死京の霞が薄れていくとき、最初に見えたのは鳥居だった。
朱塗りの門が静かに立ち、朝とも夕ともつかない曖昧な光が境内を照らしている。
まるで“夢の出口”みたいに、音のない空間がゆっくり目を覚ましていた。
イザナギが立ち上がり、呆然とした顔で周囲を見回す。
「え? 俺フォルトゥナでぶっ倒れた筈だよな……」
「何で神社……? ていうか何処?」
レイスはポケットに手を突っ込んで、肩越しに答える。
「京都」
「京都ぉ!?」
イザナギの声が境内に響いて、鳥が一羽だけ飛び立った。
レイスは深く息を吸い、ちょっと照れたみたいに笑う。
「帰るまで時間あるから、ちゃんと説明するよ。落ち着け」
その言い方はいつものレイスだけど、どこか“地上に戻った実感”が滲んでいた。
八坂神社は観光客もいない静けさで、空気の透明度だけが妙に高い。
死京の名残がまだ少し漂っているのか、どこか現実より深い京都に見えた。
その横で、ハオがポンと手を叩いた。
「じゃ、ハオたちもそろそろお別れネー」
「ハオはのんびり京巡りでもして帰るヨ」
ひらりと手を振り「じゃあネー」と軽い声だけ残して、
頭の後ろで手を組みながら、境内の階段を下りていく。
その背中は小柄なのに大きく見えた。
冥界の深奥を歩いたあとでも、どこか“この世に属さない”仙狐の静けさを纏っていた。
ハオの影を見送りながら、レイスはつぶやくように言う。
「……あいつ、マジで仙人だよな」
イザナギはまだ現実に追いつけず、
「俺ほんとに京都なの!?ホラーなの!?生きてんの!?」
その混乱ですら“生”の証みたいで、境内の空気が少し暖かくなる。
此岸と彼岸の狭間はゆっくり閉じ、冥界の記憶を静かに運んでいた。
次に動いたのは、カリストだった。
凛と背すじを伸ばし、軍帽のつばを軽く整える。
戦闘後の疲労が残っているはずなのに、姿勢は完璧だ。
「では私も、今回の事をユピテル様にお話しなければ」
その声は、あくまで冷静で、誇り高く──そしてほんの少しだけ弾んでいる。
「道中、お気をつけて……レイス殿、イザナギ殿」
そう告げると、カリストは軍人らしい隙のない敬礼を見せた。
そして一瞬、視線が雪の舞う空へ向き。
次の瞬間には、彼自身の足元が“淡い氷”で覆われていた。
姿勢を低くし、氷の軌道が伸びる。
冬将軍の名に恥じない“加速”で、滑るように境内の影へ溶けていく。
「滑って帰りやがった……あれ絶対わざとだろ」
イザナギもぽかんとしつつ「カッケェ……」と小声で言ってた。
そして最後に残ったのはプルト。
語る必要などないとでも言うように、胸に手を当て。
映画館の支配人のように静かに一礼する。
次の瞬間、黒髪が揺れ、プルトは影と影の間を跳ねるように飛び渡った。
気づけば、もう境内にはいない。
あっという間に視界から消えていく三人の退場を見送りながら。
レイスはぽつりと言う。
「退場の仕方まで個性派そろいだな」
「思えば俺、よくあの三人と冥府下りしたわ」
隣でイザナギが眉を寄せて視線を下げる。
「……あー、レイス」
「なんか、悪い。俺がいなくなるから、だろ?」
レイスはすぐに首を振った。
そしてイザナギの背中をバンと叩く。
「気にすんな。生きて帰れたんだ、それで十分だろ」
境内を吹き抜ける風が、ほんの少しだけ暖かかった。
イザナギが顔を上げたとき、レイスはもう前を向いていた。
「帰るぞ」
レイスは片手を上げるようにして言う。
「ロストサイドに」
石段を降りていく二人の背中が、ゆっくりと鳥居の向こうに溶けていく。
まるで、彼らを見送る“何か”が息を潜めたように。
境内に残された、古い絵馬がひとつだけピントを奪う。
木肌は少し黒ずみ、縄も古びている。
それでも墨の跡だけは、不思議と薄れていなかった。
──仲直りできますように。
それは誰かの、小さな祈り。
恋人との喧嘩か、伴侶とのすれ違いか。
日常の中で、ほんの少しだけ勇気が必要な願い。
絵馬を掛けた本人は、もうここにはいない。
けれど願いだけは残っていた。
此岸と彼岸の間に立ち、揺れ続けてきた絵馬の木札が、かすかに鳴った。
—–
湿ったアスファルトと錆びた匂いが、一瞬で“現世”に帰ってきた実感をくれた。
冥界の静寂とは真逆の、雑多でざらついた街の空気。
それなのに、どこか安心するのがこの街の妙なところだった。
ガードレールにもたれて、キガが棒アイスをゆっくり齧っている。
いつもの飄々とした笑み──ただし、食べる速度だけは明らかに遅い。
レイスは呆れ混じりに笑った。
「おいおいキガ?」
「前なら一瞬で食べてたろ、そのアイス」
キガは棒の先を軽く振り、軽薄なようでいて底の見えない声色で答える。
「緑のお嬢さんから、ちゃんと味わって食べなきゃって言われたんだ」
「俺的には味わってんだけどなー」
“緑のお嬢さん”と聞いた瞬間、レイスは納得したように肩をすくめた。
キガは、まるで「おかえり」と言うように片手をふわりと振る。
その表情は笑顔なのに、キャップの下から覗く三白眼がギラついていて。
やっぱり地上で一番“危険な歓迎”の仕方をする男だった。
そして──階段を駆け上がるような勢いで、メーデンが飛び込んできた。
「レイスさん!!!京都行ったって聞いたんですけどぉ!?!?」
「非常事態なのに居ないって、大騒ぎだったんですからね!!」
相変わらずの肺活量で、レイスの胸ぐら掴む勢い。
それが逆に、帰ってきた実感をくれる。
レイスは両手を上げて笑った。
「悪い悪い。あー……なるほど、確かに“緑のお嬢さん”だな」
この街は、危険で、騒がしくて、汚くて、
それでも──冥界よりずっと“生きている”匂いがした。
「……ただいま」
と言いたくなるようなロストサイドが、そこにあった。
レイスとメーデンの掛け合いが一段落したところで、イザナギがぽそっと不満を漏らす。
「メーデン、俺もいるんだけど。俺は何もなし?」
ほんの少しだけ口を尖らせ、“優先順位”に拗ねてるのが丸わかりだった。
声のトーンも完全にいつものイザナギだ。
メーデンがハッとそちらを振り向き。
目をぱちくりさせた瞬間、声がひっくり返る。
「帰ってきた!?!?!?」
すぐさま駆け寄ってきて、勢い余ってイザナギの両手を掴む。
「イザナギ君!!キリエとセラフさん、物凄い心配してましたよ!」
「フォルトゥナにすぐ帰ってあげてください!!」
その“地上の名前”を出されて、イザナギは一瞬だけ硬直する。
たしかに伊奘冉のせいだし、自分に非があったわけじゃないけど。
急にいなくなったのは事実だ。
レイスが隣で煙草をくるっと指で弾き「腹くくれ」とだけ言う。
イザナギは東京の空気を吸いながら、
どこか遠い目で呟いた。
「……俺さ、明日ガチで凹むかも」
メーデンが首を傾げる。
「え、なんでです?」
イザナギはため息まじりに続ける。
「キリエはいいんだよ。あいつ、しょっちゅう喧嘩してるし、
途中から泣きながら訳わかんねーこと言い出すから、結局“日常”で済むんだ」
「問題は、セラフだよ」
「正論なのがこえぇんだよ。わかるだろ気持ち」
その言葉に、メーデンが即座に「わかる……」と共感の相槌を打つ。
レイスも苦笑しながら、
「さしずめ……高天原に顔出す素戔嗚てとこだな」
明日俯いてるかも、という少年にレイスは静かに「ジュース奢るよ」と言う。
そして彼がとぼとぼと歩き去り……そこには二人が残った。
「行ってみて思ったんだ」
「京都はやっぱ俺の性分に合わないな。
静かすぎて、呼吸がどこかで止まりそうになる」
「東京の雑多さがちょうど良い」
メーデンが、悪戯っぽく口角を上げて指をさした。
「そう言って、またあの塔登るのでしょ?」
指の先にあるのは──錆とひび割れに包まれた、旧・東京タワー。
レイスが“決まって何かあるたびに登る場所”。
だから彼は、ハンターオフィスの一部の連中からこう呼ばれていた。
“東京の赤い悪魔”
──塔の上で世界の残骸を見下ろす男。
レイスは鼻で笑い、コートの裾を軽く揺らした。
「そうかもな」
「壊れた世界も悪くない」
メーデンは何か言いかけたが、その横顔を見て言葉を飲み込んだ。
“冥界を歩いたあと”でも、ちゃんとこの街を好きでいてくれた。
それが嬉しかった。
レイスが旧東京タワーへ向かう足取りは軽く、夏の風がふっと吹いて。
冥界の雪を全部吹き払っていくようだった。
――夏の終わり、現世。
神社の片隅で、小さな手が精霊馬を並べていた。
「じいじ、帰ってきてね」
名もなき誰かが手を合わせる。
それは世界の命運など知らぬ祈りだったが、最も強い祈りだった。
東京タワーのてっぺん。
レイスは腕を組み、遥か下の都市を見下ろしていた。
冥界に下った時と同じ場所――けれど今度は、頭上に青空が広がっている。
風が裾をなびかせ、煙草の煙を高く吸い上げる。
“壊れた世界も悪くない”。
この景色がある限り、どこへでも帰ってこられる気がした。
季節外れの桜並木。
メーデンはひとり、花びらの絨毯を掃いている。
汗をぬぐい、ポケットからチョコアイスを取り出した。
包装紙を剥いて大きくかぶりつく。
冷たさと甘さがじわりと口に広がり、思わず笑顔がこぼれる。
キガに言っていた、「ちゃんと味わって食べなきゃダメだよ」という言葉をふと思い出す。
一仕事終えた充実感と、“今”に戻った実感が、桜の下に溶けていた。
暖炉の前。
カリストは熱心にユピテルへ冥界での出来事を語っていた。
手振りも混じえて一息に喋る彼を。
ユピテルはソファに沈み込んだまま無表情で聞き流しているようだ。
……だが肘掛けを片手で握りしめている。
それは彼なりの「聞いてる」サイン。
部屋の静けさのなかに、かすかな信頼の温度が漂う。
原宿の雑踏。
サタヌスがチョコレートで口の周りをベタベタにしながら。
嬉しそうにプルトへ何か話しかけている。
プルトは無表情のまま、ティッシュを取り出し、黙ってサタヌスの口元を拭ってやる。
派手な看板の灯りと、人混みのざわめき。
二人の間だけ、静かな優しさが流れていた。
神社の石段。
ハオは旅の荷を背に、鳥居の前で丁寧に手を合わせた。
「また来るヨ」と声には出さずに、風の向こうへ呟く。
誰もいない社の静けさのなか、
仙人らしい、どこか地上に属さない透明な背中が遠ざかっていく。
イザナギの家。
正座で後頭部に冷や汗をかくイザナギ。
目の前にはキリエとセラフ。
キリエは怒っているのか泣いているのかわからない顔で。
ついには顔を手で覆って嗚咽まじりの安堵を見せる。
セラフは腕組みを解き、表情をわずかに緩めた。
彼女たちの“家族”が帰ってきたことを、言葉ではなく所作で示していた。
イザナギは「すまん……」と小声で呟き、頭を下げた。
それぞれの場所、それぞれの日常。
冥界を歩いた仲間たちは、元の世界に戻り、
前よりも少しだけ、大事な何かを胸に刻んで歩き出していた。
祈る者、笑う者、語る者、黙る者。
そして、帰る場所がある者。
冒険は終わった。
けれど、“今日という日”はまた新しく始まっている。
青空の下、夏の風が冥界の記憶をさらっていく。
その全ての場所に、“おかえり”と“ただいま”が静かに響いていた。