冥界-エーリュ―ズニル編 - 4/5

最後の挑戦者――ハオ。
部屋の空気はもうギャグと物理と呻き声で満ちていたが。
ハオはどこ吹く風と、柔らかな笑みを浮かべてヨルムンガンドの前に立つ。
「はいは~い、じゃあヨルちゃんネ~……ほい♪」
ハオが軽やかに両手を伸ばした瞬間、場の重力法則が一瞬だけ書き換わった気がした。
ヨルムンガンドの体が、不思議なほどすんなりと宙に浮き。
まるでスローモーションのように美しく、そのまま彼の腕の中へ収まる。
ヨルの頬がふわりと緩み、ほんの小さく微笑む。

周囲の空気が止まる。
なんならハオは両手でリズムを取りながら、ヨルをふわっふわと優雅にスイングさせてみせる。
床に転がっていた重傷者二名――プルトは完全に白目をむいて、
「仙狐……あれはもう仙の域……筋力ではない、“術”だ……」
と震え声。
カリストは拳を震わせ、膝を抱えて泣きそうな顔で叫ぶ。
「私だけ何故地獄を見せられたんですか……⁉」

レイスは声を荒げる。
「女王様ァ!!!こういうのはよぉ……“心の試練”とかじゃねぇの!?
“己の罪と向き合え”とか! “恐怖に打ち勝て”とかさ!!」
「試練(物理)じゃねぇか!!!!」
だがヘルは、まったく動じない優雅な笑みを浮かべて応じる。
「ココは冥界よ。“心が重い”かどうかは……“実際に重いものを抱えられるか”で証明するの」

「それに、霊魂って基本軽いでしょう?
だから――重いものが持てないと“生きすぎてる”証拠になるのよ」
「……フフフ。つまり貴方たちはまだ“未練”が多いのね」
ハオは全く気にするそぶりもなく、ヨルを抱っこしたまま踊り続ける。
「そっか~、じゃあヨルはヨルのままで良いネ。ハオの心、もともと浮いてるから~♪」
地面で震えるプルトも、どこか悔しそうな、でも納得したような声でつぶやく。

「……理屈がめちゃくちゃ…でも、妙に納得してしまう…くっ…ッ…!」
ヘルは鏡の前に静かに歩み寄る。
「さて、コレで“鏡の資格”は整ったわ。……“想い”を映すのに、軽い心は不要なのよ」
レイスはまだ腰を押さえつつ、ツッコミを忘れない。
「名言っぽいけど!腰やられてるからね!?今ッ!!」
冥界の試練は、魂も肉体もごっそり削ってくる。
だがその分だけ、確かに“未練”も“重み”も全部、本物として残っていた。

――浄玻璃鏡の間に、静寂が降りた。

ヘルの声は、氷を滑るように澄んでいる。
「先ほどの試練は、浄玻璃鏡を覗く“権利”。……境の層への道が開くかどうかは、貴方の心次第よ」
冥界女王の指先がヴェールをそっと掴む。
それだけで空気が変わった。
あれほど温かかった炎の間の空気が、今は冷たい緊張で満たされる。

レイスは煙草をくわえたまま、眉をしかめてつぶやく。
「つまり、邪心があるって見做されたら開かないってわけだ。……きびしいねぇ」
口調は軽いが、指先がかすかに震えている。
彼にとって“心を覗かれる”というのは、死よりも居心地の悪い行為だった。
隣でハオが両手を腰に当て、柔らかく笑う。
「閻魔様は厳しくないとダメなのよ。温情があると冥界が腐っちゃうモノ」
言葉の調子はいつもと変わらない。だがその声の奥には、ほんの僅かな祈りが滲んでいた。
ヘルは「いかにも」とだけ言い、薄いヴェールを持ち上げた。

――その瞬間。

空間がわずかにきしむ。
鏡の奥から光が漏れ出し、重く閉ざされていた空気が、まるで息を吹き返すように揺らいだ。
レイスが思わず目を見張る。
鏡の向こうには――雪景色が広がっていた。

降りしきる粉雪、倒壊した街並み。
遠くに見えるのは、朽ちたビル群と、沈みかけた太陽。
その中心に、ひときわ鮮やかな朱色の鳥居が立っている。
「……まるで“かつての日本”だな」
レイスの呟きは、誰に向けたものでもなかった。

ハオが鏡の前に歩み寄り、指先を伸ばす。
指先がわずかに触れるたび、雪の気配がこちら側にまで滲み出してくる。
「境の層……記憶と現のあいだ、ってトコね」
ヘルは静かにその様子を見守っていた。
「そこは“生と死のはざま”。踏み込めば、もう戻れないかもしれない。……けれど、それでも行くのね?」
レイスは鏡の中の鳥居を見据える。
目の奥に宿った赤い光は、冥界の炎よりも深く、そして痛いほど静かだった。

「……あぁ、行くさ。たとえ地獄でも、あいつがいるなら」
雪が、鏡の向こうで舞った。
その一片が、まるで誘うようにこちらへと流れ落ちる。
ヴェール越しの光が、冥界の青と混じり合い、静かな夜を照らしていた。

――静まり返った浄玻璃鏡の間に、ヘルの声が落ちる。
その声音はまるで氷を撫でるように静かで、それでいて祝福の響きを帯びていた。
「おめでとう。貴方たちは境の層に入る資格がある、と認められたようよ」
淡い光を放つ鏡の表面が、わずかに脈動する。
氷の間を漂っていた冷気が、まるで息を吹き返したように微かに流れた。

レイスは煙草を口から外し、苦笑交じりに吐息をこぼす。
「はは、それはどうも……やっと“入場券”ってわけか」
だがその笑いはすぐに途切れる。
壁際で腕を組んでいたフェンリルが、唸るように低い声を出した。
「待て。直ぐは行くな。……イザナミってやつ、絶対ヤベェ気配がするぞ」
彼の耳がピクリと動き、冥界の空気を嗅ぎ取る。
「オヤジに話せば、なんかくれんじゃねぇか? あいつ、祭りが好きだからな」
誰もがその“オヤジ”――ムスペルヘイム帰りの悪神――の顔を思い浮かべた。
あの炎の国で“破壊と酒と踊り”をこよなく愛する、災厄そのものの神。
頼れば碌なことにならない。
だが――こういうとき、一番頼りになるのも、決まって“あいつ”だった。
冥界組の誰もが、同時に小さくため息をつく。
それは諦めと覚悟が入り混じった、不思議な呼吸だった。

その沈黙を破ったのは、プルトの声だった。
「そういえば……伊弉冉って、直接見るのは禁忌なのでしたっけ?」
ヘルはわずかに目を細めて、頷く。
「えぇ、そうよ。見た瞬間に“死の構造”を理解してしまう。
生者には、それを受け止める容れ物がないの」
そう言うと、ヘルは氷の台座から何かを取り出した。
それは掌ほどの大きさの鏡――銀の縁取りに、細い鎖が通されている。
光が当たると、まるで息をしているように表面が揺らめいた。

「首から提げられるタイプの鏡をあげるわ。形は小ぶりだけど、効果はこの鏡と同質よ」
プルトは静かにそれを受け取り、胸元に掲げる。
「感謝しますよ、異世界の冥王」
ヘルは、ほんの一瞬だけ楽しげに微笑んだ。
「ふふ。冥王同士、なかよくできそうね」
彼女の笑みは、冷たくも美しかった。
その背後――浄玻璃鏡の奥では、まだ雪が静かに降り続けている。
朱の鳥居の向こうから、誰かが呼んでいるような気配がした。

“黄泉は、もう目を覚ましている。”

レイスが灰を落としながら、肩をすくめた。
「ま、行くしかねぇよな」
その声に応じるように、鏡の中の鳥居が、ゆっくりと――光り始めた。

エーリューズニル、通称“火の間(ひのま)”。
冥界の氷宮の中に、ひとつだけ熱を許された部屋。
炎と酒と神々の胡乱な笑いが混じるこの空間は。
まるで宇宙のどこかにぽっかり開いた「異界のバー」だった。

テーブルの上には、ワインボトルと果実の皿、そして“見てはいけないもの”が無造作に並ぶ。
その奥で、胡散臭さを極めた笑みを浮かべる男。
ロキが、赤い液体をくるくると揺らしていた。
「なあ、ロキ。あんた、“伊弉冉(イザナミ)”って知ってるか?」
レイスが煙を吐きながら訊ねる。
ロキは片目を細め、グラスを傾けた。

「あぁ~? 伊弉冉? 確かぁ、火之迦具土(カグツチ)を産んだ後に死んじゃった、ってヤツでしょ~?」
軽い口調のまま、ワインをくるくる。
炎がそのグラスの中で溶けるように反射する。
「で、その死体が腐って……黄泉になったんだっけ? ヤバいよね~」
「“死そのもの”を神格化しちゃうタイプ。どう足掻いても、生きてる奴に勝ち目ないじゃん」
プルトは冷えた声で言葉を返す。
「つまり、今の私たちでは勝てない――と?」
「うん、普通にムリじゃん?」
ロキはあっけらかんと笑う。
まるで“冥界最終戦争”の話題を、スーパーでの買い物リストでも語るかのように。

しかしその笑いの裏で、彼の視線が棚の奥へと滑る。
ふと思い出したように、ロキは指を鳴らした。
その音に応じて、奥の壁がかすかに唸る。
炎が歪み、闇の奥から“何か”が姿を現した。

「でもさ~困ったねぇ、加具土クンはもういないよ?
でもぉ~? 同じくらい燃えるものなら……あるよ?」
ロキの指先がゆっくりと指し示すその先――
そこには、一本の剣が立て掛けられていた。
いや、“燃えていた”という方が正確だった。
紅蓮の光がゆらゆらと立ち上り、刀身そのものが呼吸している。
熱を発するのではなく、世界の“存在”を焦がすような炎。
刃の輪郭が曖昧に揺れ、見る者の心を焼き尽くしそうな美しさを放っていた。

《レーヴァティン》――禁断の神剣。
炎と災厄を宿し、古の神々ですら封印した“灼滅の刃”。
炎の神スルト、あるいはそれに類する破滅の意志が眠ると伝わる。
剣自体が意思を持ち、不適合者の肉体と魂を区別なく焼き尽くす。

ロキは笑っていた。まるで他人事のように。
「ね? 僕、正直アレ持て余してるんだよねぇ。
使おうとすると部屋ごと燃えるし……てことで、もってっていいよ♪」
「いやいや待て、軽すぎんだろ貸し出し理由ッ!!!」
レイスが即座にツッコむ。
ロキは悪びれることなくグラスを傾けた。
「軽くないよぉ? “貸す”ってことは“返してもらう前提”なんだから」
その口ぶりは、まるで命の貸借も道具の貸し借りも同じことのようだ。

プルトは剣を見つめながら呟く。
「これは……“死を超える炎”。母神の死に拮抗する、神を殺す属性――ですか」
ハオが一歩引いて小さく呟く。
「うぅ~ん、たしかに凄そうだけど、なんかコワイヨ?」
ロキはひらひらと手を振る。
「安心安心。燃えちゃうか燃えないかは“運次第”だし♡」
レイスは額を押さえた。
「最悪じゃねぇか……!」
炎が、誰かの笑いを映すように揺らめいた。
“火の間”の空気は、甘く焦げた果実の匂いと、災厄の気配に満ちていた。