風が逆流し、遠くの霊火が吸い込まれる。
“死”が意志を持って進軍を始めたのだ。
ハオが一歩前に出て、額の結晶を光らせる。
声の調子はいつもの飄々さを保ちながらも、空気の重さを計算している。
「レイス! 相手は黙示録の騎士ダヨ」
「生半可な武器じゃ勝負にならないわ、あのロキに貰った剣。使い時じゃない?」
レイスの目が細く光る。
あの神から預かった一振り――その名を呼ぶだけで、空気が焦げた。
「ああ!」
背中のホルダーから引き抜かれたレーヴァティンが、
冥界の光を吸い込むように淡く赤く輝く。
火ではない。魂そのものが震えるような赤。
近くで見ると、その刃は驚くほど優美だった。
まるで“焼き払うための剣”ではなく、“裁くための器”。
レイスは一瞬、見惚れた。
刃の側面には、規則正しく並んだ小さな穴がある。
まるで息をしているように、そこから微かな熱気が漏れていた。
それが“世界を焼いた剣”だとは思えなかった。
むしろ、まだ何かを――吐き出す準備をしているように見えた。
「死を知り、なお歩むか。……ならば見極めよう」
「それは執念か、未練か──いずれにせよ、脆いぞ」
ペイルライダーがゆっくりと剣を構える。
骨の馬の蹄が雪を踏み砕き、霜の破片が宙に舞う。
その一歩で、黄泉平坂全体が震えた。
レイスは深く息を吸い、剣を握り直す。
「……脆くて結構」
口元に浮かぶ笑みは、冥界の光より冷たい。
「死を知ってるから、怖くねぇんだよ」
次の瞬間、世界が再び動いた。
青と紅、死と生、神と人。
その全てがぶつかる音が、冥界の底を貫いた。
雪が、刃のように空を裂いていた。
視界は白一色。風圧が肉を削ぐ。
息をするたび肺の中まで凍りつくような痛み。
レイスは片膝をつき、剣を地に突き立てた。
周囲ではペイルライダーの吹雪が渦を巻き、世界を切り取る。
「この寒波……やべぇな……」
歯を食いしばりながら、レイスはレーヴァテインを見下ろす。
剣身がわずかに赤く脈動し、
刃の縁に沿って光の筋が走る――まるで生き物が息をしているかのように。
目を凝らすと、刃の側面に規則的な穴。
そこから霜混じりの白い蒸気が噴き出している。
吐息。いや――排熱?
(……おかしい)
(これ、熱を出す構造じゃない)
(むしろ“熱を逃がす”構造だ)
金属音が混じる。
ペイルライダーの馬が嘶き、冷気の壁がさらに押し寄せる。
レイスの頬が切れ、白い息と血が混じる。
それでも、彼は笑った。
ゆっくりと指で剣身をなぞる。
そこに刻まれた“規則性”を読み取るように。
(……ロックされてる。しかも多重式)
(開放トリガーは……封じられてる?)
(いや、それより――)
視線が止まる。
光の筋が刃の根元に繋がっている。
並ぶノズル、排熱孔、エネルギー循環構造。
(……このノズルの並び方――)
一瞬、頭の奥で轟音が鳴る。
かつて空を裂いたエンジンの記憶。
神々の戦争ではなく、“人の技術が神を模倣した時代”の残響。
(バーニア、じゃねぇか……?)
風が止む。
その瞬間、戦場の音が全部遠のいた。
世界が、彼の気づきを聞き取ったかのように静まる。
カリストの声が割り込んだ。
氷片の雨の中、彼のマントが裂ける音が響く。
「レイスッ……!」
「この吹雪は私にも堪えます、何か浮かびましたか?」
レイスは目を細め、吹雪の向こうのペイルライダーを見据えた。
その瞳の奥には、炎ではなく“構造”が映っていた。
機械としての、神。
「……浮かんだ。さっき」
吹雪の中心で、レーヴァテインのノズルが赤く点灯する。
その形状は――まるでロケットエンジンの噴射口。
吹雪が渦を巻く。
ペイルライダーの馬が嘶き、その声が凍った空気を震わせた。
死の風が、存在そのものを削り取っていく。
レイスは肩をすくめ、指先を息で温める。
それでも、手の感覚はとうにない。
凍傷寸前の手で、レーヴァティンの基部を撫でた。
レイスは剣の基部に沿った“多重ロック”を慎重に外していく。
青い魔術紋が一つ外れるたび、剣身のノズルが淡く光った。
「九段ロックか……とんでもない堅牢さだ」
レイスは自嘲気味に笑う。
「そりゃそうか、世界燃やしたんだもんな」
息が白く霧になる。
その白の向こうで、ペイルライダーがわずかに顔を上げた。
「ほう……懐かしき剣だ」
骨の顔に感情はない。
それでも、その声には微かな驚きと、かすかな敬意が滲んでいた。
「それが“最悪の神器”と言われた所以は、
世界樹を焼いたのみでないぞ。死なず」
吹雪の音が、まるで古い記憶を再生しているようだった。
ペイルライダーは、ゆっくりと剣を下ろし、
その刃の先に宿る青白い光を見つめた。
「それは古代にあってはならぬ技術が用いられていた」
「マナによる焔ではない。剣自身が燃ゆる、純粋なる焔」
「故に、神を焼いたのだ」
その言葉に、レイスの手が止まる。
呼吸が一瞬だけ浅くなった。
“剣自身が燃ゆる”――それは、炎というよりエネルギーそのものの燃焼。
魔法ではなく、物理の神域。
「……やっぱりな」
レイスは苦笑した。
「バーニアじゃねぇか、こいつ」
自嘲のように呟き、最後の多重ロックに指をかける。
冷たく、硬い音。
雪が一瞬だけ止む。
「第七ロック解除……第八ロック解除……」
最後の封印が外れると、レーヴァテインが真紅の回路を帯びて“呼吸”を始める。
吹雪の中、剣身の紋様がうっすらと光を放った。
冷たく凍りついた金属の下、何かが“待っていた”。
〔CODE: SINMORA / LAEGJARN UNLOCK〕
電子音でも呪文でもない、二重の声が空間を震わせる。
女神のような声と、機械の起動音が重なり合っていた。
低音のコーラスが地面を伝い、レーヴァテインの表面に赤い回路が走る。
剣身の刻印が浮かび上がる。
その形は“翼”にも、“推進器”にも見えた。
ノズル列が淡く光り、熱量計のようなリングが回転を始める。
声が微かに笑った気がした。
“ああ、また貴方なのね”とでも言うように。
「認証完了――おかえりなさい、“ロキ”」
その声はどこか懐かしく、同時に冷たい。
スルトの名が一度も呼ばれないことに、ふと違和感を覚えるレイス。
「なあ、ペイルライダー。“スルト”って、本当に実在したのか?」
「……名は伝説に残れど、姿は誰も知らぬ。剣だけが、証を残した」
「じゃあ、伝説そのものが――“剣のために生まれた物語”ってことかよ」
「いずれにせよ、“今ここにあるのは剣”。神話など、物語の皮膜に過ぎん」
刃の中心が光を放ち、周囲の氷を一瞬で蒸発させる。
赤い粒子が宙を漂い、雪と混ざって血のように染まる。
馬の骨が軋み、世界が鳴る。
風が逆巻き、レーヴァテインのノズル群から低い共鳴音が響いた。
地面に亀裂が走る。
レイスが笑う。
指先の感覚はもうなかった。
それでも、彼は“生きている”と実感していた。
「行くぞ、地獄を、点火(スタート)だ」
一瞬後、剣が咆哮した。
赤い光が爆発的に噴き出し、冥界の空を貫く。
氷の結界が融解し、吹雪が炎に変わる。
ペイルライダーが一歩、蹄を踏み鳴らす。
その声には、もはや怒りでも威圧でもなかった。
「……覚えている。その焔は、神々を灰に変えた」
レイスは唇の端を吊り上げた。
「なら話は早ぇ。地上も燃え方は同じだろ」
レーヴァティンが唸る。
まるで、千年ぶりに呼吸を思い出した生き物のように。
紅蓮の粒子が吹雪を突き破り、冥界の空に一筋の赤が走った。
青白い死と、真紅の火――
黄泉の空に、二つの“終焉”がぶつかり合った。
炎が爆ぜ、世界が焼けた。
雪が溶け、空気が蒸気のように揺れる。
レーヴァテインのノズルから吹き出す光は、もはや剣ではなく、推進の炎そのものだった。
レイスは息を呑み、腕で顔を覆う。
肌が焼ける。肺が熱に裂ける。
だが、笑っていた。
「熱いッ……! チッ……惜しいな」
目を細め、吹き上がる炎の中に誰かの姿を思い出す。
「ここに坊っちゃん(イザナギ)がいれば、めっちゃ喜んでたのに」
冥界へ来た理由。
それは弔うためじゃない、連れ戻すためだ。
彼の脳裏に浮かぶ少年の顔は、いつも笑っていた。
あの皮肉な笑み。
あいかわらずの興奮気質。
古代の魔剣が実はSF兵器――そんな事実を知ったら、
あいつはきっと手を叩いて、目を輝かせていたはずだ。
(だから……見せてやらなきゃ、な)
この炎の先にいる少年に。
この“死の向こう側”で、もう一度。
レイスは剣を構え直した。
熱で指先が焦げ付き、皮膚が剥がれる。
それでも剣を離さない。
「ペイルライダー!」
呼びかけに、死の騎士が静かに顔を上げる。
青い焔のような瞳が、レイスを見据えた。
「我等は死を超え、押し通らせてもらおう!」
次の瞬間、ペイルライダーの骨の馬が崩れ落ちた。
骨が砕け、灰が風に散る。
そして、騎士だけが立っていた。
一歩、前へ。
「……馬は朽ちたか」
「では──我が足で“死”を届けよう」
「歩め、“死そのもの”として」
その声と同時に、空気が凍りついた。
氷ではない。概念が凍った。
ペイルライダーが剣を地面に突き立てた瞬間、
大地から無数の骨の手が這い出した。
世界そのものが、彼の“歩み”に呼応する。
レイスはその光景を見ながら、低く笑った。
「……上等。“死”が歩くなら、“生きる方”が走ってやるよ」
レーヴァテインのノズルが唸りを上げる。
赤い推進光が、冥界の空を照らした。
“死が歩み、火が走る”。
それが、真なる冥界の戦いの始まりだった。
世界が軋む。
“死”が歩くたび、空間そのものがざわめいた。
まるで、世界の下に眠る無数の声が目を覚ましたように。
最初は微かだった。
耳鳴りのような囁き。
けれど次第に、それは輪郭を持ちはじめる。
男の声。
女の声。
幼子の笑い声。
それらが重なり、渦を巻きながら空を満たしていく。
どこかで祈り、どこかで泣き、どこかで叫んでいた。
「……あぁ、帰りたい……」
「寒い……どこ……?」
「助けて……」
それはこの冥界を埋め尽くす、“生者だったものたち”の残響。
黄泉の底が、彼らの歩みを讃えるかのように――いや、試すようにうごめいた。
背後で“ざわざわ”と蠢く音。
レイスが反射的に振り向こうとして、ハオの声が飛ぶ。
「振り向いちゃダメ! 引っ張り込まれるヨ!!」
次の瞬間、影が伸びた。
骨の腕が地面から生え、レイスの足首を掴む。
冷たい手が、ずるりと皮膚の下に入り込んでくるような感触。
「くそッ……離せ!!」
骨たちは呻くような声を上げ、四方八方から彼を引きずり込もうとする。
“冥界に還れ”――そんな意志が、形を持って押し寄せていた。
金属音のような舌打ち。
プルトが一歩前へ出る。
彼女の瞳が深紅に燃え、冷たい光を放つ。
「……邪魔を、するな」
低い声。
次いで――
「鎮まれェ!!」
叫びが響いた瞬間、冥界そのものが息を呑んだ。
骨の群れが凍りつく。
その姿は、もはや“少女”ではなく、冥王そのものだった。
カリストが息を漏らす。
その声には敬意すら滲んでいた。
「……冥王に亡者は勝てない。世の理です」