サタヌスはネムの隣を歩きながら、空を見上げた。
かつて東京と呼ばれていた場所は、今では砂と鉄骨の墓場だ。
だが、ひときわ目立つ赤い塔だけはまだ立っている。
「なぁお前、行きたいとこってある?」
ネムは少し考えてから、指先でその赤い塔を指差した。
「ここ、東京? あの赤い塔が目印だって」
「そうだぞ」
「ほんと?じゃあ……原宿いきたい! いってみたかったんだ」
彼女の声が少しだけ弾んだ。
サタヌスは思わず笑う。
「原宿、ねぇ。いいじゃん。カワイイ勉強だ」
かつて“カワイイ”が世界一集まっていたという竹下通り。
今は看板の文字も剥げ、シャッターにスプレーで「NO MORE SALE」と描かれている。
道の両側には“ゾンビショップ”が並び。
マネキンたちはロリータ服を着せられたまま踊るように立っていた。
背後のスピーカーからは壊れたポップソングが断片的に流れ、
時々、悲鳴と笑い声が混ざる。
「なぁ、ここって昔は“カワイイ”が世界一集まる街だったんだってよ」
「……カワイイ?」
「カワイイ服着た子が“自撮り”しまくって、クレープの行列ができてて……」
「ゾンビはいなかった、らしい」
ネムは壊れたショーウィンドウを覗き込み、首をかしげる。
「今も……かわいい、の?」
サタヌスは少し考えて、頭を掻いた。
「俺、カワイイってよくわかんねぇけど……」
「自分で『カワイイ』って思ったら、それでいいんじゃねぇの?」
その瞬間、背後でゾンビロリータが突然ピースサインをして叫んだ。
「アハハハハ……♡」
カシャッ、と音。
ネムは硬直したまま、ゾンビと一緒に写真を撮られていた。
二人は逃げるように通りを抜け、“CREEPY CREPE”に辿り着いた。
ショーケースの中には、目玉の乗ったクレープ。
虹色のシロップが滴り、奥ではゾンビの店員がピースをしながら焼いている。
ネムは目を見開き、言葉を失った。
「これ……食べるの?」
「うーん……“食べ物”ってことにはなってる」
サタヌスは笑って肩をすくめる。
「コレも“可愛い”……のか?」
「いや、怖くね?」
「でも美味そう……?」
その矛盾に、二人は同時に吹き出した。
笑った瞬間、原宿の空気が少しだけ軽くなった気がした。
通りの奥には、ぬいぐるみショップがあった。
改造サンリオ――クロミちゃんの魂抜けバージョンや、
メルティー・キティの頭蓋骨モデルが並ぶ棚。
ネムは怯えながらも、ひとつのぬいぐるみを手に取った。
それは、瞳のボタンが片方だけ欠けたウサギ。
「これ……かわいい?」
「さぁな。でも気に入ったんなら、そうなんだろ」
ネムは抱きしめるようにそれを胸に当てた。
表情が少しだけ柔らかくなる。
「カワイイって、どうやって分かるの……?」
サタヌスは腕を組み、少しだけ考え込む。
「そんなもん、“欲しい”とか“食いたい”とか思ったら、それでいいんだよ」
「あと、気に入ったら盗っても……いや、今のはナシな」
ネムはぽかんとして彼を見た。
彼の悪ガキみたいな笑顔が、この終末の街でいちばん“生きてる”ように見えた。
「サタヌスくんは、どんなのが好き?」
一瞬、彼は目を逸らす。
そして、呟くように言った。
「……お前が美味そうに食ってりゃ、なんでも可愛いんじゃねーの?」
ネムの頬に、かすかな笑みが浮かんだ。
それは、壊れた街に咲いた最初の花のように、
あまりにも儚く、あたたかかった。
「ねぇサタヌス君は、ベリーとチョコ、どっちのパンケーキが好き?」
ネムは、フォークを両手で挟んだまま、メニューを覗き込む。
その仕草が、どこかおままごとのように幼く見えた。
「チョコかな」
サタヌスは即答した。
「なんかさ、“甘い物食ってる!”って実感あるじゃん。特にあのベタベタ……口の周りにくっつく感じ」
ネムは小さく笑う。
「私はベリー派。甘酸っぱいのって、恋みたいじゃない?」
「食べた後、ちょっとだけ寂しくなるの。でも……それが好き」
サタヌスは一瞬、言葉を失った。
「……そういうの、ちゃんと考えたことなかったな」
彼の中に、小さな違和感が生まれる。
この少女の言葉には、まるで“終わり”を前提とした優しさがある。
パンケーキが運ばれてきた。
皿の上のハート形のホイップが、わずかに傾いている。
チョコとベリーの香りが混ざり、焦げた甘さが漂う。
サタヌスはフォークを突き立て、にやりと笑った。
「うめぇな~。……チョコのベタベタって、ケンカした時の血の味に似てんだよな~」
「……サタヌス君、それ感想として正しいの?」
ネムの困惑が、思いのほか心地よい。
ふと、ネムはパンケーキを見つめながら呟いた。
「“先輩”が、いつも話してたんだ」
「死神も時々、街に降りて、パンケーキ食べたりするって……」
「一人前になったら、人の目に映らなくなるけど、
それでもパンケーキの味だけは、ずっと憶えてるんだって」
小さな笑みを浮かべる。
「“ズルしないで死神になれたなら、きっと好きな物も手に入るよ”――って」
「その先輩、結構イイ奴だったんじゃねぇの?」
「うん。強くて優しかった」
「……でも、顔も姿も、もう思い出せないや」
ネムは俯き、でもパンケーキを見つめるその瞳は、どこか光っていた。
サタヌスは黙ってコーヒーを啜る。
甘味の奥に、鉄の味がした。
—-
その様子を、屋根の上から一人の影が眺めていた。
プルトだ。
街灯の光に照らされても、表情はほとんど動かない。
ただ、赤い瞳が二人を追う。
「浮気ィ? いいんじゃない。
こんな女っ気ないのより美少女にときめくこともある」
口元に笑みを浮かべながら、ワイングラスをくるりと回す。
「但し――あの男を泣かせた場合は容赦しない」
電線の上からウラヌスが顔を出す。
「うわーww 一番怖いやつ」
「“好きにさせてると見せかけて、本命以外は全員処理する”やつでしょ!」
プルトは肩をすくめ、静かに笑う。
「許すよ? でも一番大事なのは、“犬”が帰る場所はここ」
「首輪の鍵はこっち」
「地雷ぶち抜くやつじゃん!命がけだよマジでww」
商店街の前で、ネムの手には小さなぬいぐるみ。
サタヌスはその荷物を持ってやりながら、少し照れくさそうに笑う。
「お前って、面白ぇよな」
「えっ……?」
「なんか、見てるだけで気が抜けるっていうか」
ネムは言葉の意味を探しているような顔をして、それでも微笑んだ。
二人の背後で、ゾンビロリータがカメラを構える。
「ハイ、ピース♡」
ネムはぎこちない指でピースサインを作る。
それでも、その指先は確かに“生きようとする形”だった。
「おーい、“KAWAII”ってのは、思い出残しとくもんだろ?」
「……思い出。ありがとう」
彼女の声は、ほんの少し震えていた。
だがその震えは、風の音よりも温かかった。
—–
夜風が生ぬるく、鉄橋の欄干を撫でた。
廃墟の街並みは影のように沈み、奥の高層ビル群だけが青白い光を放っている。
まるで、死んだ都市が“夢の中でまだ働いている”ような、奇妙な夜景だった。
二人は隅田川の上に架かる橋に立っていた。
欄干にもたれるサタヌスは、ポケットに手を突っ込み、遠くの光を見つめる。
隣ではネムが静かに風を受けていた。白い髪が夜風に溶けて、まるで光そのもののようだった。
「……きれいだね」
ネムが小さく呟く。
「だな。手前、全部廃墟なのにな」
サタヌスは笑いながら、足で地面を蹴った。
「向こう側だけやたらピカピカして、まるで別世界だ」
「生きてるみたい」
ネムの言葉に、サタヌスは目を細める。
「……そうかもな。死んだ街が、自分の夢見てるのかも」
二人の間に沈黙が落ちた。
川の水面が、遠くのネオンをゆらゆらと映している。
その光の帯が、まるで心臓の鼓動のように瞬いていた。
「ねぇサタヌス君」
ネムは欄干に指をかけたまま、視線を落とす。
「もし、“死んだ後の世界”にも夜景があるとしたら……見に行きたい?」
「んー、どうだろな」
サタヌスはしばらく考えて、それから笑った。
「行くかどうかより、隣に誰がいるかの方が大事だろ」
ネムは一瞬だけ驚いた顔をして、
すぐに小さく笑った。
「……うん。そうだね」
風が止み、静寂が広がる。
その静けさの中で、遠くからカラスの鳴き声が一度だけ響いた。
サタヌスはネムをちらりと見る。
白い横顔に、ふと“何か違う”気配を感じた。
この世の光を反射しているはずのその瞳が、光を内側から放っているように見えたのだ。
「……なぁ、お前」
「ん?」
「なんかさ……前から思ってたけど、お前って人間っぽくねぇな」
ネムは笑う。
「“っぽくない”って、褒め言葉?」
「いや、どっちかって言うと、謎かけみたいな質問」
サタヌスは冗談めかして言うが、声が少しだけ硬かった。
彼女の笑みが消える。
川面の光が揺れ、二人の影を飲み込んだ。
ネムはそっと言った。
「……もし私が、人じゃなかったら、怖い?」
「怖いわけねぇだろ」
「なんで?」
「だって、“人間っぽくねぇ奴”ばっか相手にしてきたから」
サタヌスは笑い、両手を欄干にかける。
その笑顔は、どこか懐かしさを孕んでいた。
「でもな――」
「?」
「お前だけは、消えねぇでほしい」
ネムは返事をしなかった。
ただ、風がもう一度吹いた。
その風の中で、彼女の髪が一瞬だけ透けて見えた。
まるで、そこにもう存在していないかのように。
夜の終わりが近づいていた。
隅田川の流れは緩やかで、遠くのビルの灯がひとつ、またひとつと消えていく。
その光の減り方が、まるで誰かの心音のように静かだった。
ふたりは橋を渡りきり、街の端に戻る。
足元には割れたガラス片。
風が吹くたび、それが小さく転がって“チリン”と鳴る。
ネムは立ち止まり、夜空を見上げた。
月は薄雲の向こうでぼやけている。
その光を受けて、彼女の髪が白金に染まっていた。
「……あの、サタヌス君」
「ん? なんだ」
ネムはほんの少し迷ってから、言葉を選ぶように口を開いた。
「明日も……原宿、いきたいな」
サタヌスは笑う。
「おう。いいぜ。お前が行きたいとこ、どこでも付き合ってやる」
「クレープでもパンケーキでも、ゾンビのプリクラでもな」
「ほんと?」
「ほんとさ。約束な」
ネムの瞳に、街の明かりが映る。
その光はまるで“最後の蛍”のように、短く瞬いて消えた。
その日は、何事もなく終わった。
パンケーキの香りがまだ衣服に残っていて、夜風はやけにやさしかった。
サタヌスは「今日も悪くなかったな」と呟き、
ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
彼の足音が遠ざかるたび、砂の上に残る影が薄れていく。
その背中に、誰も気づかぬまま――冷たい影が寄り添っていた。
それは風でも人でもない。
ただ、月の光のように滑らかに形を変え、細長い“鎌”の輪郭を形づくる。
死神の鎌が、彼の首筋にやさしくあてがわれた。
まるで恋人の手のように、柔らかく。
そして、決して離れない。
サタヌスはまだ笑っている。
明日のことを信じて、死の気配を夜風だと勘違いしたまま。
東京の赤い悪魔――。
その言葉を聞いて人が思い浮かべるものは、たいてい二つだ。
ひとつは、戦後から空を見張り続けてきた鉄の塔。
もうひとつは、そのてっぺんで平然と煙草をくゆらせる、あり得ない男。
レイス。
魔界と人間界を往復し、どの時代にも「悪い夢の前触れ」として姿を現す。
今夜も彼は、東京タワーのてっぺんにいた。
吹き荒れる風が黒のロングコートをはためかせ、彼の周囲だけが妙に静かに見えた。
足元には、ロストサイドの夜景。
壊れた街、歪んだ道路、ガラスのないビル。
それでも――光は消えていなかった。
車のライトが、まるで生き物の瞳のように瞬く。
壊れた信号の赤が、呼吸するように点滅していた。
この街の灯は、諦めきれない命の名残。
生き延びることそのものが、美徳でも罪でもない場所。
レイスは煙を吐き、ぼそりと呟いた。
「何事も起きな過ぎるな」
火の点いた煙草が、闇の中で微かに橙を灯す。
「こういう静けさは、嫌いだ。何かが壊れる直前ってのは、いつもこうだ」
遠くのネオンが一瞬だけ揺らぎ、月が雲に隠れる。
レイスの口元が、薄く笑う。
「今のうちに惰眠貪っとけ。どうせ何か起きる」
その声が、夜風に溶けて消える。
確かにその瞬間――街のどこかで、歯車のひとつが静かに回り始めていた。