氷美対決は、まさに冥界に花咲く一瞬の夢だった。
けれど――美は、冷たい。あまりにも冷たすぎた。
氷の中庭から駆け込む足音、霜を踏みしめる小さな悲鳴。
勇者も魔族も亡者も、今この瞬間だけは“寒さ”という一つの絶対的現実に平等だった。
どんなに鍛え上げられた魂も、凍てつく空気の前ではみな同じ。
「美しさ」と「現実」の落差が、冥界の冬をさらに深く、痛烈に感じさせる。
「寒っ……!」
「指が……死ぬ……」
「……もう氷美はいいから、コタツ持ってきて……」
そんな声があちこちで上がる中、
自然と全員の足は、エーリューズニルの奥――唯一の暖色が灯る部屋へと導かれていく。
氷の宮殿。その心臓部にぽつんと浮かぶ“炎の間”。
扉を開ければ、そこだけ異質な世界が待っていた。
青白い大理石の壁と床、その中央にぽつんと据えられた大暖炉。
暖炉の中では、燃えさかる炎の中に剣のようなものが……いや、あれは剣そのものが燃えている。
薪のはずがない、と誰もが直感する。
あまりにも造形が精密で、炎に包まれながらなお異様な存在感を放っている。
その刃は、赤金色の火に舐められながら、まるで“今にも動き出しそうな”生々しさを纏っていた。
だが、今だけは「何で燃えてるか」なんてどうでもいい。
氷で凍えた指、悴む頬――全員が揃って、
それに向かって手を翳す。
「ぬくい……!」
ハオが真っ先に声を上げた。
いつもの飄々とした調子で、でも心底から感動しているのが分かるトーン。
「あぁぬくいぬくい……生きてるって感じするヨ」
プルトは珍しく微笑を浮かべて、「冥界で言うのも、奇妙な話ですがね」
言葉の裏に、ほんの少しだけ人間らしい、安堵が混じる。
その背後で、カリストが外套の裾を整えながら苦笑い。
レイスが胡乱な視線を向けた。
「お前、ユピテルも誘ったのか?」
「ええ、“美の氷界を見に行きませんか”と」
「で?」
「“俺半ズボンだぞ?拷問か?”と即答で拒否されました」
「正解だと思うぞ、それは」
小さな笑いが部屋に広がる。
この冥界の宮殿にあって、今だけは「生の温度」が満ちていた。
ふと、レイスが暖炉の炎――その中心で“燃えている剣”に目を留める。
火に照らされる横顔が、ほんの一瞬だけ緊張に染まった。
「なぁ……あれ、普通の剣じゃないよな?」
誰もが気づいている。
この炎は、何かが違う。
冥界の静けさの中で、その異質な輝きは“神話の断片”が今も生きている証拠だった。
それでも皆、もう少しだけ炎に手を翳していた。
「ぬくい」「ありがてぇ」「まだ半分死んでる」「心の霜焼けも溶ける気がする」
それぞれの言葉が、燃える剣の周囲に渦巻く。
“炎の間”には誰もが忘れていた「生きている実感」が、ただひっそりと灯っていた。
炎の間。
部屋の片隅には、まだ冷えきったギャラリーたちが、肩を寄せ合い、手を暖炉に向けていた。
薄く甘い香りの湯気が漂い、侍女たちが静かに茶器を配っていく。
だが、その温もりは、ヘルの一言で一変した。
「私は冥界の女王、それは事実。けれど……冥界全てを見渡せる訳じゃないのよ」
氷の玉座の影をまといながら、ヘルは紅茶のカップにそっと唇を寄せる。
その指先さえ、どこか霧の向こうのように冷たく美しい。
「近頃、下層……境の層のさらに下。そこから、禍々しい“ゆらぎ”が感じられる」
言葉の端々が、空間を少しずつ凍らせていく。
「私より“上位の存在”――女神の格を持つ“何か”が目覚めようとしているの」
「そしてその“呼び声”に、貴方の友――イザナギは、応えてしまったのかもしれない」
レイスが眉をしかめた。
「なぁ女王様ぁ……その“上位の存在”っての」
一拍、炎がぱちりと音を立てる。
「伊弉冉(イザナミ)って名前じゃないか?」
まるで冥界そのものが一瞬で“氷点”へと落ち込んだ。
茶器を持っていた侍女の手が震え、カップがかすかに鳴る。
他の侍女たちも、「きゃっ……」「その名を……!」と低くざわめき。
数名はそっと背を向け、静かに退室していく。
だが、ヘルだけは、ただ微笑んだまま。
一口すする仕草も崩れないまま、氷の女王は冷ややかに言った。
「……よく知ってるわね、生者にしちゃ博識じゃない」
「そう。冥府の母にして、終焉を司る“本当の神”」
残った侍女の一人が、震える声で囁いた。
「……昔……冥界の底よりさらに深くに、“死そのもの”が眠ると、聞いたことがあります」
「それが“あの御方”……伊弉冉」
その声は“火の間”全体に小さく波紋を広げ、沈黙を置き土産に残す。
無愛想な男使用人が、不意に口を開く。
「……客人、あまりその名を呼ぶことは……」
レイスが「ん?」と顔を向けると、彼は深く息を吐いてから続けた。
「……黙示録の四騎士、ご存知ですか?」
「支配・戦争・飢餓――そして“死の騎士”。」
「“死の騎士”の本体こそ、“伊弉冉”だと申す者もいるのです」
侍女がさらに怯えた様子で付け加える。
「誰かが言ってました……“あれ”は、伊弉冉様が“生者に理解できる姿”で出てきたのだと……」
ヘルは微笑みを消さず、静かに言った。
「“私たち”すら――その足音に耳を塞ぐ。あれは“訪れる者”ではない、“迎えに来る者”よ」
レイスはひきつった顔で首を振る。
「なあ、ちょっと待てよ。これ、やばくねぇ!?」
場の空気が、もう一段冷え込む。
レイスは、火を見つめながら肩を落とし、呻くように言った。
「ていうかさ……イザナギ……坊ちゃん、左腕だけ伊弉冉って――」
「マジで、何がどうなってそうなんだよ……」
暖炉の火は赤々と燃えているのに、心の芯まで冷える気がした。
ハオがそっと隣に座り、皿に載せたクッキーを差し出す。「……クッキーあるヨ」
「……うん……」
レイスはもそっと受け取り、ぼそぼそ食べ始めたが――。
味は、しない。ただの粉の感触だけが、現実感を繋ぎ止めていた。
冥界最下層。
神話の古傷。
“伊弉諾命”が黄泉平坂から逃げた際、伊弉冉の腕を切り落とした。
その左腕の断面から“人”が生まれた。
それが――あの少年。
プルトは目を細めて告げる。
「……神々の再構築、というやつです」
「御霊(みたま)の分離と転生。
──もしかすると、イザナギ坊ちゃんは、“伊弉冉の因子そのもの”を宿しているのかもしれません」
レイスは力なく呟く。
「じゃあ……今、あいつの中に“本体”が戻ろうとしてるのか……?」
“伊弉冉の欠片”として生まれた“再生神”
今の異変は、“本体が自分を回収しようとしてる”状態。
だから冥界で共鳴している、精神が崩れていっている。
レイスの胸の奥で、重苦しい何かが沈んだまま、溶けることなく冷たく漂う。
「俺が“坊ちゃん”坊ちゃん言ってるあいつがよ……。
もしかして“冥府の母”の抜け殻みてぇなもんだったら。
“取り返しつかねぇこと”なんじゃねぇか、これ……」
暖炉の炎だけが、誰にも届かない生温さで揺れていた。
冥界の女王と客人たちの前で。
“伊弉冉”という名が投げ込まれたあとの空気は、ぴんと張り詰めている。
燃える剣の影が壁を揺らし、紅茶の湯気すら場違いな生の匂いを帯びて浮かんでいた。
カリストは静かに、だが鋭い視線でヘルを見つめる。
「……ヘル殿は、受容されていますか?その御方の目覚めを」
ヘルの答えは短く、しかし痛いほど率直だった。
「いいえ」
ほんの一瞬、カリストが驚いたように目を見開く。
その顔に“将”としての仮面はなかった。
「……え?これは、意外……ですね」
ヘルはカップを置き、瞳だけで語る。
「冥界の輪廻が狂えば、最悪──取り返しのつかない事態が起きるわ」
ハオが小首を傾げた。
「……具体的には?」
女王は、唇の端を微かに吊り上げて――冗談のような、だが冗談で済まされない台詞を呟く。
「ロメロはお好き?“あれと同じ光景”が起きるわ、世界中でね」
部屋のどこかで、茶器が震えて小さくぶつかり合う音がした。
レイスはソファに深く沈み、魂ごと項垂れたような声を上げた。
「うわあぁぁぁ……」
「ゾンビ映画は大好きだけどよ、リアルで起きるのは勘弁願いたいわ……」
ヨルムンガンドは、ひときわ低い声で呟く。
「……ろめろ……すき……」
レイスは顔を上げずに背もたれにぐったりし、真顔で天井を見つめる。
「ロメロがリアルで起きるのは……勘弁願いたいがよ」
「ロメロが良いのは否定しねぇ。ゾンビの動きがさ……ガチなんだよな。死体って感じがする。」
ヨルは大きくうなずく。
「わかる……」
「ゆっくり……のろくて……でも……とまらない……」
ハオは遠巻きにクッキーの生地を焼きながら、小さなため息をつく。
「ちょっとぉ~真面目な会議中ナノヨ……」
「ていうか、あの演出がすきとか……ふたりとも、“生きる側”のコメントじゃないネ?」
カリストは肩をすくめて苦笑しつつ。
「“リアルで起きるのは勘弁”と断っただけ、レイスはまだ正常です」
「ヨルムンさんは……もう少し社会性を学んでください」
レイスは肩を揺らす。
「でもわかんだよな、あの生きてねぇのにしつこい感じ……」
「俺、そういう奴ら何回も見てきてっから……あれ、マジなんだわ」
ヨルも同意するように、小さくうなずく。
「うん、ろめろ……ほんもの……」
――炎は静かに揺れている。
だが、その奥底に、誰も知らない“死の神”の胎動が、確かに、世界を少しずつ揺るがせていた。
伊弉冉の復活――それは、「死そのもの」の本格的な帰還。
冥界の輪廻が狂い始めるとき、生と死の境界は消え。
世界中に“ロメロ的終末”が始まる。
そんな、神話的ホラーが現実へと染み出していくのだった。