冥界-境の層編 - 4/5

ボロボロになった団地群――
低く広がる建物には、夕焼けのような橙色の光が差し込んでいる。
だが、空に太陽はどこにも見えない。
まるで“黄昏”だけが永遠に残された世界。

階段室の蛍光灯は「カチ……カチ……」と不規則に明滅し。
廊下には錆びた自転車のタイヤ跡、ドアポストには山積みのチラシ。
外廊下の手すりには埃をかぶった洗濯物が風に揺れている。
どの部屋も「誰もいないのに、確かに人がいた痕跡」だけが強く漂っていた。
ふとした瞬間、吹き抜ける風の中に、子供の笑い声が混じる。
誰も姿を見せない。けれど確かに、“ここに居た”ことを世界そのものが忘れていない。

四人は並んで薄暗い廊下を歩く。
プルトが窓の外を眺めながら、無表情で呟いた。
「……同じ建物の、均等な大きさの部屋に、人間がまとまって住むんですか」
「滅ぶ前の人間って、変な生活してたんですね」
レイスはニヤリと笑って振り返る。
「あ~そっか。お前異世界から来たんだったな」
「いやでも……うん。思えば変な生活してたわ、あいつら」
「隣の部屋に知らん人がいるとか、冷静に怖ぇよな」

ハオは外の団地群を見下ろしながら、
「九龍(クーロン)みたいでイイネ……まぁ、アレよりはきれいだけどネ」
「でも、“光があるのに人がいない”って……やっぱり変だヨ」
「生活って、あったハズの“気配”だけが強く残るネ……」
カリストはしばらく黙ったまま、扉の表札をじっと見つめる。
「“山田”……という名前が、読めました」
「この扉の奥にも、かつては生活が……いや、人生があったのでしょうか」

最初に拾ったのは「誰か」の鍵。
青いキーホルダーに摩耗したネームプレート。
「◯田」「木◯」――どちらも名前はかすれて判読できない。
鍵そのものはしっかりしているが、開けるべきドアは既にどこにも残っていなかった。
レイスはそっと鍵を手に取る。
「……返しに行く相手、もういねぇんだろうな」

次に拾ったのは、テレビのリモコン。
ボタンがすり減って、「音量+」「チャンネル↓」だけが特に摩耗している。
背面には子供の落書きのような字で「おれの つかわないで」と書かれていた。
ハオがリモコンをくるくる回しながら微笑む。
「お兄ちゃんの専用リモコンだったのカモネ」
プルトは思いがけず目を細める。
「この“日常の争いの跡”が残る感じ、好きです」
団地の一角――仄暗い廊下の端、異様に黒い影をまとった部屋の前に差し掛かる。
不穏な気配を察してか、四人とも足を止めた。

黒ずんだ廊下の突き当たり、異様な気配を放つ部屋の前。
レイスがノリで言う。
「……ま、こういうのは勢いだよな」
そして、ドアノブを掴んだ。
――キィ、と鳴るはずが、何も言わない。
代わりに、“ドアノブのほう”がレイスの手の中でスッと抜け落ちた。
「……は?」
ドアは微動だにしない。
レイスの手の中では、金属の塊がカラカラと虚しく転がっている。

数秒遅れて、誰かの笑いが爆発した。
「アッハッハ!まるでコントだネ~!」ハオが腹を抱えて床を転げる。
プルトは冷静にノブを拾い上げ、淡々と差し出した。
「記念にアルバムへ載せましょう。……“死にたそうな顔”って、こういうのですね」
「やめろぉぉぉ!!!」
レイスは頭を抱える。
「俺のせいじゃねぇ!もともと緩んでたんだって!!」

カリストは真剣にドアの接合部を調べていた。
「整備不良ですね。戦場では、こうした小さな崩壊が大きな壊走を――」
ハオがツッコミを入れる。「カリスト、それ真顔で言うこと?」
レイスはぐったりとドアに寄りかかり、諦め半分でノブを戻そうとする。
――もちろん、回らない。
その顔は、見事に“ドアノブに敗けた男”のそれだった。

プルトが腕を組み、涼しい声で断言する。
「お前の敗北です」
「負けねぇよ!?てかドアノブと勝負って何!?」
ハオが笑い転げ、カリストが小声で補足した。

「……敗北の形は、多種多様です」
ハオがぐいっと顔を近づけ、眉をひそめてツッコミを入れる。
「カリスト~、今ちょっと無理あるヨ?」
レイスは口をとがらせて。
「“お前”って言い方、なんかムカつくけど距離近く感じるんだよな……ズルくね?」
ハオが満面の笑みで答える。
「教祖の才能ダネ」
カリストは深く頷き、続ける。
「……カリスマというのは、理屈では説明できないものです」
プルトは珍しく微笑を浮かべ答えた。

「そんなに私の言葉が気になるんですか?お前、素直でよろしいですね」
四人の影が、廊下の仄暗さに溶けていく。
敗北と、笑いと、ちょっぴり温かい“距離感”だけが、この滅びた団地に残された。
こうして“ドアノブ・オブ・ザ・デッド”は。
団地という日常の墓標に、またひとつ伝説を刻んだのだった。

団地エントランスの掲示板――
かつて回覧板や注意書きがごちゃごちゃと貼られていたスペースは。
今や誰にも見向きされない廃墟の一部に過ぎない。
だが、四人が帰り道でそこを通りかかると。
古びた板の上に“白いチョークのような文字”がぼんやりと浮かび上がっていた。

「この団地は、戦地の範囲内になります」
「一時的に避難してください」
「戦争が終わったら」
「また、集まりましょう」
寄せ書き風に並んだ言葉の下には、サインが散りばめられている。
その端々には、赤黒く染みた血の跡が滲み。
“また、集まりましょう”

最後の一文だけ、涙の跡のように滲んでいる。

プルトが低く呟く。
「“集まりましょう”……叶わなかった再会、ですか」
ハオが指でなぞりながら、寂しげに笑う。
「誰も帰ってこなかったんだネ」
レイスはノブを見つめたまま、苦く言った。
「“終戦”って言葉、ここには届かなかったんだな」

カリストが帽子を取って、静かに黙礼した。
「掲示板とは本来、“次を知らせる”ための場所。
けれどこれは……終わりを告げる“最後の通信”です」
誰もいない夕焼けの団地。
風に揺れる洗濯物だけが、まだそこに“帰りを待っている”ように見えた。

そしてレイスの手の中では、外れたドアノブが小さく鳴った。
――カチリ、と笑うように。