冥界-ネム編 - 6/6

廃モールの明かりはほとんど消え、二人だけが薄いスポットの中に立っていた。
床にはベリーソースのしみ、チョコの斑点。
半分剥がれたロリータ少女のポスターが、笑顔を色褪せさせたまま壁に貼られている。
首のないクロミちゃん人形の綿が、雪のようにふわりと舞っている。
サタヌスは膝をつき、まだ濡れた手で血と涙を押さえている。
声は小さく、震えていた。

「……なんでだよ。あいつ、鎌なんか、もう持たねぇって……!」
プルトは動かない。冷たい静けさが彼女を縁取る。淡
々と、しかし確かな動作でスカーフを直す。
「死神に必要なのは、刃でも涙でもありません」
彼女の声は低く、凪のように落ちる。
「“砕けぬ魂”だけです」
言い終わるや否や、プルトの指先がすっと動いた。
空間にナイフが現れたのではない——彼女が、ネムの残る「魂の核」を。
まるでガラスを割るがごとく刺し貫いたのだ。
音は鈍く、しかし過度に生々しい。
バチン、と、乾いた割れる音。

光とともに、ネムの存在が弾ける。
それは血ではない。光の破片、記憶の欠片、笑いの粒子。
数千のかけらが宙に散り、空気に溶け。
いくつかは土に落ちて小さな黒い斑点のように吸い込まれていった。
まるで花の種が落ちるように――だが芽を出すのではなく、消えるための種だった。
サタヌスは崩れ落ちた。嗚咽が喉から絞り出され、床にしがみつく指先に力が入らない。
「……なんで、全部消えちまうんだよ……」
すすり泣く声が、モールの空洞に吸い込まれていく。

プルトはそれでも黙っていた。
やがてゆっくりと顔を上げ、動線を外すでもなく、淡々とスカーフを整える。
彼女の動作は、誰かを慰めるためではなく、秩序を取り戻すための所作だった。
綿がまだ舞い、スポットライトの輪郭が震える──世界はまだ、プルトの権能から醒めきっていない。
「泣くな、犬。……次やったら、首輪つけて地下送りですよ」
その声は冷たく、しかしどこか唇の端にだけ柔らかさを残している。
命令にも、保護にも聞こえる妙なバランス。

サタヌスは天を仰ぎ、叫んだ。
叫びは全身から絞り出され、壊れたパレットのように響いた。
「二度と泣くかァアア!!!」
その叫びは静寂を破る。
だがその静寂の後ろ側には、まだ離れたまま残されたものがある。
アダマスの暖かさ、砕けた欠片の痕跡、そして軽くなった空気。
プルトは無言でその場に立ち続ける。
彼女の背後の暗がりで、ぬいぐるみの目の一つが、わずかに光を失った。

廃モールは再び音を取り戻し始める。
蛍光灯のジリっという機械音が微かに反響し、風が少しだけ通り抜ける。
だがサタヌスの世界は今、穴だらけだ。
胸の中の何かが欠け、代わりに冷たい決意が生まれる場所だけが残された。

プルトは一歩を踏み出す。
犬と呼ばれた男を見下ろすその目には、再生の始まりが宿っている。
下には、砕かれた魂のかけら——。
いくつかは土に吸われ、いくつかはまだ床にちらばっている。
彼女は無言で手を差し伸べた。
手のひらは冷たく、確かに温度を取り戻しつつある何かに触れようとしていた。

——ここまでで、嘘は燃え尽き、痛みだけが真実として残った。
次に来るのは、むき出しの再生だ。
プルトは犬を拾い上げ、サタヌスの裂けた魂を縫い合わせるために、静かに準備を始める。
モールの空気はまだ冷たかった。
壊れたショーウィンドウから差し込む月光が、二人の姿を薄く照らしている。
風は止まり、世界が息を潜めているようだった。

プルトは静かに前を向いたまま、振り返らずに言った。
「サタヌス、アダマスを再生しなさい」
サタヌスは涙の跡が残る顔で、うつむいたまま答える。
「……再生って、そんな簡単に……」
「できますよ。あなたの魂が残っているうちは」
プルトの声はやさしく、それでいて命令だった。
「お前、その斧じゃないと落ち着かないんでしょう」

しばらくの沈黙。
サタヌスは鼻をすすり、かすかに笑った。
「……ああ、でさ、プル公」
「はい」
サタヌスはポケットを探り、掌に小さなものを乗せて見せた。
月明かりの中で、それがきらりと光る。
「これ、パーツとして組み込んでいい?」
それは――ネムがかつて大事にしていたぬいぐるみの“ボタンの目”だった。
かつてのサンリオキャラの、片方の瞳。
裂かれた布から千切れたまま、虚空を見つめていた。

プルトは目を伏せ、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「……よろしい」
彼女は静かに頷いた。
その頷きには、死者への許しと、生者への祈りが同時に宿っていた。

サタヌスは砕けたアダマスを前に座り込む。
手のひらを翳すと、刃の破片が空中に浮かび上がった。
その動きはどこかぎこちなく、だが真剣だった。
破片同士が静かに共鳴し、細い光の糸で繋がっていく。

そして――時計の針の音がした。
カチ、カチ、カチ……。
どこからともなく聞こえる懐かしい音。
それはまるで、“死”が一時停止した世界で“時間”が再び動き出す合図”のようだった。

サタヌスの掌が震える。
光が彼の胸元へと流れ込み、砕けた金属が形を取り戻していく。
刃が伸び、柄が再生し、中心部には――あのボタンの目がはめ込まれていた。
黒いボタンが、わずかに光を放つ。
それは瞳ではなく、記憶。
ネムの“見ていた世界”が、今もそこに宿っていた。

プルトは少し離れた場所で、それを見ていた。
表情は変わらない。
けれど、その視線はどこかやわらかい。
「……よくできました」
サタヌスは無言で頷いた。
手の中のアダマスが、かすかに脈打っている。
それはもう“武器”ではなかった。
生者と死者の記憶を縫い合わせた、“鎮魂の器”。

プルトがゆっくりと背を向ける。
「それでいい。魂は、使われるより、継がれる方が美しい」
サタヌスは立ち上がり、アダマスを肩に担ぐ。
声はまだ震えていたが、確かに“前に進む者”の声だった。
「……なぁ、プル公」
「はい」
「次は……ちゃんと、誰も泣かねぇデートにする」
プルトは一瞬だけ、息を止め――微笑んだ。
ほんの、ほんの少しだけ。
廃モールの奥、止まっていた蛍光灯が“チリッ”と鳴って光った。
世界はまだ壊れたままだが、時間はもう――動き出していた。

荒野の風が吹いていた。
砂に半分埋もれたバス停が、まだそこにあった。
サビだらけの鉄板が陽光を反射して鈍く光り、
かつて「∞分待ち」と書かれた看板だけが、奇跡のように健在だった。

足元のコンクリートは割れ、そこから小さな白い花が群生していた。
風に揺れるたび、花弁が光を撫で。
ひとつひとつが、まるでこの荒地に生き残った魂のように見えた。
ネムはいない。
けれど、その場所に――新しい影があった。
緑の髪を太陽が照らし、その光が角度によって構造色のように虹を宿す。

メーデンがしゃがみ込み、花に指を伸ばした。
「これ、“ノユリ”ですよ」
声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。
「荒地でも育つんです。
他の花が枯れるような場所でも、平気な顔して咲くんです」
風が通り抜ける。
花弁がメーデンの髪をかすめ、白と緑がふわりと混ざった。

「綺麗なのにたくましいなー……」
メーデンはスマホを向け、シャッターを切る。
カシャッという音が、小さく空へ吸い込まれていく。
サタヌスは少し離れた場所で腕を組み、笑った。
「綺麗なのにタフ、ね」
その言葉を転がすように口にして、少しだけ目を細める。
「……あいつみたいだな」
風が髪を揺らす。
砂の匂いが鼻を抜け、遠くでカラスの鳴き声がした。

「気に入ったぜ、お前」
メーデンが顔を上げた瞬間、一枚の花びらが風に乗った。
白い軌跡が夕陽のオレンジを横切り、
やがてバス停の座席――あの日、ネムが座っていた場所に静かに落ちる。

その瞬間、風が止まった。
花びらはもう動かない。
けれど世界は、確かに前へ進んでいた。
かつて無限に待たされた“バス停”の時刻表には、
いつのまにか新しい行き先が書き足されている。

行先:冥界から続く日常。

ネム編――End.