翌日も、その翌日も、二人は原宿を歩いた。
プルトは一切怒らなかった。
だから「少しだけ」気が緩んだのかもしれない。
自分は許されている――そう思い込み。
そしてこの男は単純だから、簡単に利用できる――そうも思ってしまった。
KAWAII廃墟探検。
かつて“夢かわ”と呼ばれたショッピングモールの残骸。
壁には色褪せたマイメロ。歪んだポムポムプリン。
半分剥がれたキティちゃんのポスターが風に揺れ。
床にはカビたクレープの包装紙と壊れたプリクラ機。
フードコート跡の奥には、ネオン文字がまだ辛うじて読める古い看板が立っていた。
《だれもいないショータイム》
サタヌスは辺りを見回しながら、懐中電灯をかざした。
「なぁ、ここKAWAIIとか言われてたけど……夜とか絶対幽霊出るよな」
その言葉に、ネムが小さく肩をすくめる。
「や、やだ……本当に幽霊出たら、どうしよう……」
サタヌスはニヤリと笑う。
「へっ、死神なのにチキンかよ。じゃあ修行だな!」
「ここなら、幽霊に出会っても全部カワイイぞ?」
ネムはためらいながらも、壁のマイメロの輪郭をそっと撫でた。
「……ほんとに? この子たちなら……ちょっとだけ、こわくないかも」
「……ここでなら、幽霊に会っても“カワイイ”って思える、気がする」
サタヌスは軽く笑って、彼女の頭をぽん、と撫でた。
「ほらな。人間も死神も、案外“慣れ”だって」
「オバケにビビっても、隣にいりゃどうにかなる」
「お前が泣きそうになったら、代わりに殴っとくし」
ネムは驚いたように見上げて、それからゆるく笑った。
「ありがとう……サタヌス君が一緒なら、幽霊もそんなに怖くない」
彼らは廃サンリオショップの残骸で。
ゾンビ化したぬいぐるみたちと一緒に自撮りした。
ネムの頬が少し赤くなる。
「……こんなに楽しいの、初めてかも」
「死神なのに、幽霊よりカワイイものの方が好きになっちゃうかも」
サタヌスは照れくさそうに笑いながら、壊れたショーウィンドウの端に腰を下ろした。
「カワイイって、案外しぶといもんだな」
「壊れても残る。ゾンビぬいも、マイメロも、ちょっと形変わっても笑ってる」
ネムは彼の隣に座り、足元に落ちたホコリを指でなぞった。
「……サタヌス君、私のことだけ見ててくれる?」
「他に好きな人いるでしょ」
「は?」
「だって、さっきも……私がいない時、ずっと誰かを探してた」
サタヌスは一瞬、言葉を詰まらせる。
どこかで聞かれたような気がする問いだった。
「……なんだよ、そういうの」
「今はお前のことしか見てねぇし……」
その言葉を言い終える前に、ネムがそっと顔を近づけた。
呼吸の音が触れ合う距離。
甘い埃の匂いと、古びた香水の残り香。
サタヌスは思わず息を飲んだ。
ネムの瞳が、近い。
その光は揺れていて――それが生者の光ではないことに、まだ気づかない。
彼女は、死神の“最後の授業”を始めていた。
愛を教える代わりに、命を奪う。
それが彼女にとっての“卒業試験”だった。
廃ショッピングモールの奥、
壊れたステージのネオンがまだ微かに瞬いている。
“だれもいないショータイム”――その文字の下で、
ネムはサタヌスにゆっくりと顔を寄せた。
「ねぇ、目をつぶって?」
唐突な言葉。
だが、彼女の声があまりにもやさしかったから、
サタヌスは疑いもせず、素直に従った。
闇の中で、息が触れ合う。
甘いホイップの残り香。次の瞬間、唇が触れた。
ほんの一瞬のキス。
それは「恋」よりも「祈り」に近い儀式だった。
サタヌスが照れくさそうに目を開ける。
その瞬間――何かが違う。
重みがない。背中の斧、アダマスが消えている。
「……あれ?」
言葉を出そうとした瞬間、舌の奥がジンと痛んだ。
温かいものが喉を伝う。
血だ。
ネムは、ふわりと笑った。
その笑みは、さっきまでの“可憐さ”の残滓をまといながらも、どこか異様に静かだった。
「あ。もう喋れるんだ、すごいね」
「神器って、魂の欠片なんだって。舌、ちょっとだけ噛んじゃった」
サタヌスは血を手で拭う。
手が震える。
「……ウソ、だろ」
ネムは一瞬だけ目を伏せ、優しさを装うように言った。
「ごめんね」
「でも、これが“死神になる”ってことだから」
サタヌスは言葉を失い、ただ喉から掠れた音を漏らした。
それは嗚咽のようで、笑いのようでもあった。
「……返せよ……アダマス……お前、それ俺の……!」
彼は倒れかけながらも手を伸ばす。
ネムはその手を、無言で押さえつけた。
細い腕のはずなのに、信じられない力だった。
「死神に抵抗できるわけないでしょ」
「大人しくしてて。取るのは“鎌”だけだから」
「何が!鎌だけだよ!」
「アダマスは……俺と“魂”繋がってんだぞ! それ奪われたら…!」
ネムの目線が鋭く光る。
声が氷のように変わった。
「――そう。“魂の欠片”だから狙ったの」
「だって、死神になりたかったんだもん」
「ズルでも、どうしても、私……“誰かを導ける存在”になりたかった」
サタヌスの表情から血の気が引く。
理解が追いつかない。
あの笑顔も、あの言葉も、全部、最初から“計算された幻”だったのか。
「……は、は……?」
手を伸ばす。
だがその指先を、ネムの掌が掴み、ねじ伏せた。
骨が軋み、指の感覚が消える。
もう、彼女の顔にあの“少女の儚さ”はなかった。
あるのは、生死を支配する“絶対者”の微笑。
「貴方に向けた笑顔も、デートで言ったことも――全部、演技よ」
「私……楽して死神になりたかっただけ」
その言葉に、サタヌスの心が音を立てて割れた。
叫ぼうとしても声が出ない。
代わりに、子供のような嗚咽が漏れた。
「そんなのっ……そんなのって、ないだろっ……!」
「返せよ、俺のアダマス……ぅう……」
勇者の肩書も、悪童の矜持も消えた。
泣き声だけが残る。
血と涙が混ざり、崩れた床に落ちる。
その涙は、彼がまだ“生きている証”だった。
ネムは振り返らなかった。
斧を手に取る。
その刃に、少年の血が滲んで赤く光る。
「ありがとう、サタヌス君」
「これで……私、本当に“死神”になれる」
そしてその瞬間、壊れたステージの奥で。
“だれもいないショータイム”のネオンが――ぱちりと、赤く灯った。
ネムはアダマスを両手で高く掲げた。
その刃が赤黒く光を反射し、空間の色を変えていく。
足元の床が波打ち、廃モールの壁がざらりと剥がれ落ちた。
ガラスの破片が宙に浮かび、
マイメロもキティも、壁から滲むように消えていく。
かわいかった世界が、今や“冥界行きの門”へと姿を変えつつあった。
「いいの。友達だってズルして死神になった子いるんだもん」
「私も、これで……」
声が震えているようで、しかし目だけはまっすぐだった。
アダマスの光が強まる。
闇が渦を巻き、床に黒い裂け目が走った。
サタヌスの脳裏に、誰かの声が響いた。
「神器はただの“超強い道具”じゃない」
「魂がリンクした。つまり、君自身の一部というべきものだ」
「心を手入れしなければ、刃が曇るのは当然だろう?」
その声が、鼓膜ではなく“魂”を直接揺らした。
サタヌスは息を詰まらせ、血と涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「だって……知らなかったんだ……ネムが……俺の鎌、狙ってたなんて……」
「プル公……助けてくれよ……」
声はもう言葉になっていなかった。
ただの呻き。
深く、底のない穴に落ちていくような音だった。
彼の“魂”は引きちぎられ、アダマスと共に吸い上げられていく。
それは痛みというより、“存在が剥がれる感覚”だった。
ネムの顔に一瞬だけ、哀しみが浮かんだ。
演技なのか本心なのか、もう誰にも分からない。
「……ごめん」
「これで……私は本物になれるんだ」
そう言いながらも、
その瞳の奥に映るのは恐怖でも罪悪感でもない。
ただ、空虚。
“死神”になろうとする者が捨てねばならない、人間の心そのもの。
黒い門が開きかける。
空間が裂け、深淵の底が覗く……が。
その縁を、赤黒い影が這うように覆った。
バシュッ、と音を立てて門が閉じる。
「……あれ?開かない……?」
焦り。初めて見せる、素の表情。
「どいて、冥界の門……早く開けってば……!」
彼女は必死にアダマスを振り下ろす。
何度も、何度も、だが刃は空気を裂くだけで、門は一切反応しなかった。
その瞬間、空気が変わった。
世界が息を潜めた。
照明が断続的に点滅を繰り返し、
まるでこの場の“空気”そのものが鼓動をやめたように静まり返る。
廃ショッピングモールの奥、
KAWAIIパフェのポスターが風に揺れて音もなく剥がれ落ちた。
その通路の中央に――彼女がいた。
黒衣の裾を引きずり、足音ひとつ立てぬまま進む。
プルト。
冥王にして、死神たちの王。
彼女が歩くだけで、埃が退き、空間の温度が下がる。
剥がれた壁のヒビに、闇が流れ込むようだった。
両の手は胸の前で組まれ、祈るように。
だがその仕草には慈悲ではなく、“審判”の静けさがあった。
KAWAIIの残骸たち――マイメロ、キティ、クロミ、朽ちたポスターたちが、
まるで命を持つように視線を逸らす。
パンケーキの写真の上に落ちる影が、ゆっくりと赤に染まっていく。
プルトは一歩、また一歩と進む。
ベンチの上のぬいぐるみが風もないのに揺れ、
ショーケースのガラスに映る彼女の姿が、“現実”を侵食していくように歪んだ。
そして――その歩みが止まる。
彼女は目を閉じ、静かに両手を合わせた。
その仕草は祈りにも見えたが、
彼女の背後で“誰かの魂”が悲鳴を上げる。
「……借り物の鎌で、死神を名乗るとは」
声は凪のように静かで、
それでも確かに“世界の底”にまで響いた。
通路の壁に貼られたポスターが、一斉にビリビリと裂ける。
“かわいい”と印字された文字が、まるで悲鳴のように散り散りに舞った。
プルトの瞳がゆっくりと開く。
紅の光。
闇の中で、それだけが確かな色を持っていた。
「――お前は、私の犬を泣かせた」
その言葉とともに、ベンチの上のクロミちゃんのぬいぐるみがパンッと弾け飛ぶ。
綿が舞う。それは血しぶきのように赤く見えた。
彼女の足元、粉塵が静かに降る。
光の代わりに“闇”が落ちてきた。
その瞬間、世界が凍りついた。
空間そのものが祈りの形に変わり、廃モールは“死者の劇場”と化す。
あらゆる“かわいい”は、沈黙した。
残ったのは、赤い光だけ。
プルトの瞳と、アダマスの刃の残光。
ネムは後ずさる。
アダマスを抱いたまま、息を荒げて。
プルトは歩く。
感情のない歩調で、けれど一歩ごとに“死”が近づいてくる。
「――その鎌は、あの子の“魂”だ。持っていけると思ったか?」
ネムは息を飲んだ。
恐怖がようやく、彼女の中に“戻ってきた”。
そして、冥界はようやく呼吸を再開した。