空気が、一気に張りつめた。
展示室の花々が息を潜め、白光だけが残る。
亡者の執事が静かに椅子を引くと、ヘルはそのまま腰を下ろした。
脚を組み、指先で空をなぞるように手を差し出す。
「まずは手を見せなさいな。」
声は穏やかだが、刃のように鋭かった。
「私は“爪”で人を判断するのよ。」
レイスが一瞬だけ眉をひそめる。
けれど逆らう気も起きず、言われるままに手を差し出した。
ヘルの視線が、彼の手をなぞる。
「激情を押し隠す反抗の爪ね。」
「一見、整っているようで……節が堅い。拳を握る癖があるわ。」
指先がわずかに触れる。氷のように冷たい。
「その爪、何かを握り潰す衝動を必死に押し殺している──」
レイスは苦笑して、手を引いた。
「……全部バレるのかよ、これ。」
ヘルの口元に、ほんのわずかに笑みが浮かぶ。
「隠すのが下手なだけよ。」
次に差し出されたのは、ハオの手だった。
柔らかい光に照らされ、丸く整えられた爪が光る。
「料理人の慈愛と修羅場の刃。」
「清潔で、美しい手ね。けれど……」
ヘルの指が、火傷の痕をなぞる。
「過去に火傷しても、同じ場所でまた傷をつけている。
何かをやめる気がない手。いい手だわ。」
ハオは軽く笑う。
「ふふ~、ハオね、おいしいの作るの好きネ。
命に近い場所で、生きるって何か覚えるノヨ。」
ヘルは微笑み返した。
「その“覚える”を繰り返せる者だけが、生を引きずるのよ。」
最後にプルトが一歩前に出る。
ヘルが差し出した手に、ためらいながら自分の手を重ねた。
白く整った指先。だが──ヘルの瞳が、微かに愉悦の色を帯びる。
「噛み跡があるわね。」
プルトの表情が一瞬で固まった。
「冷たい仮面の下にあるのは、癇癪持ちの娘ってところね。」
「は、判断が雑すぎませんか?」
「雑じゃないわ。物理的よ。噛んでるもの。」
「っ……!」
ヘルは静かに微笑み、指を離す。
「いい手をしているわ。
怒りを覚えても、誰かを殴るより先に自分を噛む──
それは、まだ人間の領域にいる証よ。」
プルトは何も言わず、目を逸らした。
背後で、レイスが吹き出すのを堪えている。
ハオは小さく拍手をした。
ヘルは立ち上がり、再び全員を見渡す。
その姿はまるで、魂そのものを審査しているようだった。
「爪は、嘘をつかない。美しいかどうかは、傷の跡が教えてくれるのよ。」
ヘルは立ち上がったまま、最後のひとり――カリストに視線を向けた。
「では、あなたも。見せてくださる?」
カリストは、どこか観念したように手袋を外した。
滑らかな指先が露わになる。
爪は完璧なまでに整えられ、磨き上げられた硝子のように光っていた。
白く、清潔で、形も理想的。
まるで“見られること”を前提に作られた手。
ヘルの瞳が、わずかに笑みを帯びる。
「……ええ、見事ね。誰に見られても恥じない爪。」
「でも、それがもう“人に見せるため”のものになっている。」
カリストの微笑は、動かない。
けれど、まつげの影が一瞬だけ震えた。
ヘルは続ける。
「あなたの爪は、美しさのために研がれている。
けれど、その奥には“苛立ち”があるわ。」
「……誰かの心が自分に向かないことに、
無意識のうちに爪を立てている。」
沈黙が落ちた。
その静けさは、氷よりも冷たい。
ヘルはゆっくりと息を吐く。
「愛されたい者の手は、往々にして完璧ね。
でも、“求める”ばかりでは、いつか血を流すわ。」
カリストの表情が、ほんの一瞬だけ揺れる。
けれどすぐに、いつもの涼やかな笑みが戻った。
「……手厳しいですね、女王陛下。でも――その通りです。」
彼は帽子のつばを軽く指で押さえ、
まるで舞台の幕が下りたあとのように一礼した。
レイスがぽつりと呟いた。
「爪の話してるだけなのに、魂まで丸裸にされてる気分だな……」
空気が再び、氷のように静まり返った。
花々の香が薄れ、かわりに深い水の匂いが漂ってくる。
ヘルは席に戻らず、ゆっくりと彼らを見回した。
「爪を通して、訪れた経緯を見せてもらったわ。」
声は穏やかで、しかし明確に“見えている者”の響きを持っていた。
「今のところ──あの子が穏やかな間は、貴方たちの世界は無事でいられる。」
プルトがわずかに眉をひそめる。
「あの子?」
ヘルは答えず、代わりに指先をすっと横へ向けた。
氷の壁が透きとおり、奥に広がる水の庭が姿を現す。
静かな湖のような水面の上、
銀糸の髪を持つ小柄な少女が、まるで無重力の中にいるようにぷかぷかと浮かんでいた。
その寝顔はあまりにも無垢で。
同時に空気が波打つような不思議な静けさをまとっていた。
「ヨルムン・ガンド。」
ヘルの声は、まるで祈りをなぞるように低く響く。
「彼岸と此岸の間を取り巻く境界。世界蛇。」
少女の周囲で、光の筋がゆらめいた。
まるで水そのものが彼女を抱きしめているように。
ヘルは少しだけ表情をやわらげる。
「ちょっと口下手だけど、かわいい末っ子よ。」
その言葉に、フェンリルが鼻を鳴らした。
「妹の話する時だけ声が柔らかくなるな、姉貴。」
ヘルは小さく肩をすくめる。
「当然よ。あの子は“境界”そのもの。彼女が眠る限り、世界は保たれる。」
レイスが息をのむ。
「……もし起きたら?」
ヘルは静かに答えた。
「──世界の片側が、夢に沈むわ。」
水の庭は、まるで呼吸しているかのように微かに波打っていた。
眠る少女の周囲を、光の粒がゆらゆらと舞い。
氷と水の境界が曖昧なまま、静かな世界を形作っている。
レイスが一歩、二歩と近づく。
その靴音さえも、水面に溶けるように吸い込まれた。
少女――ヨルムンガンドが、わずかに目を開く。
その瞳は深い湖の底のように青く、眠気と無垢を混ぜた光を湛えていた。
「あ、うぅ……」
声はかすれて、まだ夢の中にいるようだ。
「だれ……おきゃくさん?」
ヘルが少し驚いたように眉を上げた。
「そう。お客様よ。」
「珍しいわ。この子が起きるなんて。」
レイスは少し頭を掻きながら、苦笑を浮かべた。
「……俺が蛇だから、か?」
ヘルはゆっくりと頷いた。
「……かもね。」
「蛇というのは、同族には敏感なの。
ましてやあなた――レヴィアタンの血を継ぐ者なら、
この子にとっては“大先輩”みたいなものよ。」
レイスは目を細めて、浮かぶ少女を見た。
「……そりゃあ、起こしちまったわけだ。」
ヨルムンガンドは小さくあくびをして、眠たげにレイスを見つめる。
「おきゃくさん……“せかいのにおい”がする……」
ヘルが小さく微笑んだ。
「それが生者の匂いよ。珍しいでしょ?」
「……あったかい。」
少女の声が、夢の中へ沈むように途切れていく。
レイスは少し俯き、ぽつりと呟いた。
「……悪いな、起こすつもりはなかった。」
ヘルはゆるやかに首を振った。
「いいの。この子は、あなたみたいな“蛇”を嫌わない。」
「同じ“世界を抱く者”だから。」
再び静寂が降りる。
ヨルムンガンドはもう一度深く眠りにつき、光の輪が静かに波紋を描いた。
プルトが小さく息を漏らす。
「……この子が本当に、世界の境界」
ヘルは微笑みを深くして、低く囁いた。
「ええ。この子が目を覚ますときは、“世界が眠る”ときなのよ。」
広間の温度が、目に見えて下がった。
壁面の氷柱が細かく鳴り、空気が薄くなる。
ヘルが目を細めた瞬間、冥界の空そのものが凍りついたようだった。
フェンリルが大声を上げる。
「なぁヘル! このカリなんとかってやつ、ものすげぇ氷使いだぞ!」
その無邪気さは、まるで子供が喧嘩をけしかける時のそれだった。
ヘルは振り返らず、指先で白い薔薇を弾いた。
「氷は威力ではないわ、兄さん。美しさよ。」
その一言に、カリストの唇がわずかに動いた。
「美しさ、ですか……」
静かな声。だが、背筋の奥に氷の音が走る。
「では、私。いい勝負ができるかもしれませんよ。」
プルトがわずかに眉を上げ、ため息をつく。
「美しい物同士のマウント取りは、どこの世界も一緒ですね……」
レイスが隣で顔をしかめた。
「ていうか、“氷美対決”って何を競うんです? トピアリーをより速くできるか……とかです?」
ヘルはすっと視線を彼に向け、微笑む。
その笑みが、まるで冷気そのものだった。
「近いわ。でも、私たちの勝負はもっと──高度なものよ。」
そして彼女は指先を掲げ、空に浮かぶ霜の粒をひとつ摘んだ。
「氷の“透明度”、崩れる瞬間の“美しい破壊”、
再結晶の速度、そして──演出における気品。」
氷片が彼女の周囲で踊る。
「その全てを競い合う──まさに氷の華の美学。」
プルトはすっと視線を逸らした。
「……半分も聞いてないんで勝手にしゃべっててください。」
ハオは笑いを噛み殺しながら、湯気の立つカップを持ち上げる。
「この温度でまだお茶が冷めないハオ、ある意味一番強いヨ。」
レイスは苦い顔で腕を組み、ぼそりと呟いた。
「ツレぇなぁこの場……でも、ちょっと気になるのが悔しいんだよな。」
フェンリルが満足げに腕を組み、豪快に笑う。
「よーし! じゃあ決まりだ! “氷の女王”と“氷の軍人”のホコタテ勝負!!」
その瞬間、カリストとヘルの視線が交差する。
冥界の空気が一瞬で張り詰め、氷の花弁がゆっくりと宙に浮かび上がった。
冷たく、そして美しい戦いが始まろうとしていた。