崩れかけた鉄骨の病院棟。
廊下は細く、僅かに傾いたまま静かに沈黙している。
窓から差し込む光は白く冷たいが、この場所だけは“廃墟らしい寂しさ”を感じさせなかった。
誰もいないはずなのに、不思議な温もりが空気に満ちている。
その理由は、半開きのドアに貼られた一枚の張り紙にあった。
「この病院は長い役目を終え、閉じることとなりました。
最後まで共に歩んでくださった患者様とそのご家族に、
心より──感謝申し上げます。」
――○○中央病院・職員一同
手書きの文字は丸みがあり、丁寧で“悔いのなさ”が滲んでいた。
プルトが壁にそっと手を添え、低く呟く。
「……廃墟とは思えませんね」
「ここは、感謝とともに終われた場所だったのでしょう」
レイスは両手をポケットに突っ込んだまま、
廊下を見上げてぼんやりと息をつく。
「誰もいないのに、なんか“見守られてる”感じすんだよな……」
「ここ、好きだわ。落ち着く」
ハオはドアの張り紙に指を滑らせながら、優しく微笑む。
「“ありがとう”って、残るんだネ……」
「人の命は消えても、言葉は残る。面白いヨ」
カリストは帽子を脱ぎ、廊下の奥へ向かって深く一礼する。
「……患者も医師も、最期まで“やり遂げた”のですね」
「それが、場所に記憶として刻まれるとは……感服です」
ここだけは、死も終わりも“肯定”されている。
廃墟の中に唯一、穏やかな余韻が漂っていた。
四人はしばらく無言で、廊下に“生の終わり”の静かな美しさを感じていた。
白く静かな病棟の空気の中で、ふとレイスがぼそっと呟いた。
「ていうかさ……お前が病院にいると、死神感すごいな」
「いやマジで、点滴持って歩いてそう」
その言葉にカリストはすかさず反撃。
声が少し鋭くなる。
「失礼な……私はむしろ、夜な夜な病室を出る問題児に見える貴方が気になります」
「点滴もすぐ抜くタイプですよね?“もう元気ですから”とか言って勝手に帰ろうとする」
レイスは苦笑して首をすくめる。
「……否定できないのがつれぇ」
「ほら、入院するとさ……急に世界が小さくなる感じして……つい外に出たくなるじゃん?」
カリストは小さく溜め息をつく。
「そういう人ほど、また搬送されてくるんです。それも“もっと悪化して”から」
「……まったく、面倒な患者」
そこで唐突にハオが後ろからひょこっと現れる。
「2人とも病院向いてナイヨ~♪
ハオはネ、病室でテレビ観て大人しくおかゆ食べるタイプネ!」
プルトは、なぜか冷静な声で言う。
「私はおそらく、“退院許可が出ても帰らないタイプ”ですね。病院は居心地がいいので」
レイスは額をトントンしながらぼやいた。
「……あれじゃん、改めて自己分析してみたが─俺ら、死神過ぎるわ」
ハオが指で四人を順に指しつつニコニコ提案する。
「黄泉平坂カルテット、改名案ヨ」
「新名称─死神四天王」
プルトはすかさず冷静に断る。
「やめましょう。絶対タナトスにクレーム来ます」
「“こっちは正式職員、あっちは非公式死神ごっこ”って」
「いずれマジの死神に“職権侵害”で訴えられますよ」
レイスは肩をすくめて笑う。
「逆にそのまま職員採用される可能性も……」
カリストは即座に真顔で拒否した。
「嫌です」
白い廊下に、ほんの少しだけ温かな笑いがこだました。
“死神ごっこ”も、冥界では案外悪くない。
白く静かな廊下を歩く四人の前に、生きた記憶の欠片が静かに並んでいた。
壁には、子どもの手で描かれた色とりどりのクレヨン画。
「ありがとう ドクター」と不器用なカタカナ。
人物の頭の上には虹や星がきらきらと踊っている。
その下には、折り鶴のモビールが吊るされ、
毛糸で編まれた花束が、小さな手で丁寧に束ねられていた。
病室のベッドの上には、宛先不明の“ありがとうカード”がぽつんと残っている。
誰に渡すつもりだったのか、もう分からない。
だが、色あせたカードの隅には、またねという文字だけが残っていた。
カルテの切れ端には「また会いましょうね」と担当医の名前がそっと添えられている。
病院の時間の流れの中で、それはきっと唯一の約束だった。
小さなメダル型のお守りは、入院していた誰かが枕元に大事にしていたもの。
裏側には、“おかえり”と優しい筆跡で彫られている。
最後に見つけた処方箋の袋は未使用のまま、薬も何も入っていなかった。
けれど袋を開くと、ほんのり花のような香りが残っていた。
それはきっと、最期まで「生きるつもりだった」誰かの気配だったのだろう。
この病棟だけが“終わり”と“感謝”が同じ場所に刻まれていた。
廃墟のはずなのに、不思議と「ありがとう」の余韻だけが、静かに漂い続けていた。
病室の窓辺には、色あせた千羽鶴が吊られていた。
赤、青、黄――かつて子供たちが祈りを込めたであろう、にぎやかな色たち。
それは今や、夕陽の中でゆっくりと影へ変わっている。
プルトが小さく息を吸い、窓枠に手を置いた。
「きっと記憶の欠片はこれが最後ですね。折り鶴……か」
声は淡々としていたが、どこか遠い思考の色を帯びている。
ハオが隣で首をかしげる。
「昔から定番ヨネ。病気治してネって、おまじないみたいなもの」
「でもさ……なんで一羽だけ、窓に置かれてんだろうネ?」
プルトは視線を下げる。
そこには、拙い折り目のまま羽を広げた一羽の鶴があった。
他の鮮やかな千羽鶴とは違い、淡いクリーム色――どこか見覚えのある質感だった。
カリストがゆっくりと屈みこみ、指先でその紙をなぞる。
「……お見舞いに来た誰かが折ったのかもしれません」
「ほら、この鶴だけ、紙が違います」
紙面の端には、青い印字がわずかに残っていた。
“○○中央病院 処方箋袋”
それは、かつてこの病院で使われていた薬袋の切れ端だった。
ハオが小さく息を呑む。
「処方箋で……鶴を折ったノ?」
カリストは頷く。
「おそらく、手元に紙がそれしかなかったのでしょう」
「それでも、祈りたかった。――“もう一度、元気でいてほしい”と」
プルトの目がわずかに細まる。
「薬をもらう代わりに、折り鶴を残した……皮肉にも、美しい話ですね」
「つまり、この鶴は“処方箋に代わる祈り”」
夕陽の光が、折り目を透かす。
インクがにじんだ部分が、涙の跡のように見えた。
レイスがぽつりと口を開く。
「じゃあ……この鶴だけが、“間に合わなかった祈り”ってことか」
「渡せなかった人のぶんまで、ここに残ったんだな」
沈黙。
窓辺を風が抜け、千羽鶴たちが一斉に小さく揺れた。
音にならない拍手のように、
“ありがとう”と“さようなら”が、光の中で静かに溶け合っていく。
カリストはその一羽を見つめたまま、帽子に手を添えた。
「この鶴が、冥界にまで届いたということは……」
「誰かの祈りが、最後まで“消えなかった”ということです」
プルトは小さく頷く。
「……死を超えても、祈りは残る。やはり“言葉”と“想い”は違うんですね」
瞬間。
廊下に静かな振動が走った。
「……見て下さい。陽が」
カリストが不意に窓際へ歩み寄り、低く呼びかける。
全員がその指差しに目を向ける。
灰色の空に、ずっと沈まず止まっていた“太陽”
それが、今まさに動き出していた。
オレンジ色の光が冥界の病棟を染め。
遠く黄泉平坂――巨大な鳥居の影に向かって、
太陽は吸い込まれるように、ゆっくり、ゆっくりと沈んでいく。
プルトが静かに呟く。
「夜は死者の時間」
「記憶の亡霊は辿り終えた、いよいよ――死そのものに私達は向かう」
ガラス窓をなぞる指が、沈む陽を追いかけるように止まる。
窓枠には、まだ小さな折り鶴が残されていた。
それは誰かの「祈り」の名残であり、
いま消えゆく“現世の光”を、最後まで見送ろうとしているかのようだった。
やがて病棟の廊下にも夜の闇が落ちる。
四人は、沈黙の中で“冥界の本当の夜”へと歩み出した。
止まっていた世界が、再び死の流れを取り戻す。
黄泉平坂の門が、今まさに“死者の旅路”を受け入れようと口を開けていた。