冥界-ネム編 - 5/6

空気が重くなった。
まるで酸素そのものが、彼女の前で跪くように。
廃モールの奥、照明が断続的に点滅している。
ネムは追い詰められていた。
アダマスを抱えたまま、壁際に後ずさる。
息が荒く、肩が上下する。

「こないでっ……!私には……死神の権利が……!」
声は震え、瞳は濡れている。
それでも、必死に虚勢を張って天を仰ぐ。
「――来いっ、鎌よ!」
血のような光が一瞬、刃を包んだ。
だがプルトの左手が、静かに動いた。
まるで“空気の糸”を掴むように、指が閉じる。

音が生々しすぎて、逆に現実感がなかった。
ネムの右腕が、肩の付け根から吹き飛んだ。
何かが切り裂かれたのではない。
存在の接続が“許されなかった”音だった。
鎌は呼ばれない。
空には、何も降りてこない。

サタヌスは反射的に顔を背けた。
音も悲鳴もない、ただ、“世界が一枚減った”だけ。
「……えっ……」
ネムの声が小さく響く。
自分の肩から先がないことに、気づくまで数秒かかった。
その間も、血は流れない。
魂を失った器は、もう“流す液体”を持たない。

プルトは一歩、前へ出る。
声は静か、温度がまるでない。
「これで、鎌は呼べませんね」
照明がピシッと閃く。
一瞬の明るさの中で、プルトの瞳だけが紅く光った。

ネムの体が揺れる。
崩れ落ちるように座り込み、
その目はどこか遠くを見ていた。
「あ……ぁ……そういえば……冥界で言われた……」
「異世界から、もうひとり……冥王様がやってきたって……」
「その人は……地上に……」
視界がかすみ、焦点が合わない。
光の中に浮かぶ黒い輪郭――少女のような、影のような。
プルトの声が、夜の底から響いた。

「私もパンケーキが好き」
「尤も、何もつけないのだけど」
ネムの意識が遠のく。
頭の奥で、断片的な“甘い記憶”が再生される。

「サタヌス君は、ベリーとチョコ、どっちのパンケーキが好き?」
「私はベリー派。甘酸っぱいのって、恋みたいじゃない?」
ベリーの香り、笑い声。
あの日の光景が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
そして、静寂。
サタヌスは、何も言えなかった。
声を出そうとしても、喉が塞がっていた。

彼女はいなかった。だが聞いていた、すべてを。
パンケーキの会話も、笑いも、“あのキス”も。

プルトの足音がゆっくりと響く。
コツ、コツ、コツ。
蛍光灯の明滅と同じリズムで、一歩ごとに闇が深くなっていく。

ネムは理解した。
目の前に立つ黒い少女――それこそが、冥界そのものだと。
プルトは黙って立っていた。
彼女の足元だけが、世界の中心のように静まり返っている。
光も音も、彼女を避けるように遠のいていた。

残ったのはネムとサタヌス。
そして、誰にも救えない沈黙だけ。

ネムは嗚咽混じりに言葉を絞り出した。
「ッ……だって本当に、死神になりたかったのっ」
「見習い死神のくせに幽霊にビビってるなんて、イジメられて……」
「他の友達はズルして死神になってて……だから、私も……」
「楽して……誰かの鎌を使えばって……!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔、もう取り繕うこともできない。
だがその惨めな声が、なぜか澄んで聞こえた。
――初めて、本音だけを話しているからだ。

サタヌスは短く息を吐いた。
冷たいのに、不思議と優しい声で言う。
「……よくある話だ」
「気が弱いやつほど、万引きをそそのかされる」
口調は淡々としている。
でも、目は痛むように細められていた。
わかってしまう。
彼には、その惨めさが“他人事”ではなかった。
スラムの悪童として生きた彼もまた、
何かを奪わなければ生きられなかった子供のひとりだった。

「でも……私、違うって思ってたのに……!」
「結局、あの子たちと同じだった……!」
ネムは膝をつき、アダマスを抱きしめる。
血も涙も乾かぬまま、震える声を吐き続けた。
プルトが静かに口を開く。
「――違いを示す機会なら、あったはずですよ」
「あなたが“泣かせた”その男が、まだ信じていたうちは」
声は穏やかだった。
だが、その一言で空気が凍った。
“どこまで見ていたのか”を、全員が悟る。

パンケーキの広告が風に揺れた。
壊れたLED看板がチラチラと明滅する中、
プルトの影だけが一切ぶれず、真っ直ぐにネムへ歩み寄る。
ネムは、最後の涙をこぼした。
「あのね、サタヌスくん……全部うそっていったけど」
「ごめんね……あれ、うそだった」
「私、本当に――」
次の言葉は、来なかった。

プルトの右手が、音もなく前に出る。
掌の縁が空を裂き、心臓へ突き刺さる。
鮮血は出ない。
代わりに、魂のヒビが砕けるような音だけが響いた。
サタヌスの体が硬直する。
呼吸が止まり、声が出ない。

「ネム……? ネム……」
そして一瞬後、声が爆発した。
「ネムウウウウッッッ!!!」
その叫びに答えるように、
どこからともなく風が吹いた。

「私、本当に……好きだった」
「私、本当に……楽しかった」
「私、本当に……死神なんてなりたくなかった」
それが彼女の最後の言葉だったのか、
あるいは想いの残響だったのか――もう誰にもわからない。

プルトの手を離れたネムは、崩れ落ちない。
ただ、光の粒子へと分解されていく。
風が通り抜け、彼女の輪郭を散らしていく。

パンケーキのポスターがひらりと落ち、
“甘くて、かなしい”という文字が裏返しになって床に転がった。
サタヌスはその光を、涙越しに見ていた。
伸ばした手は届かず、ただ震えるだけ。
そして、風の中に残ったのは――わずかな、ベリーの香りだった。

プルトは手を見下ろしていた。
何かを確かめるように、掌をさすさすと撫でる。
「……久しい手応えです」
声は穏やかで、むしろ懐かしさすら混じっている。
指先の感覚に残るのは、たった今――命を断った確かな重み。
彼女の口元が、かすかに笑う。
「教祖をやっていたときも、こうしてアサシンを処罰した」
懺悔でも誇りでもない。
ただ事実として語られたそれは、過去を知る者なら誰もが納得する言葉だった。

プルトが“冥王”と呼ばれるようになったとき、誰も驚かなかった。
神域に至る前から、彼女の振る舞いも、立ち位置も。
すでに「死神の王」そのものだったからだ。
人を導くために死を語り、掟を守らせるために命を断つ。
それが、かつて教団を率いていた“教祖プルト”のやり方だった。
そして――彼女もうひとつの称号。
マスターアサシン。

マスターアサシンは、ただの超一流の暗殺者ではない。
死を経典として認め、掟を犯せば同胞すら罰する存在。
「アサシンを殺すアサシン」
その異名が示す通り、彼女は死の秩序を保つための刃だった。
その刃に血はつかない。
触れた瞬間、魂ごと“帳消し”になるからだ。
プルトは手を下ろし、空を見上げた。
崩れた天井の隙間から、灰色の光が降り注いでいる。

「……人は、死を恐れるから生き方を選ぶ」
「でも死神は、死を受け入れるから“選ばなくていい”」
その言葉には、安堵すら滲んでいた。
やがて彼女は背を向け、光の中へゆっくりと歩き出す。
その背中には、神に仕える者でも殺す者でもない、
ただ秩序そのものとして生きる存在の静けさがあった。

彼女の歩いた跡には、血はない。
代わりに、風と光だけが通り抜けた。
――マスターアサシン。
それは祈りと殺意が、同じ形をしていた時代の名残。