圧倒的な静寂――冥界中層、境の層。
その白き闇に沈む鳥居を、イザナギは立ち尽くしたまま見つめていた。
彼の足取りはおぼつかない。
深い雪がふくらはぎを呑み込み、靴音すら雪霧に溶けて消えていく。
雪の中を歩きながらも、その瞳は焦点を結ばず、ただ遠い夢の底をさまよっている。
まるでこの世界そのものが、彼を過去の亡霊へと引き戻そうとするかのように。
イザナギの呟きは、吹雪の中で細く震える。
「……何で、俺……ここにいんの?」
「キリエのとこ、戻らなきゃ……早く……」
だが、急ぐ足は凍りつき、世界は“記憶の亡霊”のように遠ざかるばかり。
この場所には、名もない“懐かしさ”が満ちていた。
「……けれど……」
「此の地は、懐かしい……見覚えがある」
「誰の記憶だ……違う、俺の記憶か……?」
片目を押さえた手のひらが、白い息を切る。
ぐらりと世界が揺れ、彼の意識はふたたび底なしの雪に溺れかける。
「戻らねば…ならぬ、我が真なる身体へ……」
「黄泉にて眠る、かの人の元へ……」
「かの……我が身を裂きし、我が愛しき……伊弉諾……」
どこかで、氷のきしみと吹雪の音が世界を満たす。
彼の意識は、自身のものなのか、あるいは“もっと古い何か”なのかすら、境目を失いつつあった――。
一方そのころ、冥界上層――ヘルの私室。
氷の玉座のさらに裏手、“密室書庫”の最奥。
ここは女王すら日常的には踏み入れない禁域。
氷の薔薇で飾られた透明な祭壇、そこに安置されているのは――
誰もが「見てはならぬ」と口を噤む“鏡”。
死人でも触れることができない。
ロキでさえ、ヘルの許可なくしては決して近づけぬ。
それは、暴走を防ぐための最終結界。
レイスが息を荒くして駆け込む。
「坊ちゃんは境の層ってとこを通ったんだな!?」
フェンリルは、狼の目で嗅ぎ分けるように頷いた。
「間違いねぇ、匂いが境で消えてる。狼の鼻ナメんなよ?」
「境の層」は、ニヴルヘイムのさらに下に広がる“記憶の亡霊”の世界。
そこは「真実を見通す神鏡」なしには、近づくほどに遠ざかる蜃気楼。
さらに下、最下層・霜土神苑(しもつちしんえん)へと進めるのは限られた存在だけ。
冥界の道は、生きた者にはあまりに遠く、そして険しい。
ヘルは、静かに――だが誇り高く、微笑を浮かべて言った。
「……貸してあげるわ。“鏡”を。
でも、これは返してもらう前提よ。私の“爪より大切なコレクション”なんだから」
彼女の声には、どこか母のような優しさと、冥界の王としての絶対的な威厳が宿っていた。
“氷の薔薇”がきらきらと結晶を落とし。
透明な神鏡が静かに、誰かの「未練」と「罪」とを映すのを待っている。
氷薔薇の結晶が静かに舞う、冥界・女王の私室。
その前室で、ヘルは優雅に手を振ると、淡々とした口調で試練を宣告した。
「試練の内容はごくシンプルよ――“世界の境界”を越える、その資格を証明してもらうわ」
何か厳かな儀式を想像して身構えたレイスたちを、ヘルは飄々とした笑みで見渡す。
「……つまり、“ヨルを抱っこすること”。
世界蛇ヨルムンガンド、その重みを身をもって受け止めなさい」
冥界きっての大試練――まさかの「抱っこチャレンジ」宣言に、空気が完全に固まる。
最初の挑戦者はレイスだった。
なぜか全員が“いけるだろ”と勝手に思っていたが、レイス本人もそのつもりだったらしい。
軽くストレッチしながら。
「まあ、こういうのは勢いだ」と自分に言い聞かせ、ヨルムンガンドの前に立つ。
普段は小柄で可愛げしかない少女――だがその正体は世界を巻く大蛇。
レイスが腰を落として、「よし、任せろ」と手を伸ばす。
ヨルムンガンドが楽しそうに「にーに、だっこー」と満面の笑みで両手を広げた。
その一瞬だけ、場の全員が“ヤバい”という空気を感じた。だが、もう遅い。
レイスがヨルを抱え上げようとした瞬間、肉体が“現象”に飲み込まれた。
体中で何かが異音を立てる。
背骨の奥、筋肉、関節、全てが“自分の限界”を大声で叫んでいる。
彼の顔色は一瞬で真っ青になり。
次の瞬間――床が、というより世界そのものが反転したような衝撃。
全身が氷床に叩きつけられ、腰から悲鳴が上がる。
痛みで目が霞む。そのまま無様な体勢で転がり、数秒間、誰も動けなかった。
レイスは歯を食いしばりながらなんとか首を動かし、目の前のヨルを見上げる。
ヨルは悪びれる様子もなく、小首をかしげていた。
周囲には、不思議と“称賛”すら漂う。
プルトは腕を組んだまま、眉ひとつ動かさず。
「芸術的なひっくり返り方ですね」と淡々と感想を述べ、
ハオは、まるで修行の失敗例を眺める仙人のように「狙ってできる倒れ方じゃないヨ」と小さくつぶやく。
ロキは一人だけ異様なテンションで「うーん、95点!」と手を叩き、
カリストは涼しい顔で「膝のスプリング調整からやり直すべきでしょう」と。
まるで機械の不具合でも見ているように指摘する。
レイスの頭の中には、重力と羞恥と痛みだけが残った。
誰よりも前向きに受け止めてきたはずの“世界の重み”――
まさか物理で押し潰される日が来るとは、思いもしなかった。
ヨルムンガンドの重さ。
それは生半可な「未練」や「執着」では到底持ち上がらない“冥界の質量”だった。
部屋の空気は妙に和やかで、どこか残酷な静寂と笑いが混ざっていた。
ヘルは何事もなかったように「次の方、どうぞ」と微笑む。
レイスは地べたに寝転んだまま、腰をさすりつつ。
“魂が一皮むけたような気がする”――そんな感想を抱いていた。
プルトの挑戦は、まるで己の誇りと物理法則が正面衝突する一幕だった。
氷の薔薇が輝く空間の中、プルトは冷ややかに微笑んでみせる。
「ふふ……この私に不可能など――」
得意の皮肉と自信満々のムード、その一瞬だけは冥界すらも掌握できそうな空気を纏っていた。
だが、ヨルムンガンドが「よろしく」とばかりに身を委ねてきた瞬間、世界が音を変える。
両腕でその体を支えた瞬間、指先から肘、肩、背筋にかけて。
想像を絶する“重み”が、静かに、しかし確実に襲いかかってくる。
プルトの顔から余裕が消える。
「……ッぬ、ぐぅ……」
最初は静かな呻き。だが、重力の猛威は一歩も退かない。
「……あ゙ぁぁぁぁ……重゛い……っ」
氷の床に膝をつき、全身でヨルの質量を抱きかかえる。
「……う、ううううぅ……ぐっ、んん…ぉぉおお……!」
会場がざわつく。
あの無表情暗殺者の、こんな“本気の呻き声”は誰も聞いたことがない。
カリストが、驚愕と敬意を隠さずつぶやいた。
「……あの声は……我らがいた世界でも聞いたことがありません」
レイスは何やら神妙な表情で、両手を合わせる。
「SSRボイス来たな……幻聴じゃねぇ……録れた……!」
フェンリルは腹を抱えて震えている。
「顔芸するくらいムキんなるやつって、いいよなあ……!」
そして――ロキがサッとポケットから妙な装置を取り出し、あっという間に再生音声が流れ始める。
「録った♡ 着信音にする♡」
プルトは膝をついたまま、顔を紅潮させて震えている。
その声は氷の薔薇の間にしっかり記録され、冥界史に“伝説の一瞬”として刻まれることになった。
ヨルムンガンドは嬉しそうにニコニコしながら「次、だれ?」と首を傾げている。
そして、空気の温度はほんの少し上がった気がした。
その重さの分だけ、確かに“生きてる”って感じがしたのだった。
カリストはいつも通り穏やかな微笑を浮かべていた。
氷の間に漂う、どこか高貴な緊張感。彼の軍服の裾が揺れ、足取りも自信に満ちている。
「……見たところ、小柄な少女ではありませんか。造作もな――」
その言葉と同時、そっと抱き上げた――瞬間、彼の膝が悲鳴を上げた。
膝関節が軋むような音とともに、全身に重圧が叩きつけられる。
「うぐおぉぉぉぉぉ!!? おぉいぃぃぃ!? なッ、なんだよこのガキイイイイ!!」
声が裏返り、いつもの優雅さは霧散する。
「重すぎんだろおおお!!俺ァなァ! 昔、戦場で戦車より重い遺体も担いだが、コレはなァ!!!」
その声は――“氷の間”に響き渡る叫びだった。
そしてそれは明らかにカリスト本来の声ではない。
地声。日向大和――かつて人間だった“鬼大尉”のシャウトが漏れ出していた。
ロキはケラケラと笑いながら「重すぎて昔の人格出てるよ♡」と拍手し。
レイスは「おい、誰だ今の。お前じゃねーだろ」と素で突っ込む。
ハオは軽く肩をすくめて「ウケるけど…抱っこどころじゃないネ」と飄々と言い、
プルトは妙な感動すらにじませ。
「今のあなた、普段よりずっと“生きてる顔”してましたよ」と指摘する。
カリストは膝をつきながら、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇ!!」
氷の間に響くその咆哮は“人間だった頃”の熱を取り戻した声だった。
ヨルムンガンドの重さは、ただの物理法則を超えて“心の底”まで到達する。
魂の重さと本性すら暴く――冥界ならではの荒療治だった。