あの青い焔が空を裂き、世界そのものを焼き尽くしたあと、
残ったのは静寂と、淡い光の粒だった。
花びらのようにひらひらと舞う残滓が、ゆっくりと空に溶けていく。
それは悲しいほど美しく、そして儚かった。
伊奘冉の名も、声も、もうどこにもなかった。
その中心に──かつて“鳥籠”があった場所に、イザナギが倒れていた。
レイスが剣を杖代わりにして駆け寄る。
足音が、崩れた大地にかすかに響く。
「坊ちゃん、起きな」
かすれた声でそう言いながら、そっと肩を揺らす。
イザナギがうっすらと目を開けた。
その瞳はまだ焦点を結ばず、夢と現の境を漂っていた。
「んんん……あぁ? ここは……」
「地獄の夢、見てたような……気がするんだけど」
隣でカリストが膝をつき、慎重に手を差し出す。
「急に立ってはだめです。まず上体だけ起こして、ゆっくり……」
プルトは腕を組んだまま、いつもの冷静さで言う。
「貴方、盆から様子が変だったそうですね。“病み期”かと思いました」
ハオはいつの間にかカバンを漁っており、
おにぎりと水を取り出してイザナギの手に押し付けた。
「はい、はい、まずは水ネ。お腹も空いてるでしょ?
ひとまずニヴルヘイム戻ろう。話すこと一杯ダヨ~」
イザナギは、ぼんやりと周囲を見回して、ぽつりと言った。
「……何こいつら。レイス、ダチか?」
レイスはおなじみの顔で鼻を鳴らす。
「近い。命懸けて一緒に冥界歩いたから、だいたい近い」
イザナギは首を傾げ、左腕を見下ろした。
そこには、青黒く光る“神の象徴”がまだ残っていた。
レイスがその光を横目で見て、いつも通りの軽口で言った。
「やっぱ坊ちゃん、腕が本体なのな……」
声には安堵の響きが混じっていた。
イザナギは腕をくるくる回して、少し驚いたように笑う。
「あぁ、不思議なんだわ」
「今まではさ、“引っ張られてる”感覚がずっとあったんだよ。
でも、それが消えた。ふつーに動く」
「まぁ……普段使いは難しいけどな」
おにぎりを掴んだ瞬間、指先の力加減を誤って潰しかける。
ハオが慌てて手を抑える。
「ちょっと! まずは人間モード慣れてからネ!」
その様子を見ながら、ハオがふっと微笑んだ。
「レイス、多分……伊奘冉に通じたんだよ。あの言葉が」
レイスは剣の残光を見上げ、わずかに目を閉じる。
「……あぁ、そう信じたいな」
短い沈黙。
空気が落ち着きを取り戻した、ほんの一瞬。
──そして。
「なぁ!!お前らマジで何見てきたん!?伊奘冉って何!?誰倒した!?」
「俺いつ寝た!?誰か俺にわかりやすく話せ!!おい!!!」
三人の視線がそろって彼に向く。
カリストが、目を細めてため息をついた。
「そこまで興奮する体力あるなら、もう大丈夫そうですね」
ハオが笑いながら立ち上がる。
「じゃあ、皆でごはんネ♪ まずは胃を起こしてからダヨ」
プルトは無言で頷き、レイスは呆れ顔で頭を掻いた。
こうして、冥界の危機は去った。
けれど――イザナギに“何が起きたか”を説明するという。
地獄の第二ラウンドが、今始まったばかりだった。
青い花びらが一枚、ゆっくりと地に落ちた。
それは、戦いの終わりと、新しい始まりの合図のようだった。
霜土神苑の空気は、帰り道でも変わらず透き通っていた。
死の匂いも、戦いの焦げ跡も消えて、ただ静謐な白銀が広がっている。
冷たすぎて痛いはずの風が、いまは妙に心地よかった。
ハオが小さく伸びをして、ポーチをガサゴソと漁った。
「ねー疲れたヨー」
彼女の声が氷面に反射して、薄く響く。
袋から取り出したのは色とりどりの飴玉で、光が反射して宝石みたいにきらめいた。
カリストは歩きながら何度も息を整えている。
魔力切れのせいで足取りはおぼつかないが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
誰も何も言わない。
それだけで、十分に「お疲れさま」という意味だった。
やっとのことでニヴルヘイムの門が見えたとき、明るい声がした。
「やぁ~お帰り、勇者クンたち」
ロキが立っていた。
片手にはワイングラス、もう片方の手で楽しげにひらひらと手を振っている。
「ユグドラシル級の大物、燃やしたようだね? レーヴァも満足そうだ」
イザナギが眉を上げる。
「レーヴァ?」
ロキは笑って、レイスの手元を顎で示した。
「その剣だよ」
イザナギは沈黙し、数秒後に爆発した。
「……何それ!!? SF!? カッコよすぎねぇ!?!」
レイスは深くため息をつきながらも、笑って答えた。
「あぁ。いつもの坊っちゃんだ」
レーヴァテインはレイスの腕の中で微かに光を放っていた。
ノズルの隙間から火の粉が一粒、ゆっくりと舞い上がる。
まるで満足げに息をついているようだった。
奥の方から甘い匂いが漂ってくる。
フェンリルがエプロン姿でパンケーキを焼いていて、
隣ではヨルムンガンドがフォークを持ったまま「……うまい」と呟いた。
テーブルの向こうでは、ヘルが氷のティーセットを広げて紅茶を注いでいる。
その光景は、まるで地獄ではなく、どこかの古い喫茶店のようだった。
冥界の夜は、妙に穏やかだった。
かつて神々が沈んだ氷の大地の上、いまはただ暖炉の火だけが、柔らかく部屋を照らしている。
レーヴァテインの火は「もう戦いは終わった」と言わんばかりに、穏やかで、温かい。
ソファには五人がずぶ濡れの猫みたいに沈み込んでいた。
顔には疲労、体には小傷、それでも笑っていた。
冥府の神を倒した直後とは思えないほど、ゆるい空気が流れている。
だがその中で、ひとりだけテンションの上がり方が明らかにおかしい男がいた。
イザナギである。
ソファの上で、例の“神殺しの剣”を分解寸前まで覗き込みながら、
子どもみたいに目を輝かせていた。
「なぁ、これ! ノズル、噴射口だろ!?」
「バーニア出力どうなってんの!?てかこれ何燃料!?!?!」
ハオが口に飴を放り込みながら、半目で言った。
「落ち着いてネー……それ、世界を焼いた剣ヨ」
ロキがワインをくるくる回しながら、面倒くさそうに笑う。
「こいつは僕がスルトから……いや、“もとい”だね。
世界樹が燃えて、持ち主も燃えちゃってね。
世界樹焼失の主犯である僕が、消去法で持ち主になったわけ」
レイスは頭を抱えた。
「だからってそんな危険物、託すなよ!? 命がいくつあっても足りねぇ!」
ロキは軽く肩をすくめて、あっけらかんと笑う。
「いやぁ、だって伊奘冉だよ?伊奘冉」
「もう“神の焔”でも無理じゃん。神焼く勢いで行かないと」
「勢いの問題じゃねぇだろ……」
レイスは呆れながらも、あの青い炎が伊奘冉を包んだ瞬間を思い出していた。
確かに、あの時ばかりは“神の焔”ですら足りなかった。
イザナギはレーヴァテインの側面をじいっと見つめていた。
側面のノズルを指先で軽く撫で、真剣な顔で呟く。
「……これ、マジで推進装置なんだな」
「出力計算したら、これ……地上圏脱出できるんじゃね?」
レイスが即座に立ち上がる。
「やめろ!今すぐその計算やめろ!!!」
カリストが額を押さえながらため息をつく。
「まったく……彼が元に戻ったことだけは、素直に喜ぶべきですね」
プルトが紅茶を注ぎながら静かに言った。
「病み期から“工学期”に変わっただけでは」
ハオが笑いながら唐揚げを配る。
「いいじゃない、平和の証拠ネ」
レイスは隣でため息をつきつつも、少し笑っていた。
「……まぁ、あれが坊ちゃんだな」
イザナギはノズルを覗き込みながら、きらきらした声で叫んだ。
「これ、空飛べるぞ!!!」
ロキがワイングラスを掲げ、にやりと笑う。
「だろう? 神を焼いた焔が、今や人間の玩具だ。美しい進化じゃないか」
レーヴァテインの刃先が小さく火花を散らした、まるで笑っているように。
そしてその笑い声が、冥界の夜をいつもより少しだけ明るく照らしていた。
永遠の雪が降り続けるニヴルヘイムの地平線は、相変わらず静かで。
どこか“時間”という観念すら溶けてしまいそうなほど白かった。
氷の宮殿には凛とした空気が張りつめ、寒いのに、妙に温かい。
それは──ここで出会った人々の温度が、確かに残っているからだ。
「どうするレイス君? レーヴァ、よかったらあげようか」
ロキの言葉にレイスは剣を見つめ、ゆっくりと首を振る。
「……いや。強すぎて手に余る。それに伊弉冉以上の化け物となると、もう浮かばない」
「それよりここで暖炉でもやってもらう方が平和的活用だろ」
ロキは「うん♪休ませるのも大事だね」と子供みたいに笑う。
「レーヴァも久しぶりに大物燃やして疲れちゃったようだし、休ませないとね」
そしてロキは、九つのロックをひとつずつ剣にかけていく。
その手つきは驚くほど丁寧で。
まるで「眠りにつく子供」に子守唄を歌ってあげるみたいだった。
〔LAEGJARN LOCK〕
〔LAEVATEINN SLEEP〕
静かな鐘のような、システム音が冥界の空気に響く。
剣は淡い火花をひとつだけ散らし、静かに“眠り”に落ちていく。
レイスはその景色を、ひと呼吸してから“指フレーム”で切り取った。
親指と人差し指で四角をつくり、目の前の世界をそっと閉じ込める。
まるで写真の代わりに、記憶の奥へ焼き付けるように。
ゆっくり腕を下ろし、満足げに息を吐く。
「……よし。これで忘れねぇ」
そして、振り返る。
「じゃ俺ら、そろそろ此岸に帰らせてもらうよ」
氷の玉座からヘルが姿勢を変え、首を傾ける。
「あら。もう帰るの?」
その声音は静かだが、どこか寂しさがあり、やっぱり母性の片鱗を感じさせる。
レイスは短く笑いながら肩をすくめた。
「冥界に生きたヤツは、長居するもんじゃねぇって聞くしな」
ヘルはわずかに目元を緩める。
「えぇ、その通りよ。特別に──夏の間は来ることを許すわ」
その言い方が、本来なら“許す”などという次元じゃなく。
“会いに来てくれるのを期待している”のがバレバレだった。
ヨルムンガンドがとことこと駆け寄ってきて、小さな手を振る。
「またきてね」
フェンリルは豪快に笑い、レイスの背中をドンと叩く。
「おいレイス! また公園バトルしようぜ!」
「おう、受けて立つわ」
レイスは一歩退き、ヘルの方へ軽く手を上げた。
「ありがたい。……では女王様、またな」
カリストは礼をし、ハオはいつもの笑顔で手を振り、
プルトは静かに一礼し、イザナギは「またメシ食いに来る!」と言って笑った。
冥界の門の前、五人が帰還の準備をしている。
ロキは手を振りながら、いつもの悪戯っぽい笑顔を見せる。
「夏が終わるまでは、ちょくちょく来なよ? あの子(ヘル)あぁみえて寂しがり屋でね」
「ほぉ、それで夏の間だけ…て妙に期間が長いのネ?」
ハオが首を傾げ、ロキは人差し指を口に当ててウィンクする。
「本人に言うと怒られるけど、バレバレだよ。んじゃ頼むね?」
カリストは真剣な顔で頷く。
「ええ…氷美対決、今度こそ勝ってみせますから」
レイスは呆れ顔。
「またやるのかよ……」
「負けたらアイス百個食べてあげるヨ~」
「望むところです!」
ロキは一歩下がって、手を振る。
「じゃ、またね。楽しみなよ、命ってやつを。」
五人は揃って歩き出す。
雪の上に、五つの足跡が並ぶ。
帰り道のその後ろ姿が、妙に頼もしくて、冥界には珍しいほど“生”の匂いがあった。
──ヘルは見送る間、ほんの少しだけ目を細めた。
冷たい風の向こう、五人の背中が小さくなっていく。
感じ取っていた。
夏が終わるまでは、きっとあの子たちはまた訪れる
あの面々は、“生”を抱えてここへ来る。
そしてまた、“死”を連れて帰っていく。
彼らが歩き去ったあと、静かに雪が降り積もる。
けれど、その雪はどこか温かかった。
冥界の夏がはじまる。