冥界-伊弉冉編 - 4/6

あれほど荒れ狂っていた冥府が、まるで胎内のように静まり返っていた。
地鳴りも炎の唸りも消え、ただ伊奘冉の声だけが空を支配する。
「ああ……ようやく、ようやく……私の元へ帰ってきてくれた……」
その声は風のように柔らかく、どこか懐かしい響きを帯びていた。
それと同時に、レーヴァティンの刀身が紫がかった青に染まり始める。
温度計が狂ったように跳ね上がり、蒼炎ゲージは8000℃を突破。
伊奘冉は胸の鳥籠に手を添え、まるで赤子をあやすように微笑んだ。

「この子を……素戔嗚を……奪わないで……」
「お願い……もう誰も、私からこの子を奪わないで……」
声が届いた瞬間、レイスたちは体を動かせなくなった。
神の“情”が、呪いのように心を縛る。
それでも、心だけが聞こえていた。

「……温かいのに……怖い……」
「アレが“神の愛”なら……私は、人間のままでいいヨ……!」
画面が歪む。
青い炎があたり一面を包み込む。
伊奘冉の髪が風もないのに大きくなびいた。
胸元の鳥籠が淡く光り、そこからイザナギの声が流れ始めた。

「レイス……来たの?」
「お前もここに入りてぇの?」
「ここさ、すごく居心地良いよ」
「二度と起きたく……ないくらい」
その声はやさしく、穏やかで、
けれどあまりにも“死んでいる”。
魂が言葉だけを残して、殻だけが語っているようだった。
「生まれ変わらなくていいの。疲れたでしょう……?」
「ここでは、痛みも怒りも、すべて静かに終わるのよ」
「不老不死なんて、苦しかったでしょう……?」

死の神の囁きが、黄泉平坂カルテットの脳裏を貫く。
耳ではなく、心の奥で響く声。
彼らの魂を“眠り”へと誘う歌。

レイスがゆっくりと顔を上げる。
炎の竜の残光が、その背中に影を落とす。

「そうか……」
「これが不死身だろうと殺すトリックか、伊奘冉……!」
息を吸い込み、
喉の奥から絞り出すように叫ぶ。

「……ふざけんなよ」
「俺はな、どんなに“終わり”が欲しくなっても──」
「まだダチに“おかえり”って言ってねぇんだよ!!」
世界の色が、音もなく切り替わった。
地獄の熱と赤黒い混沌は蒼い炎に呑み込まれ、
レーヴァテインの刃先から舞い上がる蒼い火の粉が、
むしろこの世の終わりを“祝福”しているようにさえ見えた。

三人がそれぞれ、ぽかんとした顔で剣を見つめる。
カリストが、呆然としたままぽつりと呟く。

「これが、世界を焼いた炎……?」
その声は驚きというより、美しさへの畏怖だった。
ハオが汗だくのまま、眩しそうに剣を覗き込む。
「オゥ。想像より三倍綺麗だね、アツさも」
プルトは腕を組み、微かに口元を緩める。
「ええ。世界の滅びは、いつだって美しいですよ」
ほんのわずかな間、誰もが“終焉”を前に、ただその蒼を眺めていた。

地獄の最終決戦は、神々の戦いなどではなかった。
それは――ただただ、暑かった。
周囲の空気はもはや液体のように揺らめいていた。
呼吸をするだけで肺が焼ける。
皮膚が熱に軋み、地面の岩は赤く光り始める。
地獄とは、たぶんこういう場所のことを言う。

プルトは一歩も動かず、氷のような声で言った。
「……早くして」
静かすぎる声は、逆に凶器のようだった。
「このままじゃ、私の“血”すら蒸発しそうなんですけど」
細い指先から煙が立ち上る。まるで本当に、沸騰しているようだ。
「……お前、自爆でも狙ってますか?」
その視線に、レイスが思わず身を竦めた。

ハオは少し離れたところで首元を扇いでいる。
「アッツいネー……夏の厨房より熱いヨ~……」
しなやかな指先で髪をかき上げながら、どこか呑気な声を出す。
「レイス、私が焼き狐になったら責任取ッテ?」
その言い回しがあまりに気だるげで、誰もツッコミを入れられない。

そして、カリストは明らかに限界だった。
肌に纏わりつく熱気に頬を紅潮させ、声を震わせながら言う。
「早く、してください……氷の身には少々、熱すぎます……」
白い息が揺れ、上着の襟を掴んだ手が緩む。
「ああ……と、溶ける……」
そして、顔を上げて、真剣な声で言った。
「……脱いでもいいですか?」

レイスの目が飛び出そうになった。
「やめろおお!!今ここで脱ぐなぁ!!!」
彼の叫びが冥府の奥まで響いた。

プルトが横目で冷たく呟く。
「お前、確かユピテルより体格が……」
その一言でハオが腹を抱えて笑い出す。
「刺激物だネー」
カリストは抗議のように眉を上げた。
「だって本当に熱いんですよ!!上着だけですから!?」
レイスは顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「ダメと言ったらダメだぁ!!!」
レイスが、息を吸った。
喉の奥で、炎のような音が鳴る。

「……あーもう! 耐えろよ俺の身体!!」
声が震え、拳が握られる。
「坊ちゃんを、燃やすわけにはいかねぇんだよ!!!」
叫びが、火線のように空を裂く。
世界の終わりを、誰もが見ていた。
それは物理ではなく、存在そのものの限界を超えた熱。
炎という概念の、最終到達点だった。
伊奘冉が顔を上げる。
その目に宿るのは怒りでも憎しみでもなく、どうしようもない哀しみ。
その声は神の怒号であり、母の慟哭だった。

「ならばお前たちも──死ねばいい!!!!!」
大地が鳴り、空が裂けた。
冥府全域に波紋のような衝撃が走り、黒い光が全方位へと解き放たれる。
魂そのものを破壊する“死の波動”。
触れた瞬間、レイスたちの生命値は一斉に消えた。
それでも彼らは立っていた。

レイスの周囲、冥府の闇が軋むたび。
空間の裂け目から無数の“亡者の手”が現れる。
掴もうと、引きずり下ろそうと、怨念が彼の構えに殺到する。
だが蒼炎に触れた瞬間、すべてが音もなく焼かれていく。
黒い腕は苦しむこともなく、ただ静かに、光に溶けて消えた。
地獄の炎と言うには、その蒼はあまりにも美しかった。

炎は破壊でも呪いでもなく、世界の最果てで“魂を赦す”祈りそのもの。
レイスの目はその光をただ真正面から見据えている。
「……チッ、ふざけやがって……」
青白い炎が剣を包み、骨の奥まで焦がす。
「けどよ、覚悟なんざとっくに──」
「──決まってんだろがよ!!!!!!」
世界が閃光に飲まれ、プルトは血に濡れた頬を拭いもせず、笑った。
「…じゃあ、見せてくださいよ……“英雄の本気”ってやつを」
その声は限界を超えた人間の、それでもなお生きようとする気配だった。
ハオは微笑んでいた。

「料理人としてはオススメしないヨ……でも、楽しみにしてる♪」
手の中の光球が爆ぜて、炎の中に祈りの形を描いた。
カリストは冷気を剣に込め、頬を焦がす蒼光を見上げた。
「レイス殿……行ってください。あなたが導く終焉を……」
世界が反転し、レイスが剣を構える。
蒼焔に包まれた刀身は、もはや太陽そのものだった。
熱で視界が歪み、空気が悲鳴を上げる。

「大体なぁ、おまえ……我が子だっていうんなら」
「そいつの意思ぐらい……汲み取ってやれよ」
伊奘冉は何も言わない。
だが、深淵のような瞳がわずかに揺れた。
沈黙の中で、初めて“神”が人間の言葉に傷ついた。

「悪いな──俺ァ大物全般苦手なんだよ」
「デカブツは全部……焼き払う主義だ!!」
世界は一瞬、夜を失った。
背景が暗転し、巨大な黒く枯れた世界樹が空に浮かび上がる。
その根は冥府を、枝は天界を貫き、レーヴァティンはそれすらも焼き裂いた。

レイスは大上段にレーヴァテインを振りかぶった。
蒼炎は天井まで届き、地獄の空間そのものを焼き尽くさんと揺れる。
その目は、熱と氷がせめぎあうように鋭い。
何が何でも、この檻を焼き切る――そんな“鬼”の表情。
……だが、その瞳には、かつて剣を握ったもう一人の男――
数千年前、世界樹を焼き払ったロキと全く同じ光が宿っていた。

過去のロキ、そして今のレイス。
二人のシルエットが蒼い炎の中でひとつになる。
高く、青白い炎を掲げ、両者の声が時を超えて響き合う。
「神を気取る者よ!!」
「今ここに!!傲慢の報いを受けよ!」
その一撃が振り下ろされる直前、空間そのものが凍りついた。
世界の終わりが、存外に美しい“蒼”で満たされていく。

「《世界焼却・終ノ炎(ラグナロク・アジュール)》ッ!!!!」
蒼の太陽が弾け、炎の奔流が神を、鳥籠を、そして世界そのものを貫く。
計測が不可能な熱に、存在の法則が蒸発した。
伊奘冉は、跪いていた。
燃え尽きながらも崩れず、白無垢のまま、ゆっくりと微笑んでいた。
煤の涙が頬を伝い、言葉が零れる。

「あぁ……加具土……またも、私を……」
「……否。違う、これが……お前達の……“火”…………」
「温かい……火だ……」
青い炎が彼女の体を包み、死の女神は白無垢の姿へと戻っていく。
怒りも憎しみもない、穏やかな笑みだけを残して。

そして、風が吹いた。
灰の中に桜の花びらが一枚、舞う。
それが地に落ちた瞬間、冥府の炎は静かに消えた。
神の声はもうなかった。
ただ――人間たちの息だけが、確かに残っていた。
終ノ炎、収束。
世界は焼かれ、そして赦された。