魔界の怠惰界にある格安アパート・シャドウヒル荘。
家賃は安いが、天井の配管から定期的にスライムが落ちる。
それでもポータルまで徒歩五分という好立地のため、勇者ズの拠点として重宝されていた。
その朝、サタヌスは寝癖も直さず出かけた。
理由は単純──「朝メシの野菜が切れた」。
「うっし、今日も市場で仕入れっと。オレ、朝は火山トマト派だからな」
「……わざわざ人間界まで野菜を?」
青い神官服を着たメルクリウスが眼鏡を押し上げ、眉をひそめた。
「ジオ・ミハル産の“マグマキャベツ”だぞ? あれ炒めると爆ぜてうまいんだって」
「君、それ一歩間違えたら爆発だからね」
「爆発してもうまけりゃいいだろ。命の調味料ってやつだ」
「……君の食生活、死神も匙を投げるよ」
彼らが降り立ったのは、旧・新宿駅──いまやアンダーワールド・ステーション。
地上は崩れ落ち、地下だけが生き延びた。
鉄骨と市場が融合したこの迷宮都市には、乾いた油と獣脂の匂いが満ちている。
ホームには干し肉、ゾンビ魚、火山野菜。
誰も時刻表を気にしない、終末の地下街だ。
蒸気が噴き出す天井の下で、売り子たちの声が交錯する。
「フジ地鶏がお買い得よぉ~♡ 何もつけなくても美味しいから一度は試食してね~♡」
妖艶なサキュバスの売り子が、焼き立ての串をサタヌスの鼻先に差し出した。
「うっわ、うまそう! 一個くれ!」
「試食ならタダよ、坊や♡」
「やった!」
「……それ、“催淫香”入ってないか?」とメルクリウスが小声で言う。
「香辛料のことだろ? うまいぞ」
「……脳まで溶けている」
隣の屋台では獣人の青年が元気に声を張り上げる。
「保存食ならルートナギサの鯖缶がおすすめ! 潮騒の香りが違う!」
サタヌスが片手で缶をキャッチしてニヤリと笑う。
「おっ、缶が冷てぇ。こりゃ上物だな」
「水魔法で冷やしてるだけだよ」
「いいじゃん、“生きてる味”がすんだよ」
通りの奥、半壊した電光掲示板がまだ赤く点滅していた。
【新宿 ⇔ 冥界直通】
それはもう動かない列車の、ただの飾りだった。
しかし、今を生きる者にとっては、まだ“生活の匂い”が残る灯りでもある。
メルクリウスは、そんな光景を一瞥してから、ふと眉を寄せた。
「……サタヌス、斧の刃が欠けているよ」
「うるせぇな、今は野菜買いに来ただけだっつの」
「……そうだね。あとで僕にしっかり見せて」
それでもメルクリウスの声音は穏やかだった。
説教というより祈りのように、ゆっくりとしたリズムで響く。
終末の駅に、どこか懐かしい“日常”の気配が戻っていた。
アンダーワールド・ステーション近くの廃ホーム。
整備用の灯りがちらつき、古びた鉄骨の影が壁を這っていた。
湿った空気の中、メルクリウスはベンチに腰掛け、サタヌスの斧を膝に置いている。
「君……またアダマスを放りっぱなしにしてたね」
水色の髪が光を反射し、冷たい眼差しが刃をなぞる。
「血が乾いてこびりついてる。……これは武器じゃなく“魂汚れ”だよ」
サタヌスは壁にもたれて、気怠そうに笑った。
「いーじゃん別に。殴れて斬れりゃそれで充分だろ?」
「神器はただの“超強い道具”じゃない」
メルクリウスは眼鏡をくいっと押し上げる。
「魂がリンクした。つまり、君自身の一部というべきものだ」
「心を手入れしなければ、刃が曇るのは当然だろう?」
サタヌスは鼻で笑い、足先で砂を蹴った。
「……ガイウスも似たようなこと言ってたな」
「“剣を抜くときは覚悟を研げ”だっけ?ったく、兄貴分ってのはなんでこうウザったいのかねぇ……」
メルクリウスはふっと笑う。
その笑みは、説教よりも柔らかく、しかしどこか遠い。
「ウザったい兄ほど、君みたいな弟が可愛いものさ」
「……魂は刃を映す。忘れないことだ」
その言葉に、サタヌスは何も返さなかった。
灯りがまた一つ、パチンと音を立てて消えた。
買い物を終えた後、メルクリウスは足早にポータルへ戻り。
サタヌスだけが、地下の風に吹かれて取り残された。
人間界は、昔は綺麗だったらしい。
だが今、彼の目の前に広がるのは「死んでいるような生きているような」
奇妙な街──鉄と骨と夢の残骸。
気づけば、ホームの柱にもたれる影があった。
「んあ?」
声を上げたのは、手袋を片手だけにつけた少年──イザナギだった。
「お前、この時間はいつもいねぇだろ」
「いや。盆が近づくとどーにも落ち着かなくてさ」
イザナギはいつも片手に手袋をしている。
奇妙なファッションだと思っていたが、彼は真顔で言う。
「こっちの手が、疼くんだ。……冗談じゃなくてな」
サタヌスは肩をすくめた。
「マジかよ。お祓いでもしてもらえ」
「教会嫌いがそれ言う?」
そんな軽口を交わしながら、二人は地上へ出た。
崩れた階段を登ると、かつて観光客を乗せていた黄色いバスが見える。
今は──ラーメン屋だ。
看板は「運行停止中/現在は飲酒運行中」
鳩肉が入ってる理由はバスの名前にちなんで、だとか。
或いは庭に卵を産む鳩にキレたからだとか諸説ある。
世紀末に鳥獣保護法などないので、後者かもしれない。
二人は笑い、壊れたベンチに腰を下ろした。
湯気の向こうで、廃ビルのネオンが明滅している。
“生と死の境界線”が、ラーメンのスープみたいにぐらぐらと煮えていた。
「なぁ、イザ。俺ら、まだ“生きてる”って言っていいんだよな?」
「生きてるうちは、腹が減る。それで十分だろ」
遠くで、アンダーワールド・ステーションの終電が軋む音が響く。
それはまるで、死者たちの夜を告げる合図のようだった。
黄色い観光バスは、もう走らない。
その代わり、いまは屋根に鍋を載せ、煙突から湯気を吐き出している。
看板にはでかでかと「運行停止中/現在は飲酒運行中」。
その下には、血と油で書かれたようなメニュー表。
「鳩ラーメン」「駆除ギョーザ」「ゾンビ煮込み」「麺、歯応えあり」。
まるで悪ふざけのようで、でもこの街では普通の食事だ。
カウンター代わりのバスの窓際に、サタヌスとイザナギが並んで座る。
外では壊れた街灯が青白く点滅していた。
「えーと、俺は駆除ギョーザと……いつものラーメンで」
イザナギが言うと、屋台の奥で店主が無言で頷いた。
包帯ぐるぐるの腕が器用に鍋を振る。その姿はもはや料理人というより鍛冶職人だ。
「動物愛護もクソもねえな」
サタヌスは苦笑しながら、湯気を吸い込む。鼻の奥を焦げた脂が刺す。
「愛でるために動物飼う余裕なんざないからな」
イザナギが言う。
「例外は犬だ。あいつらは人間より信頼できるって姐さんが言ってた」
「ティア姐?」
「そう。あの人、犬が吠えたら信じるし、黙ったら疑う。……正しい気がする」
鍋がグツグツと煮え、スープの音が夜の静寂を破る。
店主が木杓で麺を掬い、茶色い丼に豪快に注ぐ。
続けて、羽が焦げた鳩の肉片がトッピングされる。
真っ黒な皮の下に、赤黒い肉汁が滴る。
「鳩ラーメン一丁!」
響いた声がどこか陽気で、空気が少しだけあたたかくなる。
サタヌスは丼を受け取り、箸を割った。
スープを一口。……鉄の味がした。
血と焦げと塩、それにほんの少しだけ、生き物の匂い。
「……うめぇじゃん」
イザナギが笑う。
「だろ。ここ、味で死人が生き返るって評判だ」
「……マジでありそうで怖ぇわ」
二人の笑い声が湯気の中に溶ける。
バスの外では風が吹き抜け、ネオンの光がゆらいでいる。
どこか遠くで、誰かが歌っている。
歌か、うめきか、もう区別もつかない。
サタヌスは丼を抱え、しばらく黙ってスープをすすった。
舌に残る血の味が、なぜか懐かしく思えた。
「……なぁイザ。地獄ってのは、案外ぬるいんだな」
「熱いのはスープだけだ」
イザナギは笑い、湯気の向こうで目を細めた。
「でも、まだ食えるうちは生きてる。悪くねぇ夜だろ」
サタヌスは頷いた。
終末のバスの中、二人分の箸の音が響く。
まるで世界の残響みたいに、静かに、優しく。
バス屋台の湯気はもう薄れ、
鉄の階段を下りる風が、ラーメンの匂いを遠くへ攫っていく。
イザナギとサタヌスは、空になった丼を机の上に置いたまま。
煙草を挟んでぼんやりと沈黙していた。
沈黙を破ったのはイザナギだ。
「いやさ、セラフが言ってること自体は正しいって分かってるんだよ?脳みそは完全に納得してる」
「……でも、言い方がさあ!“お前も大人になれ”とか“責任を持て”とか、いちいちウザいんだよ」
サタヌスは腹を抱えて笑った。
「わかるわ~。兄貴ってさ、正論だし世話焼いてくれるけど、話が長いし、説教くさいんだよな」
「オレなんか、ガイウスが“正義の味方”ムーブでさ……それだけでイラっとくるわ」
イザナギは箸を弄びながら、肩をすくめる。
「うちも“騎士団長だから”って、肩書きで押してくるしな。こっちはこっちで頑張ってんだっての」
「それな」
ふたりの声が、笑いながら少しだけ掠れる。
“下の子”という共通点。兄に守られ、兄に反発する矛盾ごと愛おしい。
兄がいるから、立場が余計ややこしい。
でも、困った時に思い出すのはやっぱり兄の顔だ。
イザナギはぽつりと呟いた。
「セラフがいなければ……俺、もうとっくに腐ってたな」
サタヌスは笑って頷く。
「ガイウスやメルクリいなかったら、オレも公安の世話んなってるわ」
一瞬の間、風が流れる。
「でもよー、兄貴が飯作ってくれる時だけは素直に感謝してんだ」
「わかる。オレも兄貴の焼きそばは好きだわ」
ふたり、顔を見合わせ、同時に言った。
「やっぱ兄貴、うぜぇ……」
しかし、口元には笑みが残っている。
湯気の代わりに、夜の冷気があたたかかった。