世界が、鳴いた。
地面が軋み、風が悲鳴をあげ、空そのものが裂けた。
白銀の社の周囲から、無数の腕が伸びる。
それは人の腕でも、霊の腕でもなかった。
まるで死そのものが形を持ったように、大地の奥から蠢き出ていた。
「私は、千の命を日が沈む間に奪う」
「それが──片割れとの誓い」
伊奘冉の声が響くたび、空気が黒く染まる。
その音は祈りのようであり、同時に呪いでもあった。
プルトは鏡を握りしめ、顔をしかめる。
「ダメだ……! 冥府そのものには、冥王と言えど分が悪い……!」
ハオが苦笑を浮かべ、額の結晶を光らせる。
「加具土じゃないケドネ、多分あの神より燃えるヨ」
レイスは笑った。
恐怖も焦りもない。ただ、覚悟の笑み。
「これを使うしかなさそう、だなっ……!」
「俺が灰になったら──宇宙葬でもしてくれ」
その刃の根元に、陽炎と鬼火が絡み合い、炎の竜が形を成した。
レーヴァテインの刃が唸り、赤い炎が空間ごと薙ぎ払う。
その熱と色に、伊弉冉が一瞬だけ顔をしかめる。
伊弉冉の紅い瞳が、わずかに震える。
あの火――あの赤は「母神」の本能に刺さる色だ。
「……やめろ。その色、その熱……!」
「その炎は──加具土命の……!!」
まるで記憶そのものが逆上るような、怒りと恐怖が入り混じる声音。
神でありながら、母でありながら、“炎”にだけは抗えない。
プルトは静かに鏡を握り、ぽつりと呟く。
「可哀想な加具土命」
「生まれた。というだけで、母にこうも嫌われるなんて」
その声は冷たくも優しい。
冥王としてでも、敵としてでもなく、
ただ「生まれてしまった子」への共感だけが滲む。
レイスは剣を構え直しながら、女神とプルトを見比べる。
ハオもカリストも、言葉を失って立ち尽くす。
伊弉冉はひときわ強く、首を横に振る。
「……その火は、私を焼いた。その子は……!」
声は、憎しみと赦しが混ざり、涙になって滴る。
それでも、火は止まらない。
プルトはほんのわずかに笑みを浮かべる。
「“母の呪い”ですね」
「それでも生きてしまうんです。火も、私も、加具土命も」
社が赤黒い光に染まった瞬間、伊弉冉の絶叫が空間を切り裂く。
「八雷神!忌まわしき炎を引き裂け!魂諸共!!」
その声に呼応するように、
背後の暗闇から禍々しい“八つの腕”が蠢き出る。
どの一本も稲妻を帯び、空間ごと切り裂く雷の化身。
空気が焼け、世界そのものが引き裂かれる感覚。
四人は咄嗟に後退するが、圧倒的な死の力が飲み込もうとする。
「雷神……!」
「退けるには……桃が要るのに、ここには……!」
霜月神苑には“逃げの桃”が無い。
絶望の淵、だが――ハオが一歩前に出て、懐から何かを取り出す。
小さな手のひらの上に、三つの桃が現れた。
「おっと!桃ならここにあるヨ」
ハオは片眉を上げて、にこりと笑う。
ひとつは青く、ひとつはほんのり色づき。
最後のひとつは柔らかく熟れ、親指の跡が残るほどだ。
「な、何処から桃を……?」
「仙狐にとって桃はオヤツだからネ」
「はいどうぞっ!!解脱の味ダヨ!」
冗談めかした声。
けれど、その手に握られた仙桃は確かに“神話のキーアイテム”そのもの。
雷神たちが轟音とともに迫る。
ハオは桃を構えて、舞台の中心へと放り投げる。
空中で回転し、淡い光が走る。
「雷神退散――桃の加護!」
雷が唸り、腐臭と死の湿気があたりを包む。
だが、そのただ中に、ありえないほど鮮烈な“桃”の芳香が走った。
八本の雷神の腕が、ハオの投げた仙桃に触れた瞬間――。
稲妻はねじれ、禍々しい闇の腕が弾かれ、空間に一瞬だけ“春の色”が差し込む。
「桃……ッ!あの日と同じ……!」
伊弉冉の顔が苦悶に歪む。
雷神たちは束の間、動きを封じられる。
女神の瞳が痛みと怒りに揺れた。
レイスは膝を折り「今だ」と腹の底で呟く。
刀の柄に指がかかる。
次の一撃で、必ず終わらせると、全身が叫んでいた。
その時だった。
レーヴァテインの核から――再び「声」が響く。
機械的でありながら、どこか母音に温もりの残る、不思議な声。
〔SYSTEM:READY〕
〔CODE SINMORA : EMERGENCY RELEASE〕
〔TARGET:冥府神核〕
刃の根元が青く光り、刀身を伝って熱と音が世界を震わせる。
それは、神話の火でもあり、人間の祈りでもあった。
「……一閃ッ!!」
レーヴァテインが振り抜かれた瞬間、
火線が空を裂いた。
冥府の赤黒い空が真っ白に染まり、音が消えた。
伊奘冉の胸部を貫くように炎が走り“命核”が焼ける。
八つの腕が同時に叫び、地脈がひび割れる。
轟音と共に、屍の骸が崩壊していく。
黒い世界が光に包まれた。
光の中から――新たな“死の形”が、ゆっくりと立ち上がった。
白無垢のような装束、朽ちた絹糸のような髪。
青黒く冷たい肌、そして、頬を伝う紅い涙の痕。
その顔は怒っていない、祈ってもいない。
ただ、哀しみだけが滲んでいた。
伊奘冉は静かに、口を開いた。
「私は──ただ」
「“振り向いてほしくなかった”だけなのだ……」
声は、あまりに穏やかだった。
その言葉が、戦場に吹く冷たい風の中で溶けていく。
かつての“黄泉平坂”。
伊奘冉は、逃げる伊奘諾に向かって「振り返るな」と言った。
けれど、彼は振り返った。
そして見たのは、“死の穢れた姿”になった自分。
その瞬間、愛は終わり、誓いは呪いになった。
彼女が望んだのは、拒絶でも報復でもない。
ただ“あの日”に戻れないことを、世界に知らしめることだった。
伊奘冉の涙が地を濡らす。
それは血のように赤く、しかし炎よりも温かかった。
レイスが剣を下ろす。
その顔には怒りも勝利もなく、ただ静かな理解があった。
「……そうか」
「“怖い”ってのは、こういうことだったんだな」
レーヴァテインの青白い残光が、空気を切り裂くように消えた。
辺りは一瞬、完全な静寂に包まれる。
息をする音さえ、誰にも聞こえなくなる。
ハオが、震える声を漏らす。
「アレが本当の女神様ナノ……!?」
カリストは青ざめた顔で、必死に声を絞る。
「おそらく……っ、イザナギ殿は?彼は何処ですか!?」
レイスが眼を細め、社の奥をじっと指差す。
「多分、あそこだ」
女神――伊奘冉の胸元には、禍々しい鳥籠の装飾が浮かんでいた。
鉄と黒曜石を組み合わせたような、不気味な檻。
その奥に、イザナギが囚われている。
光も届かない闇の中、イザナギは眠るように横たわり。
微かな微笑みと、一筋の涙を流していた。
背景で、鐘の音が響く。
「……振り向いたのは、そちらでしょう……」
「私は、ただ……隠したかっただけなのに……あの姿を……あの涙を……」
伊奘冉の声は、冷たくもどこか哀しい。
その想いが檻ごしに満ちてくる。
レイスがまっすぐ女神を見つめる。
その声は、揺るぎない。
「女神様!そろそろ返せよ。俺のダチを……!」
歯を食いしばり、拳を握る。
「……多分こいつが赤いうちは、坊ちゃん(イザナギ)助け出せねぇ」
「レーヴァテインが──“青く”なれば…」
ハオが動揺しながらも必死に尋ねる。
「ほ、方法は!?ナニすればいいのヨ!?」
レイスの声が神域を揺らす。
「……わかんねぇッ!!!」
「けどな─聞こえてんだろ、イザナギ!!」
「だったら呼び戻すだけだ!!!」
鳥籠の檻が、イザナギを深淵の小箱のように閉じ込めていた。
白無垢の女神――その胸の奥で、眠る友の姿が震えている。
プルトが鏡を握りしめる。欠片の縁が冷たく、だが確かに脈打つ。
「鏡越しに見ろ」とだけ言って、胸元のロケットを額にかざす。
光が震え、鏡の面がひび割れて散るように世界が裂ける。
檻の中のイザナギは、微笑と涙を同時に湛えていた。
見てはならぬものを見たその表情が、プルトの目に刺さる。
ハオの額の結晶が弱く光った。声は静かだが、その抑揚には底知れぬ熱がある。
今は赤い、レーヴァテインはまだ「災」の色を纏っている。
だが、その刃端の周縁に、淡い蒼の粉がほんの少しだけ滲み始めた。
プルトが低く囁き、鏡の面に指を触れる。
「想いを映して。貴方たちの“帰りたい”って気持ちを、全部この鏡に映し出して」
その命令は簡潔で、重い。仲間たちが一瞬視線を合わせる。
ハオが小さく歌うように声を出す。
歌詞などない、ただの旋律だ。
だがその旋律は浄玻璃鏡に共振し、夜気の粒子を震わせる。メ
ロディは仲間の記憶を呼び覚ます——。
イザナギのぎこちない笑い、夜に交わした冗談、ふざけ合った日々の断片が一斉に流れ込む。
カリストは胸の内を叫ぶ。言葉にならぬ言葉を紡ぐ。
「散り際の美学を……お前に返す」
彼の声は軍歌でも祈りでもない。
純粋な「惜別」の形だ。
刃は冷気を帯びたまま、内側から温度を上げていく。
レイスは叫ぶ。
拳でレーヴァテインの柄を握り直し、全身の血を一瞬止めるように集中する。
「坊っちゃん!!!思い出せ、分かれの前のくだらねぇ話を!」
「お前は笑ってたよな!? それを思い出せ!!」
その一言が、檻の奥のイザナギの表情をわずかに揺らした。微笑が震え、涙が一粒落ちる。
数字が跳ねる。
700℃が、じりじりと上がる。1500℃、3000℃、5000℃。
仲間の想いが、刃に注がれたのだ。
赤に混じって、刀身の中心から青い光が芯になる。
レーヴァテインの刃が月光のように青白く、しかし灼熱を携えて光を帯びる。
竜の形が青い炎に変色し、空気が音を吸い込む。
だが鍵はまだ遠い。10,000℃という桁は、ただの熱ではない。
人の「火」と「想い」が極限まで結びつく瞬間にのみ到達する数字だ。
火花が空間を満たし、レーヴァテインの刃が呻く。
レイスの両手は、握るだけで焼けるような熱さだった。
“ロキがユグドラシルを焼き尽くした”という話はどこか現実味がなかった。
こんな一本の剣で、世界樹が燃やせるわけがない――そう思っていた。
けれど、今――手の中で熱が世界を押し返している。
この剣は、たしかに“世界を焼き切る火”そのものだった。
ロキの伝説は誇張でも神話でもなく、
「これは、現実だ」と骨の芯まで思い知らされる。
「ロキって奴が世界樹燃やせた理由、わかったぜ」
「……まだだッ……まだ燃えろ!」
剣先が轟音を立てる。
赤い炎の中心で、ほんのわずかに、紫がかった蒼炎が生まれ始めていた。
その色は、“怒りの炎”ではなく“願いの火”の色――。
檻の中のイザナギの胸が、わずかに上下する。
彼の夢うつつの表情は、レイスたちの声に確かに触れていた。
蒼炎の芯が震え、レーヴァテインの刃先に蒼い雨が降るように光が宿る。
青くなる瞬間は、怒りでも祈りでもなく、“誰かを帰すために燃える”その瞳の色だ。
目の前の檻の奥で、眠った男の唇がかすかに震える。
世界の呼吸は、その小さな震えにかかっている。