足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
白い息がゆっくりと溶け、風の音さえ凍りつく。
そこは──京に似ていた。
雪に覆われた瓦屋根、檜の匂い。
遠くで鳴る鈴の音が、まるで冬の東山に響く鐘のようだった。
ただ何かが違う、色がない。音に温度がない。
美しいのに、どこか“生気”が欠けている。
「ここは……本当に冥界ですか?」
カリストが帽子のつばを押さえ、あたりを見回す。
吐く息が霧になり、氷の社へと流れていった。
「雪の積もった東山に似ている気がします。京都ではありませんか?」
ハオが鼻歌まじりに笑う。
「オウ、冬の京。こういう景色ヨネ」
レイスが一歩前に出て、ぴたりと足を止めた。
彼の目は景色の“奥”を見ていた。
「……気をつけろよ。綺麗すぎる世界ほど怖いもんだ」
空気が音を失い、まるで能舞台の幕が上がるように庭園がゆっくりと開けていく。
空気は澄みすぎていた。
雪の白が、目を刺すほどに明るい。
風もないのに、竹の葉が微かに揺れている。
通りには誰もいない。
けれど、そこに“人のいた気配”だけが確かに残っていた。
軒先の風鈴が揺れる。
店の暖簾が風もないのにひらりと翻る。
中には、客も主人もいない。
茶碗の湯気だけが、まだ温かいままだった。
やがて、一行は池のほとりに出た。
鏡のように凪いだ水面に、薄く氷が張っている。
その中を、錦鯉が数匹、ゆるやかに泳いでいた。
最初に見たとき、誰も違和感を覚えなかった。
その動きはあまりに優雅で、流れるようだったから。
だが、近づいた瞬間――プルトが眉をひそめた。
「……鯉、ですか?」
氷越しに見えた。
赤と白の模様の“皮”は、とうに失われている。
それでも、彼らは泳いでいた。
骨だけになっても、尾骨をくねらせ、かつての形を“演じる”ように、優雅に。
その光景は、美しく、そして不気味だった。
泳ぐたび、骨の間に氷の粒が弾ける。
音は小さく、まるで拍手のようだった。
ハオが小声で言った。
「……死んでも“美”を保つ世界、か」
プルトは冷たく答える。
「違います。記憶だけが残っている世界、です」
レイスは一歩、池の縁を離れる。
背筋に冷たいものが這い上がる感覚。
「……やっぱヤベぇな、ここ」
「綺麗すぎて、息が詰まる」
周囲を見渡せば、京の街並みに似た路地が続いていた。
しかし家々の影には、どれも人の形をした氷像が立っていた。
傘を差した女、笑う子供、手をつないだ老夫婦。
どの顔も穏やかで、今にも動き出しそうに見える。
けれど、誰一人として動かない。
彼らもまた“美しい記憶”の一部なのだ。
霜の都・黄泉平坂の路地裏。
あたりは青白い光に満ち、音もなく雪が降っている。
空気そのものが夢みたいに甘く、どこか心地よい。
そんな中、カリストが急に足を止めた。
瞳がゆっくりと、淡い紫に染まっていく。
「……レイス」
その声のトーンに、全員が嫌な予感しかしなかった。
レイスは無言でポケットからタバコを取り出し、火をつける。
「なんだ……」
カリストは静かに、街の景色を見回していた。
氷の街灯、雪に覆われた石畳、凍った紅葉。
そのすべてが完璧な静寂の美を形づくっている。
カリストは遠く五重塔を見上げて、陶酔の溜め息をつく。
「ここ……私の琴線に触れる……」
頬に手を当て、今にも永住を決めそうな顔だ。
ハオは青ざめた顔でお札を取り出し、いつになく声が裏返る。
「ちょ、ちょっと!?考え直して軍人サン!?ここ冥界だヨ!?ここ!!」
そんな2人を見て、レイスは思わず現実逃避。
煙草に火をつけて空を仰ぐ。
「……ていうかお前、慌てることあるの!?」
ハオは大真面目に答えた。
「そりゃ悟っても驚く時は驚くカラ……!」
静寂の中、池の方からパシャパシャッと鯉が跳ねる音がした。
プルトがふと冷静に言う。
「鯉が跳ねました」
レイスはキレ気味に叫んだ。
「今関係ねぇよ!!冬将軍考え直せ!!」
カリストは気づいていない。
「……あぁ、でもこの静けさ、ユピテル様にも……」
ハオがもう一度、お札をぐいっと突き出す。
「ダメ!!絶対目を覚ませ!!」
一方、鯉は骨だけで優雅に泳いでいるのであった――。
氷像たちの目が、ゆっくりとカリストを見た気がした。
プルトが淡々と、しかし鋭く告げる。
「ユピテルいませんよ」
その瞬間、カリストの瞳がハッと戻った。
まるで夢から覚めたように背筋を伸ばし、手袋越しに額の汗を拭う。
「あぁ、そうでした……!」
「あの御方がいなければ。どんな美しい世界でも」
彼は首を振り、息を吐いた。
その声はどこか清々しくさえあった。
「ユピテル様のおそばでなければ、意味がない」
風が戻る。
黄泉の“誘惑”が音もなく砕け散る。
愛だけで死の呼び声を弾き返した、恐るべきヤンデレの信仰心。
レイスが呆れ顔で煙を吐く。
「ヤンデレの鑑だぜ、あんた……」
ハオは肩をすくめて笑った。
「愛が強すぎて死に耐性あるタイプ、初めて見たヨ」
プルトが軽く頷き、冷静に結論づける。
「つまり、黄泉の最大の敵は恋です」
――愛は死より強し。黄泉の街でも例外なし。
足音が吸い込まれる。
雪の下に柔らかい氷があるのか、歩くたびにかすかに鳴る音が、まるで息のように消えていった。
白い庭は静かだった。風もない。
ただ、空のどこかで、誰かの心臓の鼓動だけがゆっくりと響いているように感じられた。
桃の木があった。
枝は広く、しかし一本の実も花もつけていない。
木肌は霜を纏い、息をしていないように冷たかった。
見ていると胸がざわつく、レイスは足を止め空を仰いだ。
「……綺麗だな。けど、生きてねぇ」
ハオが首を傾げ、凍った枝を指差す。
「これ……桃、ダヨネ?」
桃――。
冥界にあってはならぬ樹。
かつて、伊弉諾が黄泉から逃げるとき、三つの桃の実を投げ、追う鬼を退けた。
伊弉冉はその“果実”を覚えていた。
自分を置き去りにして逃げた夫、その手にあった桃の実。
だが、それは決して実らない。
この樹は「逃げる者」を許さない。
もう誰も、あの時のように逃げることはできないのだ。
風が一瞬だけ通り過ぎた。
雪が枝の先で震え、白い粉が舞った。
その下、庭の片隅に小さな祠があるのに気づく、雪に埋もれた氷の祠。
中には、折れた剣と、枯れた稲穂が供えられていた。
プルトが静かに口を開く。
「……素戔嗚です」
彼女の声が、雪の音に吸い込まれるように消えた。
「母を慕って黄泉を訪れようとした、ただ一人の神。
けれど、彼は大宜都比売を殺した。母は怒り、同時に、許せなかった自分を恨みました」
ハオがしゃがみ込み、剣の根元を見つめる。
刃の上に、ひと粒の氷が光っていた。
それは涙の形をしていて、どれだけ寒くても溶けない。
伊弉冉が最後に流した涙だと言われている。
怒りと情が半分ずつ、永遠に凍り付いた証。
母として赦せず、女神として忘れられず、ただ「半分」のまま残された愛。
カリストが息を呑む。
「……これが、母の涙」
プルトは頷き、わずかに目を伏せた。
「彼女にとって、素戔嗚は“唯一戻ろうとした息子”。
でも、同時に“再び破滅を連れてくる存在”でもあった。
祈りでも供養でもない。“赦しきれなかった証拠”です」
レイスが煙草を取り出す。だが、火が点かない。
何度火打石を打っても、火花はすぐに霜に呑まれた。
「……おい、マジかよ。風もねぇのに」
その時、プルトが淡々と呟く。
「加具土命、でしょうね」
火の神。伊弉冉の死因そのもの。
自らの出産の果てに、自らの子によって焼かれた母。
神は母を殺し、母は死を拒絶した。
この世界に“火”が存在しないのは当然だった。
灯籠はどれも空っぽで、芯の焦げ跡さえない。
夜を照らす光は、氷の反射だけ。
「……愛せなかったんだろうな」
レイスの声は煙の代わりに白い息になる。
「我が子でも、“死そのもの”は」
雪が降る、冷たくも痛くもない。
まるで降っているのは雪ではなく、伊弉冉の「ため息」のようだった。
ハオが祠の前で手を合わせ、呟く。
「……母は、まだ怒ってるヨ」
「怒りは愛の裏返しです」
プルトが応える。
「そしてその愛は、火をも拒むほど深い」
庭の中央で、風が止んだ。
桃の木が、ほんのわずかに鳴る。
枝の先に、一輪だけ紅い蕾が揺れていた。
その色は、焔ではなかった。
血のようで、しかし優しかった。
――母は、まだこの世界を手放していない。