冥界-ニヴルヘイム編 - 3/5

灰の空がゆっくりと明るくなっていく。
戦いの余韻を抱いた冥界公園に、風が戻ってきた。
子供たちの霊が笑いながら凧を掲げ、空の高みへ糸を伸ばしていく。
ハオはその光景を見上げながら、手を合わせて目を細めた。
「あ~よかった、また凧揚げできるヨ。
……えーと、ハオ達は今“半分生きていて、半分死んでる”ってことになるネ。
冥界に馴染んじゃってるけど、ワケあってやってきたノヨ。」

フェンリルは笑いながら肩を回し、まだ冷え切らない鎖を担ぎ直した。
「半分死んでる? なんだ、俺の妹みたいなもんか。」
レイスが眉を上げる。
「……妹いんの!?」
フェンリルは親指を立てて、公園の奥を指した。
遠くに見える巨大建造物。氷と大理石で組まれた荘厳な宮殿。
その屋根に反射する光は、まるで白い太陽のように冷たかった。
「ヘル。向こうに見えるだろ、あの“ヘルハウス”。あそこのヌシだ。」
レイスは吹き出した。
「ヘルハウス!? 待て待て、荘厳な階段と大理石の柱と金の門ついてて、それで“ハウス”!?
あれ、ラスボス邸じゃなくて“おうち”なの!?」

プルトは静かに凧の行方を見上げながら言う。
「“妹”とはいえ、だいぶ力関係は妹の方が上のように見えましたが。」
風が流れ、凧が高く昇る。
空の奥から差し込む光が、ほんの一瞬だけ公園を照らした。
レイスはその光の中で、ふと真顔になる。
「……俺の友達に“イザナギ”ってのがいるんだけどさ。」
フェンリルが首を傾げる。
「イザナギ?」
「あぁ。なんか昔の神話に出てきそうな名前してるだろ。
毎年お盆になると“様子がおかしくなる”んだよ。
今年は特にひでぇらしくて……ちょっと様子を見ようと追いかけてたら、
冥界まで来ちまったってわけだ。」

フェンリルの表情から、一瞬で笑みが消えた。
「……マジかよ。イザナギって言うの? そのソイツ??」
レイスは小さく頷く。
「そうだ。あいつ、最近“声が違う”って言われてる。」
フェンリルは低く唸った。
「…………くっそ、そういうことか!!」
鎖が地面に落ち、氷を砕く音が響く。
「最近ヘル、めちゃくちゃ渋い顔してたんだよ。
何を聞いても“問題ないわ”って言ってたけど……アレ、多分ソレだわ。」

ハオが静かに口を挟む。
「まさに“危険な黙秘”ネ。」
レイスが目を細め、息を吐く。
「ってことは、イザナギの様子がおかしい原因……冥界に、あるってことか?」
フェンリルは深く頷いた。
「ああ。多分な。」
雪がふっと舞い上がり、風に乗って空へ消えていく。
それはまるで、冥界そのものが“答えを知っている”かのようだった。
遠く塔の上で、白い光がわずかに脈動した。

灰の空の下、風が再び冥界の街を撫でていく。
凧の糸が鳴り、氷上を渡る音が小さく続く。
戦いの跡地に残った雪煙の中で、フェンリルが勢いよく鎖を肩に担ぎ上げた。
「よっしゃ、お前ら行くぜ! ヘルなら今ごろ展覧会やってるはずだ!」
レイスがあきれたように片眉を上げる。
「……お前、なんかテンション上がってね?」
フェンリルはにっと笑い、白い息を吐いた。
「まァな。うちの家系、“ろくでもねぇことが起きてる時”に限って──
“なんか楽しそう”って言われるタイプなんだわ。」

ハオはけらけらと笑い、手を合わせて目を細めた。
「あはは~! ぶっそうなファミリーネ~。
平時でもヤバイのに、有事で活き活きするのネ?」
雪が風に舞い上がる中、フェンリルは勢いよく振り向いた。
「おう、そうだな。名乗ってなかったな。俺はフェンリルだ!」
その瞬間、空気が少しだけ張り詰める。
プルトが目を細め、ゆっくりと口を開く。
「“フェンリル”という名前で、父親が何者か見当がつきました。」
静かに息を吸い、ひと呼吸おいて言葉を続ける。
「ああ、それは確かに。血筋かもしれませんね。」

レイスの顔が一気に固まる。
「ちょ、ちょっと待て?え、フェンリルって……!?じゃあ“お父さん”って──」
フェンリルは気怠そうに手をひらひら振る。
「うん、アレ。ほら、世界終わらせる予定だったヤツ。」
レイスのツッコミが氷原に響いた。
「軽いなおいッッ!!!」
フェンリルは豪快に笑いながら歩き出す。
雪の上を、まるで地上を歩くように軽やかに。
レイスがため息をつき、ハオが後ろで笑い、プルトが無言で歩調を合わせる。
四人の影が長く伸び、遠くの“ヘルハウス”へと続いていく。
空の凧が揺れ、まるでその行く末を見送るように、冥界の風がゆるやかに流れた。

氷の城の中は、想像していた地獄の宮殿とはまるで違っていた。
冷気が漂うはずの空間に、ほのかな香が流れている。
外観の荘厳さとは裏腹に、内部には絨毯と書棚、花瓶、燭台が並び、
まるで古い貴族の屋敷のような温もりがあった。

フェンリルはその中を、慣れた足取りで歩く。
赤い絨毯が彼の重いブーツを吸い込み、音を立てない。
迷いも遠慮もなく、まっすぐと奥の広間へ向かう。
「ヘル!客だぞ!」
天井まで届く高窓から差し込む光が、薄く揺れた。
その中心で、青いドレスの女が振り向く。
白い髪に、血のような赤をひと筋差した女。
その瞳は、底知れない静けさを宿していた。

「……知っているわ、兄さん。」
声は冷たいのに、どこか懐かしい柔らかさを含んでいる。
「もう少し待って。葬花展覧会の品評をしているの。」
フェンリルは肩をすくめた。
「あ~、芸術スイッチ入ってるな。妹。
品評会終わるまで本題は話せないぞ、こりゃ。」

レイスは周囲を見渡しながら呟く。
「葬花展覧会……冥界らしい文化だな。」
プルトは一歩進み、静かに尋ねた。
「見学してもよろしいですか?」
ヘルは軽く頷いた。
「どうぞ。見学料は要らないわ。」

重厚な扉の奥には、白い光が満ちていた。
そこは“死”を主題にした、美しい花の展覧会だった。
ガラスのケースに並ぶ作品はどれも、咲くためではなく。
散るためにデザインされたような儚さを帯びている。
白百合、黒薔薇、氷菊――どの花もどこか「永遠の一瞬」を閉じ込めていた。
その中で、プルトの足が止まる。

作品名『裏切り者』。
12本の薔薇が、真ん中に置かれた一輪の白百合を囲っていた。
だが、そのうちの1本だけが、群れを避けるように背を向けている。

プルトは手を胸に当て、ゆっくりと微笑む。
「これは……いいですね、花でユダを表現するとは」
彼女の声は、氷の花園に吸い込まれるように消えた。
静寂の展示室に、花の色だけが語りかけてくる。
冷たい空気の中で、白百合と薔薇の輪が、まるで生と死の境界線のように浮かび上がっていた。
レイスが、隣の黒衣の女を横目に見て小さく息を吐く。

「気に入ったみたいだな、教祖様」
「ユダ、好きなのかい?」
プルトは花に視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「嫌いになれないんですよ、彼」
その声は展示室の空気に吸い込まれていくように柔らかい。
「自分は本当に愛されているのだろうか、と不安になる脆さ。
とても……人間らしいと思いませんか?」
彼女の言葉に、白い光が百合の花弁を透かして揺れた。
その光はまるで、誰かの涙を模しているようにも見えた。
ヘルは遠くの展示台の影から歩み出て、二人の背後に立った。
その金の瞳には、哀しみとも諦念ともつかない温度が宿っていた。

「裏切りは必ずしも罪にならないわ」
彼女の指が、ガラスの縁をなぞる。
「愛を疑うというのは、とても──生々しい想いね」
その言葉に、プルトはわずかに目を伏せた。
フェンリルが頭をかきながら苦笑する。
「芸術スイッチ入ってるときの妹、やっぱ怖ぇな……。」
レイスが肩をすくめる。

「ラスボスの城で花展覧会見せられるとは思わなかったぜ。」
氷の宮殿の中に、しばし穏やかな沈黙が流れた。
その静けさは、冥界に咲く花々の香りのように。
ゆっくりと、心の奥まで沁みていった。
静まり返った展覧室に、氷がきしむような拍手が響いた。
評論家の亡者が、掌をすり合わせながら感嘆の息を漏らす。

「女王。今年は特に……力作揃いですね」
ヘルはゆるやかに振り向いた。
その姿はまるで雪の中に立つ彫像。
スミレ色の瞳が、展示された花々を一つひとつ、慈しむように見つめていた。

「……あの災害から三百年」
「節目というのも大きいわ」
彼女は視線を少し落とし、静かに続ける。
「もうひとつは、“あいつ”の審美眼だけは遺伝だったみたいね」
レイスが小さく眉を上げる。
「あいつ、って……お前ら兄妹の“父親”ってやつか?」

ヘルの口角が、わずかに動いた。
それは笑みとも、呪詛ともつかない表情。
「……そう。芸術を理解するには、世界を一度壊す必要があると信じていた人」
場の空気が凍る。
遠くで氷の花びらが崩れ落ちる音がした。

カリストが、静かに帽子のつばに指を添えた。
「……品評、終わったようですよ」
ヘルは小さく頷き。
「では、次の客人の審美を──見せてもらいましょう」
とだけ言った。

その瞬間、展示室の明かりがわずかに揺らぎ、
花々がまるで呼吸を始めるように光を帯びた。