――同じ夜、魔界港区・残影荘の屋上。
月は薄雲に隠れ、街のネオンがぼやけている。
その光の境界に、プルトがひとり腰を下ろしていた。
沈黙の中で、まるで言葉の響きを確かめるように口を開く。
「……もう少しすれば盆か」
「死神見習いが来る頃だ」
足元の影が風に伸び、ひとつに溶けていく。
「彼らは“鎌”を作るために魂を狩る。彷徨う死者も、生者も」
声が低く、冷たい夜気に溶ける。
「……サタヌス、ああいうのに気づかずに喧嘩売るタイプだ」
短く息を吐き、空気を切るようなため息。
「忠告しても、聞かないんだよな。“あいつの気を引く言い方”じゃないと」
瓦礫に覆われた夜の路地は、ネオンの明滅で赤と紫に染まっている。
生と死の看板が並ぶ通りで、ただ一人、プルトは立っていた。
黒いローブの裾を夜風が揺らす。
手には、すでに魂を抜かれた骸骨。
彼女はその頭蓋に指を添え、微笑した。
「……デートの誘い、ってどうすればいいんだっけ」
口調は淡々としているが、頬のあたりがほんの少し赤い。
骸骨は当然、何も答えない。
ただ、口の隙間からカタリと乾いた音を立てた。
「ええと――“サタヌス、お前……デートに興味はありますか?”」
プルトは真顔で呟き、ネオンが一度、ぱちんと弾ける。
彼女は眉を寄せ、ため息をついた。
「……ダメだ。真顔で言うと脅迫になる」
骸骨の頭を軽く小突く。
「ねぇ、どう思う?」
返事はもちろんない。だが、プルトの指先にある頭蓋が、わずかに揺れた気がした。
「そう、あの子は逃げる。きっと」
彼女は口元に微笑を戻す。
「でも、逃げる犬ほど追いたくなる。――困った性分」
その声に反応するように、風が路地を駆け抜けた。
看板が鳴り、紙くずが舞い上がる。
「……死者に恋愛相談してる時点で末期だな」
小さく笑って、骸骨の肩をぽんと叩く。
「ありがと。練習相手になってくれて」
彼女は立ち上がり、空を仰ぐ。
月は雲に隠れ、都市の明かりは半分死んでいる。
それでも、プルトの赤い瞳だけが、
確かに“生きている者”の光を宿していた。
その呟きが夜に溶けた瞬間、遠くで列車の残響が鳴る。
アンダーワールド・ステーション――。
あの灯りの下で笑っている少年の顔が、プルトの瞳にかすかに映った。
—-
翌日のロストサイド港区。
都市の残骸が砂に埋もれ、信号機も標識も、もう骨みたいに突き刺さっていた。
赤も青も消えたネオンが、風に揺れてカラカラ鳴る。
そこから一本だけ、まだ“道”と呼べるものが残っていた。
――国道246号線。
かつて東京の心臓を貫いていた、栄光の動脈。
今はただ、砂の上に延びる黒い亡骸だ。
「じゃ今日は、この246号がどこで“現実”から消えるか、検証するか!」
サタヌスはそう言って、笑いながら肩にアダマスを担いだ。
乾いた風がスカーフを揺らす。
砂漠の風が鳴り、遠くの高層ビルが陽炎のように揺れる。
彼はパンくず代わりに石を投げながら、のんびりと歩き始めた。
「地図にないとこって、ちょっとワクワクすんだよな」
歩き続けるうちに、アスファルトは徐々に砂に飲まれていく。
線路のように一直線だった道は、途中で裂け、波打ち、
やがて地面の境界が曖昧になっていった。
朽ちた電柱が空に向かって斜めに突き出している。
配線は切れ、風に千切れたコードが細い蛇のようにうねっている。
サタヌスはそれを見上げて、ぽつりと呟いた。
「どこまでが街で、どこからが世界の終わりなんだろな」
答えはない。でも、それでいい。
彼にとって重要なのは“進むこと”ではなく、
“まだ地面が続いてるか確かめること”だった。
砂の上に一歩、また一歩。
背後の廃墟が小さくなっていく。
風の音が強くなり、アスファルトの境界が。
まるで夢と現実の境のように霞んでいった。
それでもサタヌスは笑っていた。
どこへ繋がっているか分からない道の先に、
いつもと変わらない軽さで声を放つ。
「……よし、次の信号まで行ったら、休憩な」
信号なんて、もう存在しない。
だが、その無意味な約束が、この荒れ果てた世界で唯一の“生のリズム”だった。
風が止まった。
砂に埋もれた標識が一つ。
錆びた金属の音を微かに鳴らして揺れている。
【BUS STOP】
隣の立て札には、白く掠れた文字で──∞ MIN。
サタヌスは足を止めた。
「……ん? なんかある?」
視界の先、砂丘の向こうに、古いバス停の影。
近づいてみると、そこには一人の少女が座っていた。
白い髪が風に流れ、砂の色を映して淡く金色に光る。
長いまつ毛の下の瞳は、焦点が合っているようで、合っていない。
彼女は静かにこちらを見ていた。
まるで“待ち続ける幻”のように。
サタヌスは肩のアダマスを下ろし、軽く片手を挙げた。
「おーい。バス、来ねぇぞ」
少女はゆっくり顔を上げる。
「……知ってます」
ほんの少しだけ、口の端が動いた。
それが笑みかどうか、判断できない。
その瞬間、BGMが途切れる。
風が止み、世界が音を失う。
足元の砂が擦れ、観客はそこで初めて理解する――
“世界の端”に到達したのだと。
太陽は沈みかけ、光が白く反射して、空と砂の境界が薄紙のように透けていた。
サタヌスは小声で言う。
「お前、誰?」
「俺サタヌスっていうんだけど」
軽口のつもりだった。
でも、声が少し裏返る。
彼自身も気づかぬうちに、相手の“異質さ”を感じ取っていた。
少女は静かに答える。
「ネムっていうんだ」
「私まだ子供で、何も知らないんだ」
「この世界がどうなっているかも……」
その声は、音よりも柔らかく、風よりも遠い。
彼女の髪がゆらりと揺れ、砂の粒が光を反射する。
サタヌスは思わず目を逸らし、頭を掻いた。
(……え? これ浮気じゃねぇ?)
(でもプル公、多分こんくらいじゃ怒らないだろ!……多分)
ネムは首を傾げて、意味を理解できない表情をする。
その無垢さが、余計に現実感を奪っていく。
沈黙。
砂の風が一度だけ吹き抜け、また静まる。
世界の空気が変わり、遠くで風鈴のような音が響いた。
「つーかバス停? 何待ってるの」
サタヌスが尋ねる。軽いノリのまま、だが目はもう彼女から離せない。
ネムはゆっくり首を振った。
「バスはこないよ。二度と」
「強いて言うなら……サタヌスくんかな」
彼女の声には、体温も呼吸の揺れもない。
それなのに、言葉だけが真っすぐに胸を貫いた。
「え? あ、あぁ……」
「う、ん…… 一先ず、街いこうぜ……」
うまく笑おうとしたが、声が震えていた。
“冗談だ”と続けたかった。
だが、喉の奥から出てきたのは、
理解できない何か――生と死のあいだの空白。
沈む太陽が白い光を放ち、バス停の影が二人を包んだ。
そして、世界はゆっくりと軋みを上げた。
まるで、止まっていた時間が
ようやく動き出す音のように。