界の扉を開くのは、常に“未練”だよ。」
セラフは机の上の資料を整え、まるで講義でも始めるような口調で話し出した。

「私はフォルトゥナで生まれ、フォルトゥナで育った。
ゆえに、神話や古事記の類には疎くてな。」
「それで、ハーマルト枢機卿に出雲神話について教えていただいた。
そして――あの子を“呼んだもの”の正体に、どうにか辿り着けた。」
キリエは思わず身を乗り出した。
「だれなの? イザナギを呼んだのって?」
セラフは息を整え、ゆっくりと名を告げた。
「伊弉冉(いざなみ)だ。」
その名が落ちた瞬間、部屋の空気が一変した。
壁に掛けられた天使像が、まるで聞き耳を立てているように影を落とす。
キリエは首を傾げ、きょとんとした顔で言う。

「……へ?」
セラフは微笑を浮かべ、続けた。
「オノゴロ島に降り立ち、夫・伊弉諾(いざなぎ)との間に多くの神々を生んだ、創造の女神。
天地開闢の物語における、最初の“母”だ。」
キリエは口をぱくぱくさせた。
「ちょ、ちょっと待って? 母なる神様って……なんで“冥界”にいるの?」
セラフは椅子に深く腰をかけ、両手を組んだ。
「そこが、この神話のいちばん恐ろしい部分だ。」

「彼女は“死”によって変わった。
子を産む苦しみの中で命を落とし、黄泉へと堕ちた。
そして、愛した夫――伊弉諾が彼女を迎えに来たとき、
“黄泉の穢れ”に身を落としていた自分を見られてしまったのだ。」
キリエは息を呑む。
「……それで、怒って、別れたんだっけ?」

「そうだ。」
セラフの声は、まるで古い祈祷のように淡々としていた。
「伊弉冉は言った。“あなたが千人産めば、私は千五百人殺そう”。
それが、この世界に“死”という現象が生まれた起源とされている。」
キリエの顔がわずかに青ざめる。
「つまり……その“死の神様”が、イザナギを呼んだ?」
「正確には、“夫の魂”を呼び戻した。」
セラフの声は静かだったが、どこか痛みを含んでいた。
「伊弉冉にとって、あの子は――同じ名を持つ、もうひとりの伊弉諾なのだ。」

キリエの目が見開かれる。
「……えっ、それって……」
「そうだ。」
セラフはゆっくりと頷いた。
「黄泉の国の王たる女神が、“夫の魂”を冥界に呼び戻す――
それが、今回の異変の正体だ。」

キリエは手を口に当てたまま、震える声でつぶやいた。
「……じゃあイザナギは……“呼ばれた”んじゃなくて、“迎えに来られた”んだ……」
セラフは窓の外に目を向ける。
外は曇り空。陽は落ちかけ、光が鈍く濁っている。
「そうだ。そして、冥界の扉が開いた時――“生者と死者”の境界も曖昧になる。」
彼は小さく息をついた。
「今からゆっくり説明しよう。安心しろ。休暇をいただいたので時間はある。」
キリエは思わず笑ってしまった。
「え、まさかの有給説明会……?」
セラフはほんの少しだけ、いたずらっぽく微笑んだ。
「神話というのは、案外、人事報告に似ているものだよ。」