境の層、廃墟となった学び舎――
倒れかけの時計、すすけた黒板、埃の積もった机と答案用紙。
かつて生徒たちが走り、笑い、泣いたはずの空間には。
今や“卒業できなかった思念”だけがゆらゆらと浮遊している。
時が止まったまま、誰にも告げられなかった“さよなら”が静かに積もっていた。
四人は埃まみれの教卓の前で立ち止まる。
プルトがぽつりと卒業アルバムを手に取り、ページをめくった。
「へぇ……こういうの、見たことないです」
「卒業って……初めて人殺すことですかね」
その一言に、場の空気が一瞬で凍る。
レイスは硬直し、目を剥く。
「プルト、ちょっとずつ“毒のキレ”増してない!?てか言葉選んで!!?」
だが、ハオはケロリとしている。
「ハオの卒業は俗世からダヨ」
「試験じゃなくて、“山にこもって一週間で悟る”課題だったヨ~」
レイスは半笑いで後ずさる。
「仙人ジョークきっっつ……真顔で言うのやめてww」
「こっちは現世で算数すら怪しいのに!!」
黒板にはまだ“卒業おめでとう”の飾り文字が残っていた。
その前で、レイスがなぜか真顔で宣言する。
「……で、レイス。貴方は卒業したんですか?」
プルトの問いに、レイスが急にシャキッとして言い張る。
「失礼な……これでも学校ぐらい出たよ!証拠に今でも九九は言える!」
「いちいちがいち!……さんざ……いや、しご……?」
プルトは静かに、まるで診断結果を突きつけるように告げる。
「それ、小学校じゃなくて“人生”の卒業が近い人の口ぶりですね」
教室の隅では、カリストがアルバムを眺めながら冷や汗をかいている。
(やばい……このメンバー、全員“卒業”の概念が死んでる……)
(まともなの、むしろ俺だけか……?)
だが、窓の外にはもう春は来ない。
教室には、卒業を祝う絵と、消せなかった誰かの名前だけが、
永遠に取り残されていた。
黒板の前――
埃っぽい光の中で、「第98回 卒業おめでとう」のカラフルな文字が色褪せていた。
風船、桜、帽子を投げる人のシルエットは、誰もいない教室に取り残されたまま。
その周りには消えかけた名前、チョークの粉が涙のように散っている。
ハオが、不思議そうに黒板に手を触れる。
「変ネ?なんで“卒業できなかった”空間なのに、卒業を祝う絵が描いてアルノ」
その指先は、どこか寂しげに桜の花びらの輪郭をなぞっていた。
レイスは後ろ手で机に寄りかかり、少し顔を曇らせながらも冗談めかして言う。
「あー……たぶんだけどさ。大災害と卒業式が重なったとか?
ほら、“卒業式は明日”って日に、世界が終わるやつ」
カリストは黙って帽子を脱ぎ、黒板に向かって深く一礼した。
「……あり得るのが恐ろしいですね」
「生徒たちはこの絵を最後に、教室を出たまま……戻れなかった」
「“最後の板書”が、祝福だったとは」
その声には、僅かな震えと、亡国の士らしい痛みが混じっていた。
「これは……誰かが“それでも祝いたかった”痕跡かもしれません」
この教室にはもう記憶の欠片はない。
それを確かめるように、四人は静かに歩き出す。
誰もいない廊下を抜けて、導かれるように体育館へ。
そこは廃墟そのものだった。
天井にはヒビが入り、床に穴、バスケットゴールは片方しか残っていない。
だが、そのど真ん中にだけ、なぜかバスケットボールだけはピカピカのまま転がっている。
きっと“アレ”が、次の記憶の欠片だろう。
レイスが一番に走り出す。
「おっ、バスケあるじゃん。暇だし、ちょっと遊んでこーぜ。ほらカリストも運動不足だろ~?」
カリストは戸惑いの表情で立ち止まり、真顔で問いかける。
「……バスケって何です?」
ハオが口元に手を当てて微笑む。
「あ~そうか。カリスト明治時代生まれだったワ」
「このボールを――あのネットに“入れる”ゲーム」
「シンプルだけど、めちゃくちゃ楽しいヨ!」
ピカピカのボールを拾おうとしたその瞬間、ひょいっと先に素早い手が伸びてきた。
レイスは反射的に体を引く。
「うぉあ!?」
そこには絶対にいなかったはずの子供たちが数人、学生服姿で立っていた。
レイスは「幽霊は笑ってる時が一番恐ろしい」という昔話を思い出し。
思わず前屈みで、いつでも戦闘に入れる姿勢を崩さない。
だが、プルトは穏やかに歩み寄る。
「大丈夫ですよ、あの子たちは大人しい幽霊です」
「幽霊の中には、自分から未練を晴らし、成仏を望む子もいるんです」
本当に弱い霊ほど会話ができない。
だが、彼らは“遊びたい”という意思をしっかり伝えてきた。
体育館に満ちる空気は、冷たいはずなのにどこか懐かしい温度を帯びていた。
プルトが膝を折って問いかけたその瞬間、沈黙していた空間が、わずかに息を吹き返した。
光の粒がひとつ、またひとつ――形を取りはじめる。
少年少女の影が輪郭を持ち、色のない笑顔が浮かび上がる。
だが、彼らの唇は一言も動かない。
それでも、何を伝えたいのか、痛いほどに分かる。
一番奥に立つ背の高い少年は、キャプテンらしい落ち着きで周囲を見渡していた。
片手は腰の後ろ、もう片方の手で軽く仲間の肩を支える。
指先の仕草ひとつで「慌てるな」と言っているようだった。
まるで彼だけがまだ“コートの上に立っている”ような気配を纏っている。
その隣では、ショートヘアの女の子がぎこちなく両手を胸の前で組み、
プルトを真っすぐに見つめていた。
口を動かさなくても、分かる。――「お願いします」。
その瞳は、緊張と期待を同じくらい宿していて、
まるで初めての試合前夜に立ち尽くす選手のようだった。
さらにその後ろで、背の低い少年がキャプテンの裾を引っ張るようにして動いている。
どこか落ち着きがなく、目だけがせわしなくボールを追っている。
両手をぶんぶんと振って、無言で「早く投げようぜ」と急かしているのだ。
その笑い声は聞こえないのに、なぜか心の中でははっきり響く。
体育館の端には、長髪の少年がいた。
ほとんど影と変わらぬほどの薄い輪郭。
キャプテンの背を見守るようにして立っている。
まるで、試合の終わりを誰よりも早く理解している者のように――
沈黙の中で「この瞬間を忘れるな」と語っていた。
最後に、プルトのすぐ後ろ。
双子のように似た小柄な少年少女が、指先をそっとつなぎ合っていた。
二人とも、半分は透けている。
でもその仕草は誰よりも生々しく、“怖い”より“愛しい”に近かった。
少女のほうが一歩前に出て、少年をかばうように立つ。
まるで「大丈夫、今度こそちゃんと終われるから」と、弟に言っているかのように。
プルトは膝をついたまま、それぞれの動きを静かに見つめた。
彼女の赤い瞳が一人ひとりを順に捉えていく。
声なき訴えが、氷のような空気を震わせる。
そして、バスケットボールを抱えたキャプテンが一歩前へ出た。
白い息を吐きながら、まっすぐプルトを見つめ――ほんの一瞬だけ、頭を下げる。
その所作は、まるで試合前の礼のように正確で、美しかった。
プルトは静かに立ち上がる。
「……わかりました」
声が落ちた瞬間、幽霊たちの足元に淡い光が灯る。
もう声はない。
だが、全員の表情が同じことを言っていた。
――“ようやく、始められる”。
カリストは帽子をきゅっと締め直し、苦笑いを浮かべた。
「まさか、人生初のバスケ対戦相手が幽霊とは……」
ゲームが始まる。
プルトは低く構え、冷静な声でボールを見据える。
「“静かに侵入し、確実に一点突破する”──勝てます」
レイスは豪快に跳び、「リバウンドは任せろ!」と叫びながら、
幽霊の子供たちもろとも脚がバグった挙動でボールを拾い上げる。
プルトは「殺意のパス」。
音速ナイフ並みの鋭いパスが、音を立ててコートを裂く。
ハオはふわっと消え「仙人スピンステップ」で気付いたらゴール下にワープしている。
子供たちも「どこいった?」と目を丸くする。
カリストは必殺「氷結ブロック」。
相手のシュートが空中で凍りつき、氷をパリーンと割って再スタート。
どこか明治の怪談めいている。
最後の一得点が決まり、しばらくの沈黙。
四人が息を整える中、チームのキャプテンだった小柄な少年がボールを手に取る。
その背後――右端に立っていた背の高い少年が一歩近づき。
静かに、しかし迷いなくキャプテンの肩に手を置いた。
言葉はなかったが、「もういいぞ」という優しい仕草。
まるで“責任”を受け止めてきた先輩だけが持つ、さりげない“区切り”の合図だった。
キャプテンの少年は、その手の重さをしっかり受け止めるように頷き、
ボールをコート中央にそっと置いた。
深々と頭を下げて、後輩たちや敵味方すべてに礼をする。
最年長の少年もまた、静かにその様子を見守りながら。
やがて他の仲間たちとともに、満ち足りた笑顔で粒子となって消えていく。
消え際の笑顔は、ほんの一瞬だけ“生きていた頃”の無垢なままだった。
ボールのあった場所には、静かに記憶の欠片が残った。
レイスは膝に手をつき、息を切らしながら笑う。
「いや~~~やっぱバスケ最高だな。疲れるけどさ、こういうのも……悪くない」
プルトは相変わらず無表情で。
「……戦闘ではなかったんですね。では今度、私のやり方で挑んでみます」
どこか冗談めかした声音が滲んだ。
カリストは珍しく息を弾ませて、
「……明治では……あんなに跳ねる球技、なかった……」
ハオは爽やかに両手を広げた。
「皆、良い汗かいたネ~♪ 冥界にしては清々しい風が吹いたヨ!」
廃墟と化した体育館――そこにだけ、少しだけ“青春”の香りが残った。
新しい風が、埃を巻き上げて四人の背を押していた。
バスケットボールの表面に刻まれた、指でなぞれるほど浅い文字。
――「県大会中止」
――「先輩、これが最後なのに」
――「戦争め」
ボールを拾い上げて裏返したとき、はじめてその“消えた大会”の記憶が滲み出す。
遊びに夢中だった子供たちは、何よりその一戦にすべてを賭けていたのだろう。
でも、大会は理不尽な終わり方をした。「戦争」という、どうにもならない力で。
ハオがしみじみと笑いながら呟く。
「なんかさっきの子たちが“遊んでくれるまで返さない”って顔してたの、わかるヨ」
レイスは苦笑しつつ、子供の霊たちの顔を思い出す。確かに、どこか意地っ張りな気配があった。
プルトは淡々と続ける。
「だから言ったでしょう、大人しい幽霊だと」
「大人しい子を刺激して怒らせるなんて、心霊ものでよくあることです」
一つのボールに込められた悔しさと、叶わなかった“最後の試合”への未練。
だが、今こうして四人が全力でバスケをし、幽霊の子供たちに笑顔を返したことで。
その未練もようやく冥界に溶けていったのだろう。
廃墟と化した体育館の中央、もう使い手を失ったボールだけが。
ほんの少しだけ誇らしげに、光の中に転がっていた。