冥界-死京編 - 3/5

コンクリートの骨だけが残り、天へねじれた高架が廃墟の王冠みたいに月を切り裂く。
そこを――レイスが駆け抜けていた。
黒いロングコートに赤い髪、煙草を咥え、ヘルメットもつけずにバイクを横向きに乗りこなす。
その足元、タイヤからは蒼い炎が吹き出し。
アスファルトを焦がしながら“死者の夜道”を照らしていた。

――それはただの機械じゃない、この“相棒”もまた、死者なのだ。
彼だけが、レイスの孤独と共にどこまでも走る“魂の友”だった。
レイスの目は前を見据え、沿道には一切目もくれない。
風は生き物のようにコートの裾を翻し、蒼炎が彼の軌跡を夜に刻む。
その横顔は、不死であることの悲哀も諦念も、全部を置き去りにした男のものだった。
バイクの影が高速の残骸を跨いで、遥か京都の闇へ溶けていく。

風が鳴いていた。
アスファルトは割れ、街灯は途中で途切れ、
それでも夜の道には――エンジン音だけが確かに生きていた。
ティアは黒の大型バイクを止め、ヘルメットのバイザーを上げる。
金属の髪飾りが月光を反射し、風に鳴った。
隣の道の影、蒼い炎を噴き上げながら止まったレイスが煙草をくわえる。

「なんだレイス?お前も夜風に吹かれたくなったか」
レイスは火をつける。
風で炎が揺れ、白い煙がふわりと浮かんだ。
「違う、京都行くんだ。どこ乗り換えればいい?」
ティアは少し黙り、ヘルメット越しに息を漏らした。
「……京か。遠いぞ。最低でも四度は乗り換えることになる」

レイスは目を細めて、どこか遠くを見ていた。
「ご指名喰らっちまったんだ。仕方ないだろ」
ティアは微かに笑う。
「お前が“仕方ない”なんて言葉を覚えるとはな。誰に会いに行く?」
「……冥王だよ」

ティアは息を飲み、ゆっくりバイクを立ち上げた。
「そいつに会いに行く奴は、だいたい戻ってこねぇぞ」
「知ってる」
レイスは短く答える。
その声には覚悟でもなく、ただ“長い旅の途中”のような諦めがあった。
二人のバイクがエンジンを唸らせる。
夜風が吹き、アスファルトの上に灰が舞う。

「……ま、名神までなら付き合ってやるよ」
「恩に着る」
エンジンが重なった瞬間、
二人の影が並び、そして裂けた。
蒼と紅――二本の光が、夜の廃道を疾走する。
その先に、まだ誰も知らない死京の入口が待っていた。

夜明け前の草津ジャンクション。
高架が複雑に絡み合い、ライトの消えた標識だけが霧の中に浮かんでいた。
アスファルトの上には灰の薄膜が積もり、走るたびにタイヤが光を散らす。
二台のバイクがゆっくりと速度を落とす。
レイスは蒼い炎を消し、ティアの隣に並んだ。
「ここだ。名神高速道路。ここを真っ直ぐ走れば京につく」
レイスはヘルメットもつけず、空を見上げて息を吐く。

「随分長いツーリングなっちまった」
唇の端に笑みを浮かべながら、バイクのタンクを軽く叩く。
「こいつが幽霊で改めて感謝してるよ。給油がなきゃガス欠だ」
ティアは鼻で笑い、肩をすくめた。
「私はここまで。ついでに草津エリアでもぶらついてから帰るよ」

一拍の沈黙。
風が二人の間を通り抜ける。
灰混じりの風が、ティアの髪をほんの少し舞い上げた。
「……じゃあな、レイス。生きて戻れ」
レイスはエンジンをかけ直す。
蒼い炎が再び噴き出し、夜の闇を裂く。
「約束はしねぇ。けど……行ってくる」
ティアは微かに頷いた。
二人のバイクのエンジン音が一瞬重なり――やがて離れていく。
レイスは前を向き、ティアはミラー越しにその背中を見送る。
霧が深まり、名神のカーブの先に光が滲む。
その光の奥には、死京。

一日の始まり――のはずだった。
東の空が白みはじめ、太陽がゆっくり顔をのぞかせる。
けれどその光は、どこか濁っていた。
世界全体が古いフィルムのように焼け焦げ、色だけが抜け落ちていくような夜明け。

レイスはハンドルを握りながら、口の端を歪めた。
視界の端で、アスファルトに積もる灰が光を反射する。
それは雪にも見えたが、冷たさはなかった。
脳裏に、あの築地での会話が再生される。

「今のうちにお祭り楽しんどけよ?もうすぐ大変なこと起きるからさ」

あの男――キガの笑みが浮かぶ。
警告が二割、残り八割は“面白がってる悪魔の顔”だった。

「やっぱあいつ、神じゃなくて悪魔だわ」
レイスはぼそりと呟き、視線を正面に戻す。
名神高速の先――薄灰色の霧の向こうに。
“死の京”と呼ばれる廃都の輪郭が見えていた。

空は完全に白みきり、太陽は昇りきった。
だが光はどこにも届かない。
朝の色だけが、決定的に違っていた。
「……黄泉(よみ)ってのは、朝に始まるんじゃねぇのか」
ぼそりと呟いた声は、誰にも届かない。
だが、その声に呼応するように、前方の霧がゆっくりと開いた。

そこには、白い坂道。
まるで世界の骨が露出したような、無音の峠。
そしてその先に――死の京。
名神はもう高速ではない。
彼にとっては、地上最後の“登り坂”だった。

名神を越えて、世界が終わった先へ。
コンクリートの骨が空に突き刺さり、天へねじれた高架が、
まるで廃墟の王冠のように月を切り裂いていた。

そこを――レイスが走っていた。
黒いロングコートに赤い髪。
煙草を咥え、ヘルメットもなしに、横滑りのままバイクを操る。
タイヤの軌跡から吹き上がる蒼い炎が、夜の死道を照らした。
ガードレールの「SLOW」は既に倒れ、警告の標識は灰の中に沈んでいる。

彼は減速しない。
ブレーキという概念がこの男には似合わない。
生きる速度と死ぬ速度の区別が、もうとっくに曖昧なのだ。
――それはただの機械ではなかった。
このバイクもまた、死者だった。
魂を喰い、レイスと共に走り続ける“亡霊の相棒”。
二人の間にあるのは血ではなく、終わりの約束。

風がコートを裂き、蒼炎が軌跡を夜に刻む。
その横顔にあるのは、悲しみでも恐れでもなく「死を見慣れた者の静けさ」だった。
彼はもう、死を“外側”から見ることができない。
死の中にいる者だけが持つ、あの乾いた目をしている。

廃都の霧の向こう、古都の瓦屋根が現れる。
灰が降り積もり、音がひとつも存在しない街。
灯籠も建物もそのままの形で残っているのに、命だけが消えている。
まるで時間が神に殺された後の世界。
レイスはゆっくり息を吐いた。
瞳に映るのは、凍りついた美。

「なるほどなぁ……黄泉の入り口になる訳だ」
彼は肩を竦め、ポケットに手を突っ込む。
「静かすぎる」
ゆっくりとバイクを降り、足元の灰を踏みしめた。
指先に掬った“雪”が、冷たくも湿ってもいない。
それが灰だと気づいた瞬間、彼は呟く。
「……なるほど。黄泉の入り口になる訳だ」
灰の世界に立つその背中は、かつて見た“死の騎士”と瓜二つだった。
風が吹くたび、黒いコートの裾が翻り、亡者のマントのように広がっていく。

「京に来い。死なず。」

ペイルライダーの言葉が脳裏で響く。
今、レイスが立っているのはその“死なずの道”――
死に切れなかった者だけが歩ける境界線だ。

灰色の空の下、男は再び煙草をくわえる。
火がつく瞬間、彼の瞳に蒼い光が宿った。
それはかつて見上げたペイルライダーの眼光と、まったく同じ色だった。
つまり――彼自身が、もうひとりの“死の騎士”。
黄泉を歩む者の中で、唯一“生者の形をした死”だった。

バイクが停止した。
レイスは片手でシートを軽く叩き。
「戻っていいぞ」とでも言うように短く息を吐く。
蒼い炎の尾を残して、幽霊のネイキッドは霧のように夜明けの光へ溶けていった。
残されたのは男ひとり。
その視界の先に広がるのは――灰に包まれた、かつての日本の古都。

死の京。
瓦屋根が連なる町並みは、驚くほど整然としていた。
崩れた建物も、倒れた灯籠も、ひとつもない。
世界が滅んだあととは思えないほど“完全”な形で、
まるで時間そのものが凍りついているかのようだった。

しかし――命がない。
鳥の声も、虫の羽音も、足音すらない。
ロストサイドで見慣れた白骨の影すら、ここには存在を許されていなかった。
灰の上には、ただ風が吹き抜けるだけ。
どこからともなく、錆びついた風鈴がチリンと鳴った。
その音だけが、世界の“生存報告”のように響いた。

足音が響かない。
灰が積もった路面は柔らかく、踏みしめても音を飲み込む。
瓦屋根が並ぶ通りは完璧な形を保っていて、崩れも汚れもない。

風が通り抜ける。
しかしそれも、どこか“作られた風”のようだった。
空気が動くたび、灰がふわりと浮かび、光も音も曖昧に濁っていく。
遠くで風鈴の音が一度だけ鳴り、すぐに消えた。
レイスはゆっくりと歩を進める。
コートの裾が灰を撫で、靴底に粉がつもる。
灰は軽く、冷たくも熱くもない。
なのに、指先に残る感触だけがやけにリアルだった。

ふいに、鼻の奥を突く匂いがした。
最初は電線が焼けた匂いかと思った。
だが、違う。もっと深い。もっと“終わり”に近い。

レイスは立ち止まり、息を止めた。
次の瞬間、記憶が勝手に呼び起こされる。
焼けた花。焦げた布。
そして、白い煙の向こうにあった“静かな人の顔”。
「……」
それを口に出したくはなかった。
だが、言葉が自然に漏れた。

「火葬場の匂い……だ」
その瞬間、街全体が少しだけ“呼吸”した気がした。
瓦の上の灰が、風もないのに流れた。
音もなく、白い世界がゆっくりと揺れる。

レイスは肩越しに振り返る。
誰もいない、だが、何かが“見ている”。
空が白く濁り、太陽の形が消えた。
どこからか、鐘の音のような低い響きが鳴る。
それは教会の鐘でも、寺の鐘でもない。
まるで、この街そのものが鳴っているかのようだった。

「……なるほどな」
レイスは煙草を取り出し、火をつける。
灰色の風の中、赤い火が一瞬だけ生きた。
「ここ、丸ごと焼かれてやがる」
彼の声は、誰に聞かれることもなく、灰の都に吸い込まれていった。