門を抜けた瞬間、世界は白銀に染まった。
地面は凍てついた大理石。
表面に、まるで白薔薇が咲いたような霜が広がっている。
空気は薄く、息をすればすぐに白く変わる。
中央に、一輪の氷の薔薇。
生命の気配などないのに、その花だけはまるで呼吸をしているようだった。
遠くには、氷の城――エーリューズニル。
透明な湖の向こうに、その姿を静かに映している。
風はなく、水面は鏡のように滑らか。
城の青白い灯りが、ひとつも揺れない。
音がなかった。
世界全体が、永遠の一瞬に閉じ込められたように沈黙している。
霜を踏む音だけが、唯一の現実だった。
レイスが肩をすくめて笑う。
「……昔読んだな。トンネル抜けたら雪国だったって小説。
きれいだけど、なぁ……今、夏だぞ?」
ハオがしっぽをゆるく揺らして、目を細める。
「綺麗ネ~……うん、“死の国”って感じするヨ。こういうところで修行してみたいナ。」
レイスが横目で見やる。
「仙人の発想だな……。」
プルトは前を向いたまま、背筋を伸ばして歩いている。
「ニヴルヘイムを生で見るのは初めてです。
冥王の名を預かる者として──ここは見ておきたかった。」
彼女の声は、雪の中でも不思議と澄んでいた。
その言葉の余韻だけが、氷原の上に柔らかく残る。
空は曇りひとつなく、だがどこにも風がない。
“永遠の静寂”という言葉が、これほど似合う場所もないだろう。
レイスは足を止め、湖の向こうを指さした。
「……なあ、あそこ。めっちゃラスダン感ない?」
ハオは素直に頷く。
「間違いナイネ。もし冥府の王様がいるなら……たぶん、アレの中。」
プルトは軽く肩を竦めて、微笑のような息を漏らした。
「……権力者ほど、家は派手にしたがるものです。」
三人の声が氷の大地に消え、再び世界は沈黙を取り戻す。
氷原に沈む夕光が、青白く反射していた。
雪は細かく、風もない。
すべての音が“息をひそめた”ような空気の中で、二人の声だけが響く。
レイスが周囲を見回しながらぼやく。
「……あれ? 氷男は?」
ハオは尻尾を揺らして笑う。
「あれ会話に参加してないネ。カリスト~?」
探すまでもなかった。
少し離れた場所で、カリストは軍帽を外し、静かに雪の景色を眺めていた。
風に髪が揺れ、白い吐息がゆっくりと消えていく。
その横顔は、まるでこの世界の一部だった。
「……ああ、失礼。景色に見入っていました。」
帽子を胸に抱えたまま、穏やかに微笑む。
レイスは片眉を上げて呟く。
「もともと幽霊っぽいもんな、あんた。」
その言葉に、カリストは肩をすくめるだけだった。
雪の中で、彼の笑みだけが確かに“生者のもの”に見えた。
風が吹いた。
永遠に止まっていたはずの空気が、ひとすじだけ流れる。
氷の花びらが、どこからともなく舞い降りてきた。
ひとつ、またひとつと、四人のあいだをゆるやかに漂い。
やがてカリストの差し出した手のひらに落ちる。
その瞬間――音もなく、溶けていった。
けれど、彼らにははっきりとわかった。
それは確かに「言葉のない声」だった。
氷の花弁が消えるとき、ほんの一瞬だけ空気がやわらかくなる。
“ようこそ。”
その声なき挨拶が、世界そのものから届いた気がした。
レイスがゆっくりと煙草をくわえ、乾いた笑いを漏らす。
「……よかったな。出て行けとか言われてないようだぜ」
ハオは小さく手を合わせ、プルトは静かに一礼する。
カリストは微笑を浮かべ、溶けた花の跡をそっと指でなぞった。
氷の国が、彼らを受け入れた。
そして、沈黙の世界にまた静けさが戻った。
氷原を抜けると、急に景色が変わった。
冷気は残るが、空気の色が柔らかい。
屋台の湯気、風に揺れる洗濯物、どこか懐かしい“生活のにおい”がした。
ただし、ここに住むのはみな――“誰かを残して死んだ人”たち。
その穏やかな街並みは、懐かしさと後悔の折り重なった夢のようだった。
霊灯がともる通りを歩きながら、レイスがぼそりとつぶやく。
「なあハオ、冥界の飯って食ったら戻れなくなるって言うじゃん。」
ハオはしっぽを揺らしながら頷く。
「あ~、ヨモツヘグイね。それ、そうダヨ。“一口で終わる命の切符”って言われてるヨ。」
レイスは未練がましく屋台の方を見やる。
「ちぇっ……あの屋台のラーメン、めっちゃうまそうだったのに。」
亡者たちは変わらぬ日々の中で、今日も食事をしている。
プルトが淡々と口を開いた。
「いっそ食べてみてはどうです?“生きてる”というより“概念寄り”ですし。
霊的干渉には慣れてますから、恐らく大丈夫ですよ?」
レイスが呆れたように叫ぶ。
「いやそれ、“人外だからイケる理論”!?“たぶん大丈夫”って一番信用ならねぇやつな!!」
彼は煙草をくわえながらため息をつく。
「戻れなくなったら、お前のせいだぞ、鬼太郎。」
プルトが不思議そうに首をかしげる。
「“鬼太郎”って誰です?」
「お前のヘアスタイルが完全にそれなんだよ!!」
ハオはくすくす笑いながら、屋台から何かを抱えて戻ってきた。
「ハイ、ラーメン持ち帰り頼んだヨ。
ヨモツヘグイでも、“テイクアウト”なら大丈夫、ネ?」
レイスのツッコミが即座に飛ぶ。
「そんなザルルールあるの!?!?」
プルトは小さく笑った。
「“持ち帰りはセーフ”……新説ですね。」
ハオは胸を張る。
「“再加熱”すると“リセットされる”からOKだヨ。」
レイスは頭を抱える。
「電子レンジ、魂まで加熱してんのかよ!!」
――そんな冗談を交わしながらも、街の空気はどこか寂しかった。
子供の霊が通りを駆け抜け、「おかあさん、今日は来ないのかな……」と呟く。
郵便ポストには、届けられることのない手紙が山のように詰まっている。
やがてプルトが、古びた亡者名簿を手に取った。
「……すみません。エレボス・スキアという人物はいませんか?」
受付の霊が、ゆっくりと首を横に振る。
「その名前の記録は……ありませんね。」
「……そう、ですか。お手数おかけしました。」
プルトは礼を述べると、しばらく黙ってその場に立ち尽くした。
少し離れた場所で、レイスが腕を組みながら歩み寄る。
「……なんだ、お前も“親父に会いたい”って気持ち、あるんだな。」
プルトは視線を向けず、静かに答えた。
「……さあ。ただ、“いたかもしれない”場所に来て、
“いない”ってわかるだけでも、何か……納得できる気がして。」
そして、少しだけ声を落とす。
「……貴方こそ。アンフィスがいないか、探していたのでしょう?」
レイスは舌打ちをひとつ。
「──ちっ、余計な詮索を。」
だが、それ以上は否定しなかった。
街の灯りが、氷に反射して揺れていた。
亡者たちの暮らしは穏やかで、どこか幸福ですらあった。
それでも、彼らの誰もが“もう一度会いたい誰か”を心に抱えている。
――それが、ニヴルヘイムという街の姿だった。
冥界の街角。
今となっては珍しい、金属の鈍い音を立てる黒電話が鳴り響く。
その受話器を握りしめ、青ざめた顔の役人が叫んでいた。
制服の肩章には「獄卒局」と刻まれている。
「……あっ、あのッ! 無間の第十三獄で──
“ロン毛の亡者”が、延々と説法をッ!!止まらないんです!!!」
電話の向こうからも混乱した声が返ってくる。
「何時間だ!?」「もう二日目です!!」
「獄卒が耐えられず、三人ほど自己申告で昇天しましたッ!!!」
地獄の報告とは思えない悲鳴だった。
プルトは受話器を受け取り、静かにため息をつく。
「……あぁ、獄卒さん。父上に楯突くとは。」
「相手が悪すぎましたね、哀れな……可哀想に……」
声には哀れみがこもっていたが、目は一ミリも同情していなかった。
レイスは口を引きつらせて笑う。
「いやマジで可哀想だよな!?地獄でも説法してるとか……ホンモノだな。」
プルトはわずかに口角を上げ、合掌する。
「ふふ……せめて、句を送らせてくださいね。」
そして突然、謎の抑揚で唱え始めた。
「阿那八娃灌娩(あなやぁ~ば~んじょ~うかいまぁぁぁん)」
節付きで、語尾がどこか楽しそうだった。
ハオはお茶を吹き出しながらツッコむ。
「……和訳ないなりにも、絶対バカにしてるって伝わっタヨ。」
レイスも肩を震わせながら笑う。
「字面からしてウソ宗派っぽいもんな。」
カリストが静かに帽子を直しながら呟く。
「……私より腹黒い。」
遠く、無間地獄の空がわずかに明滅する。
その光の中で、誰かがまだ語っている声が響いた。
「汝、怒るなかれ。苦を抱け。己を捨てよ……」
そして、またひとりの獄卒が天へ昇っていった。
曇天の下、冥界にも“風”があった。
灰色の雲がゆっくりと動き、亡者たちの子供が凧を揚げている。
空の色は薄い硝子のようで、音はほとんどない。
ただ、凧の糸が擦れる音だけが小さく響いていた。
その様子を眺めながら、レイスがふとつぶやく。
「なぁ……俺らって、ちっとも言われないよな? “生きてるやつが冥界に来るな”って。」
ハオは笑って肩を竦める。
「フフ、言われたことないネ〜。多分“来ちゃいけない生者”じゃないからダヨ。」
彼女は指先で凧の影をなぞりながら、少しだけ遠くを見つめて続けた。
「まずハオ──尸解仙(しかいせん)。
カンタンに言えば“不死身”ネ。
肉体は生きてるけど、魂は……もう、あっちと半分コヨ。」
カリストが静かに頷く。
「私は魔王軍六将。一度死んで、悪魔として生まれ変わりました。
……人の頃の名は──日向大和。」
その名を口にした瞬間、空の色が少しだけ淡くなった。
彼の声が、まるで氷に閉じ込められた記憶のように響く。
プルトは両手を後ろに組み、風のない空を見上げた。
「私も魔王軍六将。“死を受け入れた魂”と契約している者にとって、冥界は“もう一つの陣地”。」
「……それに。私の場合は──」
風が止まる。
雲間から、一筋の白い光が差し込んだ。
「母の“死体”から生まれた、というのが大きいのでしょうね。
冥府より還ったから、プルート。
──父上はそう名付けられました。“冥王”の名です。」
ハオは少しだけ目を細める。
「……じゃあ、今のハオたち、“どっちの世界にも完全には属してない”んだネ。」
レイスは灰を払うように手を振って、微笑した。
「……それ、案外、居心地いいのかもな。」
空の高みで、凧がゆっくりと揺れる。
だが風はもう吹かない。
糸がたるみ、凧はゆっくりと地面に降りていく。
亡者の子供がそれを見つめて、小さく呟いた。
「ねぇ、おにいちゃんたち……風が、もう来ないみたいだよ。」
四人の誰も、その言葉に答えられなかった。
ただ、曇天の空が深く沈み、冥界の“夏”が一段と冷たくなった。