灰の舞う石段を、レイスとハオは無言で登っていた。
空気が重くなり、肌を刺すような冷気が漂う。
その中に――“音”が混じる。
「降魔散界……闇是隷光魔奉懺……闇是淫祈帝法……賦阡覇羅蜜陀……」
低く、濁った声。
だが声ではない。風でもない。
頭の奥に、直接“文字の響き”が流れ込むような奇妙な感覚。
レイスはピタリと足を止めた。真顔。
「おいやめろ。ただでさえホラーなのに呪詛足すな」
ハオは耳をすませながらも落ち着いている。
「誰か、神社に“先にいる”ミタイヨ」
「それも──魂の奥から喋ってるカンジ、ネ」
風は止み、灰がゆっくりと上に舞う。
“しぶき”のような黒い粒子が空間に浮かび、
言葉にならない“声”が耳鳴りのように響いた。
「妙楽加持祈祷……天座旬皇尊……」
八坂の拝殿跡、崩れた狛犬の間から――黒い影が、ゆっくりと立ち上がる。
黒いローブ、片目を覆う前髪。血のように赤い瞳。
それはまるで、祈りの形をとった影だった。
白い灰が動きを止め、世界の音がいっせいに消える。
鳥居をくぐった瞬間、レイスとハオは無音の中で息を詰めた。
拝殿跡の奥で、誰かが手を合わせた。
境内に並ぶ蝋燭が勝手に灯り、死んだ鳩が、痙攣のように羽を動かしかける。
「阿那八娃灌娩(あなや〜ばんじょ〜かいまん)」
パンッ、と音を立て合掌する。
どうやら呪詛は終わったらしい、背中からは達成感すら漂っていた。
「おい!!マジで怖いからやめろ!!そのエセ念仏!!」
レイスが即ツッコミを入れる。
灰の中で、声だけが異常に響いた。
ハオは耳をふさぎながら、けろりと笑っている。
「音響すごかったネ〜……心臓に悪いヨ」
その“祈る影”が、静かに顔を上げた。
「……お前たち、祈りにでも来たのですか?」
声の主――プルト。
彼女の周囲では、灰が渦を巻き、まるで呼吸するように空気が歪んでいる。
レイスは片手を上げて肩をすくめた。
「まぁ祈るっていうか……迷子探しに来たら、呪詛唱えてる奴に遭遇しただけっつーか……」
「ていうかお前、プルトだよな?六将の?」
ハオは狐尾をぴこぴこと揺らす。
「そうネ、六将のお仕事は?普通ならお城にいるんじゃナイノ?」
プルトは無表情のまま、手を下ろした。
「……丁度、休暇でしたので」
「強い死の匂いがしたので、引き寄せられただけです」
その言葉に、レイスの顔がひきつる。
「……盆休みみたいなノリで廃墟に来るなよ」
一拍の沈黙。
灰の空に、カラスの鳴き声が響く。
境内の奥では、“裏返った鳥居”がゆっくりと揺れていた。
八坂神社跡、気温はありえないほど低下していた。
レイスが息を吐くたび、白煙が一瞬で霜になる。
「来たのはあんただけ?」
レイスが肩越しに問うと、プルトは平然と答えた。
「もうひとり呼んでいますよ。もうすぐ来ます。」
その瞬間、遠くの空気が微かに震えた。
氷を滑走するような、鋭く澄んだ音が確実に近づいてくる。
ハオが耳を立てた。
「……なんか、ガリガリって音するヨ?」
レイスの顔から血の気が引いた。
「おいハオ、お前が呼んだからマジで来たじゃねぇか、冬将軍が!」
「ハ、ハオのせいじゃないヨ~!」
責任を押し付け合うふたりの前で、地面の灰が音もなく凍りついた。
白い結晶が境内に走り、やがてその中から人影が一歩、二歩と滑るように現れる。
滑走用の低姿勢から、軍人らしいピンと伸びた背筋へ。
完璧な所作で立ち上がる。
「遅かったですね、カリスト。」
プルトが声をかけると、彼は優雅に頭を下げた。
「申し訳ありません。……少々、渋滞が凍りまして。」
「渋滞が凍った?」
ハオがぽかんとする。
「滑ればクルマより速いので。」
それを当然のように言いながら、
氷の靴跡を残して立つ男――六将のひとり、カリスト。
到着した周囲の地面が一瞬で凍結している。
レイスは煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
「なぁ……お前ら、全員普通の方法で来てねぇだろ。」
カリストは楽しげに目を細める。
「愉快でしたね。フフ、車から驚く顔が見えました。」
「そりゃ驚くだろ。高速でスケートしてくる軍人とか、ホラー通り越して物理崩壊だわ。」
ハオは腹を抱えて笑う。
「冬季オリンピックで金狙えるヨ!ついでにプリンスポジも~!」
プルトが無表情に付け加える。
「羽生結弦は引退しましたよ? カリスト。」
カリストは一瞬の間を置いて、優雅に微笑んだ。
「では、後継を務めましょうか。」
その光景に、レイスは深いため息を吐く。
灰が指先から落ち、地面に消える。
「……なんでお前ら、冥界行くのにノリが軽いんだよ。」
三人の周囲では、相変わらず灰が降り続けていた。
しかしその中心だけは――まるで舞台のように明るかった。
朽ちた拝殿の奥、祭壇跡がまるで“抉られたように”消えていた。
そこに残っていたのは、紫と黒の“ゆらめく水面”。
液体のようで鏡のようでもある。奥行きがあるのに、底は見えない。
空気が沈み、音が吸い込まれていく。
レイスは顎を上げて、その穴を覗き込んだ。
「なぁ……もしかして坊ちゃん(=イザナギ)、この先か?」
ハオの額の結晶が微かに光を帯びる。
「うん、別世界に通じてる感じダネ。……あそこ、空気が“こっち”じゃないヨ。」
レイスは腕を組んで息を吐く。
「呼ぶか?他のやつ。」
プルトは静かに首を横に振った。
「やめておいたほうがいい。」
レイスが眉をひそめる。
「……なんで?」
「この門は、既に“彼岸”とつながっています。生きている者が踏み入れば──」
プルトは指先で自分の首筋をなぞった。
レイスが小さくため息を漏らす。
「いや、それホントなのかって話よ。」
その瞬間、足元を一匹のネズミが駆け抜けた。
「……失礼。」
カリストが軽く手を上げ、ネズミを掴んでそのまま“水面”へ放り投げた。
ネズミが触れた瞬間、中から黒い手が現れた。
骨のように細長く、関節が不自然に多い。
そいつはネズミを掴み、静かに“ずるずると引きずり込んで”いった。
ハオが両手を合わせ、小声でつぶやく。
「ねずみサン……祈祷冥福(ご冥福を)。」
レイスは腕を組み、ポータルを見据えたまま。
「……なるほどね。こりゃ、生者お断りなわけだ。」
“黒い水面”の縁には、しばらく“指の痕”のような波紋が残っていた。
プルトは背後で静かに合掌し、
「構わず進んでください。通れますよ。」
「……私たちは“向こう側”にとって、既に生者ではないので。」
そして一歩、踏み出す。
その瞬間、黒い手がピタリと動きを止めた。
指が震え、まるで何かに“気づいた”かのように、空中でまばたきする。
そして――ゆっくりと闇の奥へ消えていった。
レイスは肩を竦めながら、そのまま歩き出した。
「……死人認定、喰らっちまったなぁ。」
ハオは祈りのポーズで小声に言う。
「めでたい……ノカナ?」
カリストが涼しい顔で微笑む。
「安心してください、冥府の門は嘘をつきませんから。」
――その言葉を合図に。
四人は“黒い水面”を抜け、冥界へと踏み入った。
冥界上層、ニヴルヘイム。
そこは「終わり」を超えた静寂が支配する世界。
音も、色も、時間すらも凍りつく。
エーリューズニル――死者の宮殿。
その中庭で、女王ヘルは今日も“変わらない一日”を過ごしていた。
白い息が、音もなく空へ。
剪定ばさみが氷の薔薇を切るたびに、シャリンという音が静寂を飾る。
咲かず、散らず、ただ“存在する”だけの花々。
彼女の庭は、時間が止まる芸術だった。
ヘルの指がふと止まり、風の温度が変わる。
「……どなたかしら?」
穏やかに、しかし氷より冷たい声。
「私の庭に“生きたまま”入ってくるお客様なんて、久しぶりね。」
女王の瞳がわずかに開く。
そこには、すでに来訪者の影が映っていた。
「ふふ。賑やかになりそうね。」
氷の薔薇を一輪、そっと摘み取る。
その花は手の中で光となり、跡形もなく消えた。
「冥界が騒がしいのは、夏のせいかしら――それとも、生者の夢?」
風が、宮殿全体を撫でて通り抜けた。
その風の中に、確かに“赤髪の影”が一瞬だけ揺れた。